第54話 未だ読むな!蓬莱島。

文字数 35,643文字

        未完だけんども、もう公開する。もうしんどなってきた。マスデ…。





ここからは日系アメリカ帰り人たるところのこの私【ミスバカリ・シテヤガリマスデス】が、(簡単に以後は

と名乗らさせてもらおう)。皆さんのお相手をいたしたく思う

……。そこっ!「まったくおもんないぞ〜」と思ってはるところノ〜!、そこ、「ノ〜!貴方!…。我慢してくれたまへ……筆者もまた、これもマターなんとか、おもしろくもせねバットノーー!思いにて、その思い、オンリーににてで…、モア〜必死なんだから……。

私は

(あら)ぶり、また(はや)る思いを、この気持ちを、抑えようと、(やわ)ゲイナーとっ、もしくは(なご)ませたらんと「ナ〜」っと!…その目的にて、東京は浅草における大道芸人たちによってなる即興紙芝居なるも「ノ〜〜!」を、みてきタッテドなノ〜ところだ……。あれはほんと、ワンダフルにして、インクレディブル〜なっ、ノ〜〜…出し物、それデシ〜タ…。

ノ〜、ダッチュ〜ふ…「ノーー!!!」……。


        『あなたもあの作品内にてでは、ご出演されてましたよね?』
         『あの〜お芝居の中で…、それも、

にて……



            そこにつめかけていた者たちの中から声が上がる…。




                その声に気を止めている…




                  『バサ〜ッ!』 


        突如上着を、赤茶のセーターを、脱いで、脱がれて、投げ捨てられた。



         そして、そのまま立ち上がって、なぜかマントを急ぎ羽織りもって、


         開口一閃!なにやらどこかで聞いたことのある、あの凡俗の、


         凡夫の、その極みとしてのものの、声色をもってして〜〜…
             








さ〜て、アホ〜な前置き前フリ「ハッ!」、さておき、おいといて〜、もうこれぐらいにしトイて〜、本稿において「ハッ!」、以下の二枚ノー、いや、もはや四五六枚くらいノー、モデル図を使う。端書きの字が小さくて読みにくいが〜、「バット!」そちらの内容「ハッ!」、さして重要なるもノーでは、な〜いーっ。単なる

としてノ〜〜、それノ〜考えとしてノッ、それにおてノー!我見、それノ〜〜、披露にしかないからだ…。一応本文内にて、ことは繰りされることには、なるとは思う。なんで、デスマス。(劇団ひとりもちょっと入ってたね‥)





                  Re: 先ずはこれ...





日本人はね〜、現実においての外界、つまりは海の向こうにおける世界、それにおいての関しての現実性を、実は持ってはいないんだ……。

としてもーーーだ!。いまだ未消化、未吸収のまんま、それに関しては、そちらに関しては、一切はファンタジーのまま!。観念、イメージ、思い込みとしてのものの、それらの合成にしかならない。なって、いないんだ......。

なんか変なこと言ってるでしょう?。ことは日本人として生まれ

ならば、この事態であるこことが、なることが、もう絶対に避けられないんだ。そこにてもことが(私らとなんとも変わらない生活が)あるんだってことが、認識不可能なんだってことでしかない。幼き頃から成人するまでに形成されたるのマインドが、このことを、阻んで、しま、う(まな)んだ〜…。

ここは単に世にて言われる、遠に昔から語られてある、島国根性ってやつについての、それにおいての話でしかない。これは、余りにも長き時を経ての渡っての、その生存環境においての、それによって培われたる世界認識が、強固に根を降ろしてしまっているっていう、その事実でしかない…。

単一民族における、閉鎖系環境下における、その長期、超長期をもって、してなる、国体国家形成ってことになる。だから、海の向こうに対してはどうしても幻想を抱いてしまうようになるんだ。海の向こうは常世だって…なにかとてつもない贈り物が届けられてくるんだって、いや元々からして私達は、あちら側からやってきたんだって……。

スノビズム、舶来崇拝としての、その思い考え憧れは、何処から来るのか?。
なぜに、それとしてのものを崇め奉るのか?。
何故に青い目金髪の外人さんを好むのか?。

それはそれらは人格においての高度化、洗練化によって表に現れてくるものにおいて、
異常なるまでに非日常を、我らは、覚えてしまうからなのだ!。
それらは人工物としてのその面における発達が、異常にして過酷なる生存環境下において、
顕現してきたものでしかない!。
ある意味、我ら日本人は、それとは違った道筋において準備されたるものである。

日本が現在の国体なったのがBC660。*このことの実際は、とある渡来民族らによるその日本征服の完成完了としての事態なのだだと思う。*こういったことは広く一般的に確認できる。だから悪いってことを言いたい訳ではない。ときの流れにおいては極自然なる展開としてのものでしかない。(一応言っておくと、ユダヤがそう。神に導かれて、他者の所有する土地で、その自身の国を建国してる。またインディアンに対してのアメリカ、アボリジニーに対してのオーストラリアもだ。)*ことの重要なることは、何らかの神への信仰においてまとまってある民族集団が国の頭になるべくしてのムーブメントとして必須なることなのではないだろうか?。

ちょっと脱線したが、紀元前においてのスタートなっていて、黒船来航のときたる1853年を、区切りとするならば、660+1853で、2,513二千五百十三(にせんごひゃくじゅさん)年間を

経てきた、過ごしてきた、生きてきたことになる…。

、この国としての寿命が、かくも長くに渡って続いているのは、あるのは、

、世界最長寿としてのその記録なのだ……。


*本稿の最重要なるメッセージは、これを先に言っちゃうと〜、必ずどっかでここのこと忘れてしまうんであろ〜から〜、この超〜長期の期間において、日本人の心性、精神性たるものは磨かれてきた、きたんだってことにある。熟成ってやつを迎えることが幸運なことにできてるってことなんだ。非常に恵まれていたんだ。もう奇跡的なる程までに!。また祝福されてあったんだよ、その、そういった存在なのだよ、我々日本民族は…。この遺産はDNAに刻まれてある。(この表現は自分は嫌いなのだが、わかりやすいものが他にないので。)二割の者らにおいては、もう確実にアクティベイトされてしまう、されてしまってる。そして、これとしての日本人は、確実に今後も生き延びる。いかなる事態になったとしても、なってしまうと、したとても〜だ!。地下を走る地脈、その潜熱かのようにして…。表からは、もしかしたら姿を消してしまうかもしれないが……。思わぬ形、思えぬ場所にて、再び、復興隆起してくることになるであろう……。

さて、お話しを戻して、この幸福なる事態、その環境が、適っていたのは、日本が四方を海に囲まれていたからにこそある。

であることが、この国に幸いしてくれていたのだ。こういった断絶としての事態が、適ってあったのは、他の国であればあとは二つ。イスラエルとチベット。同じくして閉鎖系であることが民族単位としての、おいての、その宿命であったのだ。*小さな単位でも良しとするならば、あの奇妙なインディアンたち、ホピ族もこれに入ってくる……。

閉鎖系ったって、そのことを適えるにおいてのは、その境界として働く、機能する

そのものを、如何に形成するかにおいては、いろいろと、各自、それとしての様相/内容/条件が違ってくる。いる。

最初の国は、神による直接的な干渉において、民族集団としてのその社会基盤の形成が為されたることから…。決定的な選民としての体験こそがその原因、その集団の根本根幹になっている。集団としてのそのまとまり、我らとしてたり得るに足りる、w、そのアイデンティティーは、神による神からのそのダイレクトな介入があったことにこそに、…このことの意識への記憶への刻印こそが、他国他民族との区分けを、その一線、壁を構成してしまってある。いる。

補記:
各民族においてともなれば、なんらかの指導霊としてのものが、背後ににては関与している。これは間違いのないことで

のだろう。未だ〜、あるのかも知れないが!。これらそらにおいても色々と階級階層としてのものがあるのだと思う。自然における精霊たる存在としてのもの、土俗の信仰対象として栄え養われ育てられてきたもの、既に死したるが、未だ霊体としとどまり続けているものら、その者等団体における集合霊、その他諸々…。カミと呼ぶべきおのにおいてもいろいろと種々多様にあり得るもんなんだろう……。でも猶太のカミは、それにまつわる記録は、たいへんに奥深い……。熱心に記録に残したその事実こそが、ことの重要性を語り、また証ししてある。ことは正に特筆すべきことであったのであろう……。

閑話休題。次のチベットは、これにおいては、日本と同じくして、地理においてのその物理的制約下においてのこととなる。俗界からは断崖絶壁をもてして、遮断/断絶されていたのだ。このことによってこそ、あの国の成り立ちは適っていたのだ。高山地帯においての至極閉鎖された国体形成だったってこと…。この「外界からの他民族の侵入を阻む/阻んである」といったことが、生育の条件としては大きかった。よって、独自の宗教を(ボン+ラマ+密教のミクスチャー)、その集団独自の精神性/霊性を、育むの意味において、大いに役立つこととなった…。つまりは、利として働いてくれたんだ、働かし、得てたのだ。そんでことはとんでもない高みにまで達する、至ることとなる…。また片や、皮肉なことに、この制約は、他の一面において、致命傷として働いてしまうことになる。国そのものにおいて、そのユートピア化が進みすぎて、武力の増強増進を、一切まったくしなくなってたこと、してこなかったことにある。やめてしまったんだ、まったくやんなくなっちゃたのだ。いつの時代、近世現代に至ったとしても〜!。よって中共による侵略においては、最初からのバンザイ状態。いとも簡単に征服されてしまう。*チベットは実は謎なのだ。元々は、非常に野蛮にして好戦的な民族であったはずなのに…。確実に何か、大きな、特別とされるべくしての事件が、あったはずなのだ。ある時期を境に、極端に霊的なるものへの志向を、見せ始め出したのだから…。

そして最後は、我らが日本だ。これは簡単、海に囲まれることをもってして外界からは孤立できてた。また鎖国政策を長きに渡って徹底的に国是としてきたことによって、独特にして独自の文化を育むことができた。かなりゆったりと、まったりとした形にて…。

鎌倉時代の極端な荒廃疲弊の時代があって〜戦国時代の荒々しくも活発にして野心旺盛なる時代を経て、千載一遇のチャンスを誰しもが持つことができた〜そうであった〜があった。この時期が、国家としてまとまる落ち着く為のクライマックスとしての最後の転換期。徳川幕府による統一に落ち着いてからは〜、もう太平楽が一番ってなムードが支配的となる。それとしての体制へと、全国民、諸手を挙げて、流れ込んでってしまっていたのだろう…。

安定期においての、その枷として働いてくれてたのが士農工商としての身分制度。これは広域範囲に渡ってのギルド制だってこと言えるんじゃないだろうか?。いい面と悪い面があったっであろうに。いい面においてを着目するならば、家業としての仕事に精通することができた。行く代も重ねての技の探求が、その深めができた。その道の求道において、長きに渡っての探求が洗練が、可能であった、可能となっていたのだ…。

蛇足:当然に誰も彼もそのすべてがってわけじゃないんだ。八割はあいも変わらず何処だって何時だってぼんくら…。残りの二割においての話さ。でも〜、全体としての洗練もその道の推進もあるにはあった。これもそうするそうなることが適う、その環境が、その期間時間があったればこその話だったんだ……。

ちょっと脱線…

全体、全景としてのその長き時代を経ての展開は、教科書にでも当たってもらうことにして。

重要なる要素、希有なる事において、それに脚光をあてて、浴びせてをしておきたい。仏教の伝来についてさ。

この難しい教えが(簡単に聞いただけでは理解することができない)日本国内において広がりを見せたのかってこと。また何故に彼方起源のこの教えがこんな遠くにまで伝搬してきたのか?。

先にあとの方の回答をこの自分から提示しておくと、ブッダが余りにも偉大でありすぎたが為になんだろう。それのとしての、その覚者としての出現が、激震たり得、すぎた…。よって伝播におけるそのモメンタムってやつが巨大なものとなってしまっていたのだろう。(彼はイエス以前の出現だからね。)

ブッダの教えは、ただの耳学問だけでは、マインドにおいてのみにては、習得がもう確実に、不可能なんだ。また拝めばなんでも願いが叶う的な、そんな思い込みだけで浸透するお気楽なもんでもなかった。だって、先行的に神道ってのがあって、神様への信仰は世にて広まってはいたんだし。馴染みのない新たにして新興としての仏様ってやつに、どれほどまのでご利益ってやつがあるのかは定かではなかったはずなんだ…。

三つの条件が揃ってたってことしか考えられない。一つに、ことにおいての理解力がどうしたもんなんかえらく備わってた人が、

、いたんだ。それもかなり

近い位/位置/立場において。その当時の帝からの信任がたいへんに厚かった。もはや、この彼の直言であるならば、無碍にすることは、帝においてとあっても、絶対に、できない‥そう思わせるほどまでの人物が。そして最後、三つ目としては、この人物は、少なくとも阿羅漢としての位にまで、その修業の成果を達成している仏教徒としての人間と、会ってないとおかしんだ。

ことの判断、峻別は、直接に会うをもって、その一瞥における直感にて、すべては判じられてしまうものなのだ。もしこの人物が、真に偉大にしてなるその理解力たるものを、持っていたならば〜…。なにかをそこにダイレクトに感じるをもって、すべてを理解してしまってある。きっと、これは見逃す、見捨てるべからざるの、絶対に軽んじることのできない、至極重要なることであると、国を纒めるにおいて、徳政をひくにおいての、また政ることそのものにおいて、必須必需なる教え、価値観、考え、ずばり智慧たるものであることを、即座に、確信として、悟ってしまう……。

この人物が厩戸皇子こと聖徳太子であり、そしてこの彼が、直接に相まみえることが適ってたのが、高句麗経由で日本に渡ってきた恵慈(えじ)と、百済経由にて渡来の慧聡(えそう)になる。伴に、仏の教えの伝教を目的にして、日本へとやってきた。恐らくは本物中の本物がやってきて、

のだ。じゃないと、太子が「ピンとくる」わけがないのだ。*ことは確実に

のことじゃなかったと思う。高価な贈り物によってではなかったってこと。また、その教えそのものも、太子において理解がされるものとして適正に要約が伝達がなされてあった。なによりも実際に、カリズマチックな何らかの波動が、それの披露、お披露目たる事態が事実が、二人において為されてあったのだろ思う…。太子は感覚において、いや霊感において、異常に優れておられたそうなのだから…、一を聞いて百を覚るぐらいされてたっておかしくはない。新興の教えともなれば、文章文言においてのその記述、その記載と、ことの成果としての《その《実例が》》、証拠、証明として、絶対に必要で、あったのだ……。

補記:
あと必要なのは、僧院制度、その仕組み、その仕来りとしての詳細なるまとめ整理がいる。出家に対してはおいては税から免除するとか、位の振り分け方、その条件等…。いろいろと細かな、ことは極め尽くされた、尽くされている規約/規定としてのものが、また必要であったのだ…。この辺においてが、鑑真和上の登板となるのではないだろうか?。

祭政一致が元々なのだ。これ意外に方策はない。だが、神にお伺いすることが適うその人間がいなくなってしまったのだ。時を経るに従い、時代を下るに従って。そんで、ことが分からんもの、声をきけないもののその立場は、省かれてしまうようになってしまったのだ。当然と言えば当然なのだが、以降は、ろくな事にならない、その展開となっていってしまうのは、必然であったのであろう。このことは、ことにおいてのこのトレンドシフトは、洋の東西を問わない。


これに関しては時代経過のその配分を見ておこう。

スタートのブッダがインドにてが、まあBC6世紀として、そんでAC600に日本に伝来っと。ブッダが亡くなられてから約1,000年たってからが、日本におけるスタートなんだ。そして江戸の終わり、幕末としてのそのタイミングを黒船来航1853年とするならば〜、1,253年間において閉ざされ独自の環境下において、それは広く日本人のこころの中に根をおろしてたってことになる。ついでに道元が自ら治め、達成されたるところの、仏教修行の肝、要諦であるところの”禅”を、日本に持ち帰ったのが、1,227年。国内初のほんまもんの”達成者”だってことになる。これ以降に626年間があった。この猶予としての期間が時間が貴重だったのだ。後続としての育成者らを多く世に送り出すことができたのだから。そして空海!。これは割愛する。とにもかくにも、人が教えを実践において習得する、またその意味を中身を明らかにするにおいての時間が大いに十分にあったのだ。このことは、先のチベットと同じくよく似ている…。

大変重要な日本固有の要素が抜けている。それは余りにも奥深くしての、また恵まれた自然としてのその環境だ。世界で最も豊かにして美しい国なのだ。それも四季の変化をもってしてもの。基本、水には欠けるはずなのだが、どうしたものなのか、偏西風が大量の水を定期的にこの島へと運んでくれている。そしてあの富士山の所在。月太陽、自然と伴に、最初から象徴となるよう備えられてあったのだ。誰によって?!。ガイアによってだってことに自分ではしてる。ある種の理想郷が東洋においてこの一角にて敢えてをもってして創られたんだ。なんの為に?。バックアップの為か、もう一つ別のキリスト教を育む為に〜かのどっちかだろう。猶太とはまったく逆の重心、その進展の筋道を経る、征かせる為に。*つまりはブッダの悟りを再誕再現させるべくだ。核事としてのアウターフレームは、やんわりと、ふんわりと、されど動かし難く変えがたきものとして、背後にて所在させてある。つまりは、天皇制、帝の所在、在籍のことさ。*渡来民族らをその単位としてまとめてあったその神話が、遡れば、キリスト教、秘教としてのそれだったのだろう。古事記における「造化三神」の話しについてを、繰り返す必要はないであろう。あれは確実に父と子と聖霊の、それらあれらの変奏としての表現でしかない。

とにもかくにも、非常に恵まれた、神聖霊大地母神らによって、庇護されてあるその環境において、その揺籃の時代を、孵化を進化を果たす果たしうるべくしてのその時間を、その為のときたるを、日本としては、日本人らにおいては持てた、与えられてあったんだ。その期待されてある達成を、成果を、それにおいての津々浦々にまでいたる熟成の進展を進行を伝搬を、成果を全体として、それをもってして更に一段上にて果たす、果たしてゆく、果たしていって、もらうべく……。


儒教と武士道、そして一般民衆においての、その生き方ににおいて、
どういったことが意識されてきたのかが抜けてる。
いうやね〜、どれほど我ら日本人は恵まれてきたのか、
良い環境において育てられてきてるのかをやりたいわけなのさ...。


これも抜けないようにしなくっっちゃ…

我々は、

話した。日本人はなぜあれほどエネルギッシュで

富んでいるのかという私の質問に対して、グルジェフは、日本の 生活状況は

を育てることを許さず、

育てるようにできている
と答えた。
教育ではなく、日本の

のだ、と彼は 言った。

既に公開済みの資料なのだが、

ことの核心は日本人は国民性として、謹厳実直なる民族としてあるだ。
Gと同時代となるのは明治あたり。
ならばだ、起業家精神が吹き上げてたってことにも合点がいく。

何故に、ここに語られてある資質が、形成されたるのか?。
生活そのものにておいて、ともなれば、それはどういった強制力だったのか?
それとも各個人内において結晶している、何かの価値、道徳律に基づいてのことだったのか?

たぶん、後者が故のことだったのだろう…。

お天道様に恥じぬ、その生き方ってやつが、何事においても方針となっていたんだろう。

なにごとも、なにごとも、一足飛びになるものはない!。

種をまいて、育てるとしての工程が、その期間が、その立役者としての人間群がいたはずなのだ。

寺子屋の存在も大きかったであろうに…。




各人自覚はないであろうが、成長するに従って、社会人たるものになるべくしての、その階段をその階層を適宜、登ってきたならば、立派な社会人として認められてしかりなる人間になってる必要がある。その国の国民として、自己を確立する。してしまう。いや、せねばならないのだ。意識的であろうが、無意識においてであろ〜が、そのかの民族としての括りにて、自身を確立することが絶対の課題なのだ。いや、結局は遍く完全にそれとしてのものとして、確立されてしまう、しまってる〜のだ〜〜!。





その国が持つ文化において、

をもって。各国みんなばらばら。経てきたその歴史がまた独自なので。でも、全体性から見れば、それは幻想、まやかしでしかないことは重々自覚しといた方がいい。あくまでも便宜的なるものの考え方でしかない。

*でもこのユニットってのは必要なんだ。個人でもいい、血統としての家族、都道府県、国家としてのまとまりはどうしても必要なんだ。だが、不思議なことにあまり大きくなりすぎるといけないんだ。I、Weとしてのスケールには限界がある。育成、成長、育み、進化を目的にするならばだ…。

*すべて人類を一括にて統合することは、自然としての観点からすれば、してはならない、出来ないことになる。ある種の相対化としてのドライブが猛威を振るうことになって、成長においてのとってのドライブが、そのモメンタムが、失われてしまうことになるのだから…。よって、かの者達が願い求め力づくでも達成せんとする世界統一は、確実に間違い。

*そういった行動、運動に対して、違和を唱えるべくして、あの自国ファーストとしての考えは、右的な保守的な方針は、政権に対して違和を唱えるべくしてのムーブメントは生まれてきてしまうものなのだ。(←これが途絶えたとき、その状況において天変地異が避けられなくなる…。)

*背景にあって、ことの実現化を果たしてくれているのは、明確なる”我ら”としてなる集団/ユニットとしてのまとまりになる。アイデンティティーの形成(I/We)が、どうしてもいるんだ。それとしての単位ユニット、それそこに自動的に形成されてある場が肝要になる。それにおいて、それにくるまれてある中で、皆で力を合わせての奮闘努力、精進、進化進展においてでしか、ことは、為し得ないんだ。このことは、誰もが皆が、

理解してる。知ってる。分かってはいるんだ。集合離散としての吸気排気としての連続往還運動は、どうしても必要なことだし、たとえ放っといたとしても、起こってきてしまうものになる。偏っての、またその極を、死守せんとするその硬直的なる態度、執着ことこそが一番ダメなこと。避けるべきことになる…。往還としてのその運動を止めることは、呼吸することを止めることであり、それは死ぬことに、死せるものとしてとして生きることにしか、ならないからだ……。

*この辺が落としどころかな?。


長らく、おそらくは世界最長をもって、恵まれた環境、外界から切り離された形において自国を育むことができた。ことは結果論だが。そこは人間にとって、決して楽園なんかではなかったが、じつは世界の何処を見渡してもこれほどまでに自然に恵まれてある国はなかったんだ。寒暖としてのその高低は激しくまた大きいが、それも時を待てば、確実に過ぎ去ってゆく…。何よりも四季をまたいでのその変化の様が見事にして美し過ぎる…。どうしたものなのか、定期的に雨雲がやってきてこの地の全域に大量の雨を降らしてくれる。これは奇跡的なる現象なのだ…。

この地にて、良き種が撒かれてあった。

そして、長きのときを経て、その種から多くの芽が生えい出て、成長していった。

そして今度はそれらこそが今度は新たなる種を作り出して、それを地にて撒いてあったのだ。

多くのまた新たなる、最初のとは、やや趣を異にする、趣向を変える、新種の別種の種を、

この地にての収穫物として、結んであったのだから…。


曖昧にして、至極子供じみた内容、それとしての教え、まるで、お伽噺かのような説話にて、粗方は落ち着いてしまったのいだが、それはそれで良かった。その分、世に広く広がりやすくなり、伝搬されてるに易くなったのだから…。

仁義礼智忠信孝悌を八つの玉と看做して、それにたとえて、神咒としてあったのは誰の何における作品だったのか?。殿に主君に仕えることを本懐とできた、しうるようになってたのは何故だ?どうしてだ?。

儒教もまた武士道において、それとしての教における存命の活路を開いてあった。

核部、最深部に、親も系譜もないままに出現した、純粋に単独独立としての神であられるところのもの。それとしての三神を、我らは祀ってあるわけだ。それら三神は、決して、人の前に姿を現わさず、目には見えない神として語られてある。三柱って表現もある。

これらっていったい何なのか?。

シヴァ、ブラフマー、ヴィシュヌとしての三神と同義だろうって考えてもいい。
父、子、聖霊、それらをもっての三位一体のことだとしてもきっといいんだろう。
ラジャス・サットヴァ・タマスたるものとしての代行者。
能動的積極的、否定的破壊的、中和(仲裁)としての作用力、そららとしてのペルソナ。

当たらずとも遠からずっと…なんだっていい。お好きなものを当てはめてりゃいい…。

大事なのは、絶対的なる解答としてのものが、備えれれている、埋め込まれているってことだ。

表にては決して絶対に出てはこないが、そういったこができる、そういったもんで語れる存在なんかじゃないから、ここ日本にて、民族指導霊として、存在は、されているわけだ……。

  I AM JUST I AM.     WE ARE JUST SUPPOSED TO BE AS WE ARE.

これらが三神が背後にて控えてくださってて、更に地球上にて最も、一番美しい環境、それとしての閉鎖空間、島にて日本って国は育まれてきたんだ。きてたんだ。おっそろしいながい期間にて。

そして、この地にては、更に、仏教、密教、儒教としての種が撒かれ、それらは決して枯れる廃れる朽ち果てることもなく、全体として、大いに実りたるものをもたらしてあったのだ。

こっからはまた後で‥‥。









     ちょっとここで脱線する。話しのテーマを少し、変えてみよう……。

またこの絵だ。氷山の写真になる。これはある種、断絶をもってしての俯瞰だってことになる。ではその視点は何処立ってのものなのだろうか?。この視点を持つことを、可能にしてくれるのはなんだのだろうか?。そして、この視点を獲得しているものは、いったいどれだけの割合、いるのであろうか?…。さいごの問に関しては全体を見渡してとなれば、ほとんど存在していない。いたとしてもその多くは観念において知っているまで。教養としてそういったものの見方もあるんだな〜ぐらい。ここに切実なる現実があることなど思いも至らない。だから…この視座を身に着けて、それを重要にして切実なる事実のモデルとして考えて、それを意識して現実を生きている人間なんてまずいないんだ。限りなくゼロ(0)に等しい…。

このモデルはずばり日本としてのものだとすることもできる。また、元々は”私”としての、その人格の形成出現の事態を表すにおいて登場させたものではある。でっ、今回は、これを、地球上における人類としてのその総体、それにおいての自己(観念)だってことにしてみよう……。

理解すべきこととして、たいへん重要なることは、成り立ちのことになる。どうやってことの一切は成り立っているのか?!。端折る。全てを読み解く理解するにおいての最初に意識されるべきことは、天と地としての象限モデル。水平面にそれを貫通して無限大なる垂直軸ってことに集約される。



この絵は、書きかけの別稿のためのものなのだが、先にこっちで公開する。してまう…。これが、まったく意識はされてはいないのだが、認識おいての不可視のフレームなのだ。我々はオレンジの平面においての生きている。これが、この世界が我々の生活世界なのだ。これを超えていってはならない。この内にて、この次元のみにてで、まずはやるべきことを果たさなければならない。

天地(てんち)世界(せかひ)創造主(そうぞうしゅ)たる全能(ぜんのう)(ちち)なる(かみ)よ!」この一節は誰かさんが暇なときに編んだもんになんのだが、彼が富に意識てあったのが、「

」ってところ。上方たる縦軸が意識されて、その上方の彼方に天ってのが結ばれてあって、そんで次いで、私達が生きてあるこの世界としての(オレンジ)平面ってのになる。これらのにおいて成り立ってある、形成されたるの、その全てをお造りになった神よ!ってこと。肝心要なのが、この構成によってなるオレンジ平面が、私達に人類にとっての生存可能

対象範囲なのだってことなのだ。このオレンジにて現されてある世界を、生きてある世界であることを、それのみを、しっかり、ハッキリ、強く、意識しての発語なのだ...。

この空間認識を超えてのことは現実感が伴わないんだ...。たとえ宇宙空間にていたとしても、この座標面にて限定されての空間認識は去ることはない。この平面は天を意識することによって「立体空間」としてのものになる。だから、立体平面としての世界であるってことにも、なるのだが、それはそれで、また良からぬ展開になってしまう。ことの本質たるものを見失い、認識が複雑にして冗長になってしまうんで、ただ単に ”地” ってことだけでいいんだ...。

自分がここで強調しときたいのは自分らが与えられてあるその領分において、そのやるべきことをしっかり果たしてなさい、励んでいなさいってことにて尽きる。なぜなのか、人類とされてのその知性は、ここから

遠くへてと

きてる、

しまってる。このことにこそ、既にことは遅いのだが、警告を発する、警鐘を鳴らしときたいだけ。

     簡単に言えば、皆どうしたものなのか、夢心地、夢の中にて生きている。

要は、その愚かさに付け込まれてなのか、誰か、何らかの存在によって、彼方へと、誘い出されてしまっているのだ。より観念においての、その異常なる発想、その発案ににおいてに、重点が衆目が関心が置かれるようになってしまってきてる。

なにがアンチエイジング(不老不死)だ!、なにがヴァーチャルリアリティーだ!、なにが世界統一政府だ!、なんでわざわざ人の生存がまったくかなわない、(もー絶対無理)、火星やら金星に、月にこだわってあるのか〜だ?!。

新たなるバベルの建立、それ以外のなにものでもない。無駄な努力、無意味なるその行為!。

手元の問題は、自然/環境破壊、公害、エコシステムの、人間自身によるその破壊なのだ。全体性を意識されないところでの、その身勝手なる振る舞いこそがなのだ。このことの原因こそ、夢見心地としてのその実生活からの乖離、観念のみにてのその遊離、独走、暴走としての事態においてなのだ。地に足がまったくついていない。手元の問題、現実の生活においてこそ、我々の関心努力のその焦点は、あてられて、しかるべきものなのだ。

*ベルゼの最終章は電気の使用生産拡大がなにを、どんな事態を、この地球に招くのかについてだったね……。

自家中毒症としてのその事態に誰も彼もが国さえものが陥ってしまってる。夢見の中で、ただ大きなモメンタムにおいて沿ってで動かされてしまってる。ちゃんとした船頭さんが、何処にも、誰も、いないんだ……。みんなどうしたものなのか引っ込んでしまってる。アガルタに…w。

ところでさ〜、脱線の脱線になるんだが、太陽系って一枚の平面上にて、すべての惑星が並んでるでしょう?。そんでもって太陽を中心にして周回してるってこと知ってるよね?。これってなにかおかしくない?。もしおかしくないのであるならば、このことからは何が言える?。とんでもない事実がすぐ目の前に開けてる。そんで、お偉い学者達は、この事実に、一言も触れてきてない。それも長きにも長きのときを経た今に至っても!。見て見ぬ振りを、気付かぬフリをしてる、してきてるってわけさ…。



さて、貴方なれば、この現実において何が言えるであろうか?。ことは簡単に考えなければならない。日常における経験則をもってしての、それの常識をもって!。必要なることはスケールの相対化をもってしての巨視的なる視点による総括だ!。…ところで、ちょっと前に、地球平面論って馬鹿げた話がさも本当かのようにして喧伝されてたんだが、貴方はコレ聞いたことある?。あります?。ある意味あれもまた真実ではある。その様に理解することも適う。でもことは自己の視点を何処にどういったスケールにおいて持つかによってそのことの内容は実相は変わってきてしまうものなのだ。

平面として成りたる、そう呼べる空間が、形成されている。されてしまっている。これの原因究明がまだ為されていない。確実に太陽が関与してる!。すべては同時に同着なるをもって形作られたのであろうと、この自分なんかは考えている。では、なぜに単一としてのその平面上においての出来事となったのか?。なってしまって

?。かなり手の混んだ調整が元からされてたんだろうな〜なんて自分は思う。なんらかの意志においてのその反映であったが故に。余りにも整いすぎてるんで、どうしてもそういった考えになってしまう…。

*結論としては、生活圏、活動圏と、それを取り巻く全体性としての包括圏は、まったく別なる世界になる、別なる世界に属するものんだと考えるにしかない。全体としては、それを測る認識するにおいては三次元的なとらまえかたにならざるえないのだが、それはあくまでも人のマインドにおいての便宜的なものにすぎない。座標軸をもっての空間認識(これが無自覚にしてヒトに元から備えれられている認識においての骨子、認識のフレーム)を、なんにでも当てはめてはならなかったんだ…。当事者、当時物ににおいての生活圏、活動圏におけるそこにおいての認識まで。天地上下の垂直軸と、平面平原としてのその広がりにおいての認識しか、意味は、意義は、本当のところはないんだ。持ち得ないってことにおいて。よって、それ以外の包括的なる世界に関しては、あくまでも観念操作、まったく実際には現実においてはなんの意味をなさない、なんの役にも立たない、そういった架空の空想空論としてのその学問にしか成りえなんだ…。

*結局は、目に見えない、自覚されきってない制限下において、人は、惑星は、生きている。存在してるんだ。その知覚が許されてある平面構造においての世界上にて、そこで確かに覚える現実感にて、そこにすべての原資を集中させるべきなのだ。だから、なにを言いたいのかと云うと〜、月へなどゆく必要はまったくなかった。火星や金星へなどもっての他。もっと人類総出で、その知性なるものを総動員して、解決すべきことは山程ある。

それにおいてのことがなされていないことこそが、問題なのだ。自身らが生きる生きてある世界のことを考えもせずに、考慮もせずに、何故に彼方の、直接には関係なり世界のことに執心してあるのだ?。

もう締める。その世界平面にて生きる、活動するにおいてともなれば、シカト意識されるべきはあとは垂直に伸びる軸線、高低を測るにおいて必要となるその観念、概念、その考えのみだ。これとしてのメジャーは実は見えないんだ。現実現物との関わりにおいて、それが認識、認知されるまでなのだ。山を登らずして、天地の開きを知る味わう測ることはできない……。





自己、自分としてのその存在が、それとしての真実が、それとしての本体が、海そのものと同体であるところの、海面下にて存在してある氷山そのものであるならば〜、なっが〜、地球においても太陽系全体として、それにおいての一翼としてとらまえる、考える必要がでてくる。

ポイントはなんだ?。相互関係において、ことの一切は成り立っているってことが一つ。そして大変重要なることは、ことの核心としての無視できざることは、なんらかの交信が、物質の授受が、相互間において、行っている、行われているであろうってことなんだ。

ここは簡単に関わる人々と貴方ご自身間におけるその実際が、参考モデルとして、採択されなければならない。結局は似たようなことになっているは間違いのない事実であろうことから。w。

ここでまた端折る。宇宙としての全体性、それにおいてのメカニズムの中に、地球は組み込まれてしまっている。このことにとやかく云うことはできない!。ありのままを受け入れざるを得ない!。さて、このメカニズムとしてのその目的の枢要は、各自が受け持つところの何らかの物質の生成とその贈与にこそある。これもまた現実をモデルにして考えるべきところではある。誰かにとって必需なるものを貴方は作ってそれを渡す。その代わりに誰かから貴方が必需とするものともらうってな寸法さ。意識をせずともギブアンドテイクは、放っといても勝手に起こっていってしまうものなのだ。

さて、宇宙全体としてのそのシステムは、それ創った方がとても頭が良いからなのか、実に巧みにして、精巧、また万全なる働気を果たすべくできている。宇宙全体の保守メンテの為ならば、もはや非情なるマナー態度にてことに当たるようにできてしまってる。つまりは必需なるものを生産提供するその義務を放棄するものがいたならば、強制的なる手段をもって、それの取り立てを果たすようなってる。そうできている。そいつに金がないならば、他の、いかなる手段をもってしてもその借りた金をしっかり利子まで含めて、取り立てを行う。ことのすべては自動稼働をもってなる全体システムにおいてそうなってしまうまでのことなのだ……。

だからこそ、人が、人類が、その為すべき勤めを果たさないようであるならば、地表においては天変地異が起こるようになってるんだ。パートグドルグ義務を果たすにおいて生産放射されるアスコキンの量が足りないともなれば、なんらかの事態において、大量の人の死が、起こるべくしての事態が、創造、創設されることになる……。

全体性の中に健全に生きてあればいいだけの話しなんだが、その真に全体性から有利、分離、逸脱してしまうってのが人の性のようだ。「エゴが為に」の、その一言で、原因についてのお話しは、おしまいになるなのだが……。

宇宙を(もしくは自然を)主とし、人類を従なりと意識して、あちらっ側を、尊んであればいいんだが、違うでしょう?。あちらっ側の秘密を暴いて、切り刻むをもってことを明らかにして、支配蹂躙を闇雲に行ってるだけでしょう?。金の為に。自分だけの幸せの為に。虚栄心にその身をその心を焦がせて、すべてそれにおいての欲望にて染まりきってで。


この器官は、第一に現実を逆さまに知覚すること。第二に、外部からくり返し彼らの内部に入ってくる、すべての印象があるデータとなって結晶化し、それが彼らの内部に<快楽>とか<愉快>とかいった感覚を引き起こす要因を生み出すというものだ。この器官が<クンダバファー>である。

こうして人類は一時的に、クンダバファーを植え付けられ、それが現在は取り除かれているにも関わらず、今でも現実を逆さまに知覚し、<快楽>と<愉快>の

(ひた)りつつ、お気楽なお花畑の

と共に、宇宙の三脳生物レベルからいえば

ほどの

(おちい)っている……。


「意識的努力と、意図的苦悩が、必要だという本能的配慮がおまえのお気に入りたち(地球の
 三脳生物)の精神から完全に消え失せたと見るや、大自然は別の何らかの方法でこの聖なる
 物質を抽出する措置をとらざるをえなくなった。そしてまさしくそれが周期的に起こる恐る
 べき相互破壊のプロセス(戦争)だったのだ」









ところが外界としての世界は違ってた。大変に良くないムーブメントが加速度的に広まっていっており、植民地政策を名目としての侵略行為のことね、荒々しくも狂熱に浮かされたかのような悪しきトレンドがどんどんと拡大してってた。略奪、強奪、蹂躙。我が為に働く奴隷としての立場を付与する。武力をもってしての支配だ。このヨーロッパ系大国が行ってある侵略ムーブメントが、日本を飲み込むのも最早時間の問題ってところまでになってしまってた…。

この辺において現実認識ができていた人達もまた不思議なことに日本にもいたにはいたんだ。あの勝海舟とかね。外部、外つ国のすべてをひっくるめてのその動きに、ムーブメント、そのトレンドに、危機感を抱くことができた。要注目、要観察が意識されており、かつ驚愕してあったのは彼の海外の大国勢が持つその軍事力、そのテクノロジーだった。余りにも桁外れに進みすぎていたんだから…。このことの推進力となっていたその野心や野望、欲望欲求願望が問題だ。国家レベルでのエゴの暴走が核心であったのだから。我が国日本、太平楽の中にて生きる我々の現状と比ぶるならば〜、持たれたるのその危機感は考えるだに恐ろしい、そらもう恐ろしい恐怖意外のなにものでもなかってであろう……。

だからこそ富国強兵が、いや、強兵するために富国とならんとするスローガンを上げてたまでなのだ。このままでは日本を含めてに極東がアジア全体が、あれら、野蛮なる民族国家らによって植民地化されてしまう。食ミンチにされてしまうではないか〜!と…。このことはかなり既に目の鼻の先の現実感のある事柄、その予測として感じられる、そういった内容だったんだ……。




見識眼があるものが

現実を、その外国を、識ることこそがなによりもの始まり。危急の要請だった。そこに、海外、外部にて、起こってあるムーブメントを理解することこそが大事だった。各国の歴史を踏まえての、各国の関係性、連合性を、理解しなかればならなかった。もう一歩踏み込むならば、金子を賄ってあるのが誰なのか?そのグループの正体は?またその彼らの思惑、その目的とは?てなところまで踏み込み、事実を実体を掴む必要があった…。

これがユウヤであり唯依だったわけ。彼らの奮闘は、こうしたことを直接に、ダイレクトに、理解した上でこそ、発揮されるべきものになる。ことは最終的には霊的闘争としての構え。そういったものに至る。至ってしまうものなのだ…。

全世界のそのすべてを飲み込むべく、経済は、そのスケールを、その関係連携性を、拡大してきてしまってる。すべては経済の全体性において、組み込まれてしまってる。*(長きときを経て、それとしてのものへと成長してしまって〜、現在あるのだ。そこにはもう既にコドワ達の生きて暮らしてきた密林にいきる共同体も、もう存在していない。今から約50年前まではそれもまた存在していたのだ)。では、その全体性としての目的は、その指向性はなんなんだろうか?。単なる、国家単位においてのエゴイズムでしかない。バチカンもまた、自身が組織としてのエゴイズムにしかあらないことがわかっていない…。

ことは、知らぬ関せずの立場を許さない。そんなことができようがないんだ…。だが、日本人のその心性としては、どうしてもこのことには、ピンと来ないんだ。所詮は海の向こうの他人ごとだとどうしても思ってしまう、思いたい。敗戦としてのその体験があったとしても〜なのだ。どうしても、結局は、そうなってしまう。そうなってしまってる…。これが、このことが我ら日本人の特性なんだ。とても優秀なんだけどね……。





こっからは幾人かゲストを招いて、その彼らの口からいろいろと語ってもらおうと思う。

日本という国をどう観ているのか?。どうするつもりなのか?。それと伴に、なにを既にやってきているのか?。どうしてなのか?。何をこの国対して思っているのか?考えているのか?。

これが面白いのが、いろんなことを調べてのその陳述じゃなくて〜、イタコ語りをもってしてのその語りなのだ。だから〜、根拠ってのはまったなくない。あくまでも空想としての語りでしかないことはここで先にハッキリと伝えておきたい。サンキュー!。



この自分も、

存在としてのものへと早変わりだ!。

まず欧州においてその彼らの子孫たちが日本という国を意識しだしたのがいつなのか?!。

自分はその始まりのときを1500年としている。便宜的に。何故この頃をそれとするのかと云うと〜簡単。鉄砲が種子島に伝来されたのが1543年だからだ。その中國船にはポルトガル人が乗っていてこいつが鉄砲を持ってきてたのだ。確実に商品として、日本国においてのそれの販売を、目的にしてだったのだろう。

マーケットとして意識してあったからには、既に何らかの情報があったからだ。なにをもってその海の彼方の国である日本を知ったのであろうか?。東方見聞録が一つ。だがこれのみではことは足りない。たんなるお伽噺、ほら話の類としてのものたり得たからだ。ではより現実的な、日本人たるものを証しする物証としてのものがあったのではないだろうか?。自分はこれを工芸品、美術品の類であったのではないかと推測する。


中國支那、韓国、インドネシア等の東アジアからのものにおいて、いたく独自性を感じさせるものがあったのだ。侘び寂びをキーワードとしてのいたく高貴なる精神性を素朴にして宿しての、そういったものを見るものに感じさせる、いわば洗練としての事態を構えたものとして、彼らの目には止まったのだ。

この彼らは芸術品への嗜好が富に高かった。たいへんに優れた見識眼たるものを持っていた。だから、本当に良いモノに対しては非常なる好奇心、そして買い占め等の貪欲なる野望を持つにやぶさかではなかったのだ…。この時点で日本はアジアにおいて彼らのブラックリストにのってしまっている。

そして、黒船による侵略外交後の、その国体の立て直しにおいて植民地化をたやすく許すことはなかった、でもまだ彼らは未だ我が国のことを気に入らない、なかなかに手強いなぐらいにしか見てなかったはずだ。問題となってくるのが日露戦争と第一次世界大戦における日本の戦果だ。これは決して見た目においてのその軍事力だけのおかげではない。下手をすれば本当に彼らが内らにおいて声高々に語ってある神国日本としてのその姿が本当なのではないかとの危機感を、懸念を彼らに抱かせてしまったってことにある。神風としての庇護が加護が彼の国に於いては働いてあるのだと。

このことが大きかったのだと思う。感触的には、その神は我らがよく知るあの神とは違う。だが、非常に近似なるものとしてのイメージがどうしても持たれてしまう。実際のその力の表し方においては……。

ある種の危惧、危機感において、それは世界の覇権を担うものは我ら以外には絶対にあっては困るとしての思いからなのだが、徹底的にこの国だけは討滅してしまわなければならないとの強迫観念にて支配されてしまうことになった。そこであの原爆の投下の決定、実行だ。ことが実際に使われたこの事実こそが、その意思表示の証になっている。

そんでGHQが頭脳犯として敗戦国日本に全権を持って入ってくることになる。

こっからが、その彼らが何を思い考えていたのかがイタコとしての腕の見せどころなのだが、これはもうすぐやる。その前に後もう少しだけ……。


敗戦後の経済復興とそのごの発展において、またもやその異常なるところを我らは世界に向けて披露してしまったのだ。アメリカの経済圏としてのその一端に組み込まれたとは言え、(海路のことね)そのことにはそれなりに妙味はあったわけなのだが、想定を超えての生産力たるものを披露してくれた。日本一国で正解の資材のそのすべてを生産することも可能は可能だったのだ。そんで、急ぎプラザ合意をもって円高へともっていった訳なのだった……。

日本人は勤勉で真面目だったのだ。それも異常なる程までに。世界におけるその平均と比べたならば、富にその能力は高かった。このことが相手方においてしっかと確認がとれてしまったのだ。

よって、その国毀損破壊においては再起不能なるまでの徹底的なるものとしてあるざばなるまいとの決意を彼らは抱くに至ってしまったのだ。それも魂そのものの毀損破壊に至るまでの徹底的にして非情なるまでのやり方において、子々孫々においてまでその頽落としての影響が残る程のものにするべく……。

はいこっからがイタコ業としてのものになります。(実際は既に始まってしまってはいるが…)。


またあとで.....

ここはかなり力をやらなければならない。これをもって、2Fにおけるあのシリーズにもけりを付けなければないからだ。あっちの方がずっと簡単になる。その分あの彼は救われないんだが…。
人における人類たるその生存種においてその極北としての悪たるものが如何に紡がれるのか?をやんなきゃならない。それを語るにおいては神と人との関係をどうしてもやっとかなきゃならない。それにおいての不和が全ての問題となってきてる。

イエスを救世主ととして認められなかった、認めることがもはやできなくなっていた、あの髪によって選民されたるところの人々が火急の案件になってきてしまう。その対象となってしまう。

その後の彼らにおけることにおける断罪としてのその内容が凄まじい。

人のこころを失うに余りある、あまりにも長くしてのその逆境がある。そのことの結果として、その民族は力を知性において持つに至る。この世の支配の鍵を、その実験を握る。その意固地なる、己が過ちの真実に、本質に、気付く、思い至る、悟ることもなく…。堕ちた落ちてあるあの巨龍のその支配下に、その庇護に、そちらッ側の陣営として、入ったのだ。ロックフェラー財団、イリュミナ、ロスチャイルド‥…。

彼らは知る、情報こそが力であり、また権力なのだと。だから、一切は秘匿されてあるべきなのだ。公開されるものは、それにおいての目的においてのみ!。

1815年のあのイギリスにおける公債の偽りとしての売り仕掛けにおける大成功がすべての、以後の世の流れを決める決定的なものであったとこの自分は観てる。何をどうするをもって、楽に手早く簡単に巨万の富を獲得できるかをその身をもって実践して悟ったのだ。仕組みをつくって、それをおいても、金と権力の力をもって、その仕組みを、システムを、自分たちにとって都合のいい形にて働かせる。

ある意味、メタ(上位)レベルにてのその所在であり、そこからのコントローになる。つまりは自らが労をとる必要がまったくない。よって、安全面に関してはノーリスク。

情報もそうだが、基本としてよくわきまえておかなければならないのは、人々は、人類のそのほとんどは馬鹿なのだ。それとしてのものでしかない。だから、組織たるものそのシステムにおいては急所としてのものがどうしても生まれてきてしまう。

キーマン。

それとしてのものらを我らが支配に治めてしまえば、その組織は我らが自由になる。
このことも実は簡単。恐怖と安全満足安定たるものをもってすればたやすく軍門に降る。

世のあらゆる制度においての、それらの最高権威としてのものらを我らが手に、我らが配下のものらにて固める。

人類は馬鹿だから放っといても権威たるものになびく。

権威者らにおいてのもっとも大切な仕事は、我らの意に合った、目的に沿った、ルールをその法律を作り定めることにこそある。

ルールメーカーこそがゲーム自体を支配し、また勝利することができる、それが万全となる。

なぜ我らがこのプログラミンとしてのものを、プロトコルたるものを、特別に抽出して重要視するのかというと、その行為自体が適っているのかというと〜、先に他の民族においてはそれらに関してはあまり意識的ではないのかと云うと〜、彼らは未だ遅れているから、知性的な意味において〜、あまり優れていないから、さて我らにおいては神より直接に与えれてあった戒律としてのものが富に重要であったからだ。あの十戒のことを言っている。あれこそが我ら民族そのものにおいてのドクトリン、原理、アイデンティティが根ざすべきところのものになる。

人は決め事において、つまりは法律、掟において、盲目的に支配されてある、支配されてしまっているものなのだ。それはミクロレベルにおいてともなれば、遺伝子情報としてのそのプログラムであるとも言えるのであろう……。





さて、向こうからしたら、はっきりと、この日本を、世界における国家レベルにおけるその突出性から除外しようとはっきりと方針決定を果たしている。既存すべきターゲットとして置いてる。暗黒の知性をもってして、長きに渡り、いろんな方策を実行してきてる…。


簡単なのだ。その精神性が、なんにおいて育まれているのか、なにによって守られているのかを考えて、それを逆手に取ればいいだけのことなのだから。そのバウンダリーを、当人等においてもよくは理解されていないそのメリットを、デメリットと、なるべくして、利用してやればいい。それだけの話しさ。

先ずはその精神性が依って立つ基盤/地盤を無効化してやる。根無し草としてのその状態へと追いやる。ことの実際は、金への、地位名誉への執着、贅沢への嗜好を、それへの欲望をさんざ煽ってやるのさ。それと同時に、精神的、理念的リーダー、ほんまもんの日本人たるものらを粛清してしまう。権力を、既得権を持たせることによって傀儡と化したるのものらを使って、彼らこそをもってして、真人たちをみな海の藻屑としてしまう、抹消し果てててやる。ことにおいての真の理解者たるものがいなくなれば、形骸化としてのその流れはもう確実にして万全、最早盤石なるものとなるであろう…。

天皇ゆかりの血統の子女は、みなミッションスクールへと通わせたれ!。

夢見をより深くより豊かにする…してやる。これは彼らならではの、お家芸なりで、根さえ切り離せば、離してやってしまえば、あとはかってに、自分たちからそうなっていってくれるであろう…。太平楽たるその状況に染まっての、染まり果てての、その極楽とんぼぶりをきっと…発揮することであろう…。*漫画/マンガ、アニメがズバリそう。「なんとなくクリスタル」ってその極地としての読み物だった。あと、「失楽園」「ノルウェーの森」とかの人気小説。この民族は既に阿呆〜に、なっても〜とんのとちゃう?。

ネットの浸透において、ことは海外からの操作が、今なれば叶う/適う/出来る!。

自給率など上げさせるものか!。○○なる移民らの大挙流入をもってして、その民族としての純粋性をも薄めてやろう。価値観の相対化ドライブをもってして、もはや何が何だか分からないようにする。総ハスナム化こをがこの閉鎖環境においては妥当なる戦略になる……。


ユウヤは日系アメリカ人。最初から外部としての世界を、既に世界を覆ってあるその現実を、知っていた。先に、骨身もって味わい知ることが、運命付けられていたのだ。あとは日本人としてのその魂に完全に目覚めるだけの話だった。それこそが真の物語としての、それにおいての彼の課題だった。唯依は現時点におけるその最先端となるべくしての現実を、知ってもらうべく、当人が

理解するべく、当地、アラスカへと送られてきてた。

、もう

おぞましく、また悪辣卑怯なるが当たり前なのだ。そういった悪意においてのテクノロジーにまで、人類は踏み込み始めている…。戦争に勝つためならば、なんだって使う、なんだってやる、その世界なのさ。このことは想像においての提出なんかではないんだ。事実、そうでしょう?。細菌兵器、サリンなんてもんを、

、念頭に置いてもらえればいい。ことの事実の前には良心なんてもんは霞んでってしまう…消失してしまうのさ。特にかの民族、法律律法の効果たるものに自覚的なる者ら、選民意識の塊としてのものらが…ひどい……。結果たるものにおいてを最重要だとするならば、いかな手段であったとしても、肯定されるものだと、そう考えている。これが極左たるものらが使うところのその方便、その自己正当化……。

人口増加に危機を覚えるならば、覚えたならば、強制的なるをもって、口減らしをするまで。
ことは、未来の人類の幸福たるものに、間違いなく寄与するのであるから。
そんでコロナっと。まだまだ続くよ。これからが本番なんだろう……。

外界としての世界そのものを、現実こそを、理解する必要がある。このことは仕事をもってしてでしかできないんだ。それも、かなりの深みにまで至っての踏み込んでの仕事でなくっちゃならない。成功失敗の積み重ね、試行錯誤の極端なる遂行によってのみ、全景としての現実は測りうるのだ。一芸に秀でたならば、他の自身に関わりのないことまでも理解ってしまうようなる。

シナリオライターさんは、地政学にも軍事にも通じてる。それは確実に、実務においてその内容に関わってきたからこそだ。そして、大変興味深いのは、この彼は、ひとの心の機微にも通じているってことなんだ。ならばだ、文系としてのその素養もお持ちである、あったってことになる。


人としての心をも、お持ちで、それにおいての価値も、よっくに理解されている。


五十六さんなんかの人生においては、おそらくは、大変に尊敬されているのではないだろうか?。


またその最後には涙されたことかと。


あっそうそう…太平楽の夢に、それとしてのムードに浸っている者達においては、
そういったものらが最も恐れてあるのは、勇気をもってなにか常ならず事をすることにある。
もうそういった気概も持ち得ないんだ。何故ならば〜、生きてゆく当が、もうないから……。
そういったものはみな、み〜んな、海外に移されてしまったんだ。

誰によってだ?。

日本政府の意向ではない。では誰の、誰においての、その意向だったのか?。

世界中の中央銀行におけるその株券、その大半を持っている人達さ……。

表にてその名が出てくることはまずない。

今となっては尚更に…。




   ちょっとここで、雑談がてらに、また違ったトピックスをもってこよう……。

   さて、これはなんの図だ?。なんについての、なんにおいての表しになる?。



通常サプライチェーンと呼ばれているものにおけるその利益に着目しての図になる。下の横線は云わば河の流れのようなもの。いろんな会社、ABC...の役割をもって製品は出来上がってくる。ことは単に一者、全体において出来上がってくるわけではない。

この図におけるその要旨は、始まりとしての原料サプライを担う会社とエンドとしての製品の陳列棚を確保してあるその会社しか儲からないってことの真実に関してなのだ。通常このグラフはスマイルカーブと呼ばれている。この名付けの意味は、さておいといて、この取り分の不公平さは何処から来るのであろうか?。ことは、買い手が強いってこの反映に他ならない!。お客様は神様で、そちら様のご要望においては、下々としては逆らい難いからに他ならない。自分方の取り分を是が非でも増やしたいから、サプライヤーとなる者たちを絞りまくりやがる。それとしての仕事しか購買にはありはしないんだ‥ほんと毟り取りやがる、自分とこの利益をちょっとでも増やさんが為に〜。

では、両端としてのA社とG社は、何故に儲かるのか?。基本、巨大資本ってやつがなけりゃ〜、その商売はやれないからさ。A社は巨大装置産業としてのもの。G社は百貨店、スーパーマーケットみたいなもんさ。直接に顧客が商品そのものにアプローチできるその陳列棚って表現が妥当なとこだろう。この両端をやる、やれるには、大変な資金がいる。資金のみならず、物流をこなす、その兵站力ってやつがなけりゃ〜ならない。つまりは、海運、鉄道、保管の為の倉庫業のこと…。これには国のサポートや認可ってやつが絶対に必要だ。ちょっと端折ってはいるが、なんとなく、そのことの難しさは理解してもらえると思う。

さて、現場におけるその機微、その制約ってやつは理解してもらえたもんだとして、その視点をワールドワイドにてのものへと拡大してだ、この日本が、世界市場において、A社G社でありえているものはどれだけあるのだろうか?。どれだけ、取り残されて、いるのだろうか?。もう答えを述べる必要はあるまい。ほとんど押さえてはいないんだ…。

IT革命のその推進その進展において更に我ら、日本人にとって困った事態が起こってきてしまってる。それは、それは既に、スマイルカーブでもなくなってしまってるってことなんだ。それを厳密に現状において表すならば、こうなる……





つまりは今それにおいての関しての図たるものにおいてともなれば、も〜お手上げ直線と、
呼ぶにしかありえない、そんな事態に、なってしまっているのだ。











いまここにおいて、この私マスデスが、ハッキリと、またしっかり、皆にお伝えしておこう…。この事態たるものにおいては、「搾取などという姑息にして下劣なるその考え、その思い思惑は、また、それとしての悪事/悪意としてのものは、まったく当方においては、採択/採用は、されては、為されてなどは、いないーー!!」ってことなんだ…。

すべては

この形に、この姿にて、収束、収斂するようできている、

まで…。では、何が、何おいて、こうなるべくしての事態たるものは、整ってしまっている、整ってしまっていたのか?。

コンピューターをもってしてのネットの構築、その利用において、ことの当初からこうなる、こうすべくしての構想が、そのプランが、その計画が、持たれては、あったるのだ。誰に?、何処の国の人間によってか?。それはアルビン・トフラーが、あの彼の出自こそが、この答えを教えてくれている。主体としてのその覆いたるものは合衆国だ。だがそれは単に隠れ蓑としてのものにすぎない。


介入:

ここで語られていることは、非常に

その内容になる。それとしてのものになってるんだ…。いったい、そこにおいては「なにが違っているのか〜?」だ…。

そう、有られもない表現をすればだ、ことの結果は、その内容は、まったくの同じもの。付加価値をもってのその報酬が、驚くほどまでに狭められ、一部においてのその独占、専有となってしまっている。

「可能な限り、我が口座、我が懐の内へと、上がりの一切が、流れ込むようにしたい、そうしたったりたい…」。根底にあるのは金銭に関してのその貪欲にしての、強欲なる加減だ。これこそが一切を図り進め進展させるにおいてのその原動力となっている。そうであることには間違いはないであろう……。

ここにはね〜、「

には〜」と言うべきだろうか?…、一種の、思考におけるテクニカルなマナー、賢い智慧たるものが潜んでいるのだよ。あの

してのケダモノとしての思いやら感情に、それらに染まることなくしてのその行為と

しての…、ことにおいての、自分の頭ン中における、そこにてするその思考の整理のことを言ってる。要は「マインドにおける、ことのとらまえ方を、いかに持つべきか?」に関する

になるんだ…。

その思考やら考えが、どういった色合いにおいてのものであるのかが、

重要なのだ。

先に下手な考えて持ってしまうと〜、ことにおいてのその事後に、その直後に!、予想外想定外の展開がどうしても起こってきてしまうことになる。ことにおいてのその結果は同じでも、それに対しての思考の持ち方が殊の外、重要になってくる。

なんのことを言ってるのか、なんの話しをしているのか、解らないであろうから、
一つ例をとりあげておく:。

とある会社が、大手としてのその会社があるとする。
貴方はこの会社に営業をかけている。自社の製品を買ってもらいたいから。
それはまったく新規としての提案になる。だけど、既にその会社は、貴方の会社とは違う他の会社、同じ商材を、ほぼ同じ品質のものを、買っているんだ…。ずっと、長くにおいて〜購入してきている…。

貴方が取りうる手段は唯一つ。そっちよりも

購入できることを提案するだ。「でしたららば、うち(当社)から購入して頂けるのでしたら、この価格で、お出しすることができますよ〜」っと…。


まっ状況としてはそんな、こんな、もん…。


ここで問題になってくるのは、貴方がその行為の動機において、
「どういった思いにて、なにを考えながらに、なっているのか〜行っているのか〜」だ…。

よく起こりやす、やってしまいやすいのが、「その商件をとる(盗る)」だ。「その商売を自分ところのものにするー」だ。

これって、この動機ってのは、浅ましくして、浅ましいばかりの、いや、悍ましいばかりの行為でしかないしょう?。

こういった思いにおいて仕事してるってばかりなら、なんのプライドも尊厳も持てない、持てるわけがないでしょう?。品性品格てやつにまったくもって欠けてるんだ…。そこには智慧もなければ工夫もない。ただのバカがやること、やってること。「正攻法ではあるが、余りにも知恵に欠けすぎている」って、こう思う

ってもいるわけさ。*(この彼らとしての者たちがあとで問題視されてくる…。つまりは周りのすべてが皆が馬鹿に観えてしょうがないって人たちのこと…。)

問題となってくるのが動機においてはさておいといて〜、自分の思考のその持ち方にこそある。品格/品性を未だ保ちながらにしてことは為されなければならないのだ。「盗る/奪う」では駄目なんだ。絶対に駄目!。この思いにおいてとなったならば、それはそれで困ったことが自動的に起こってきてしまう…。この思考においての”ちょっとした”工夫こそがあとで大きな差をもたらうことになる。このことを彼らは熟知してるんだ。ほんの些細な工夫、その努力が、ことにおいてのその揺り戻しを自分にとって有利なものとしてくれる…。

「盗る/奪う」は、主格としてのものであるが、これの主格を、顧客ベースにて置き換えてしまうんだ。すると、その自分としての行為は、その営業姿勢は、「お客様ご自身に、購入先を、置き換えてもらう」になる。ことの主体たるものは、お客にて、置き換わってしまってるんだ。そうするとどうなるのか?。この辺に関しては説明が難しい…。あとでトライしてはみるが…。

ある種の色に染まることから、ある種の責任を、回避できることは確かなのだ。自身においてのプライドを、保ったままでいられるってのが大きいんだろな〜…。

なにか‥異常に細かいことを、あまりにも小さなことに、こだわっていると思われる方もおられるでろうとは思うんだが、ここに、その視点を変えると、とても重要なる、非常にクリティカルな事柄が関係することになるのだ…。

先の、「搾取などという姑息にして下劣なる考え、その思い思惑は、また、それとしての悪事/悪意としてのものは、まったく採択/採用としての行為は、なされてなどいないーーっ」となることの、その根拠に関わってきてしまうものなのだから。

ことの核心は、その動機はまったくの同じなのだ。だが、どうしたものなのか、結果にまつわるその影響が、違ってきてしまうのだ。

一つには繰り返しにはなるがマインドにおける瑕疵がともなわない。伴うことがない。ぷらいどにおいて傷がまったくつかない、残らない。これは一種の自己欺瞞でしかないのだが、意外なほど、このことは有効に働いしてしまっているのだ。

言葉には使うものが知らない、気付かないほどまでの、効力ってやつがあるのだ。いや、もうそれは言霊としてのなにか奥深くしての霊力ってやつがだと言ったほうがいいかもしれない…。

この彼らたる存在もまたこの自分として理解している「ある事柄についておいて」、非常に意識的、自覚的にである。よっく知ってるんだと思う。

それは何に関してなのかと言うと〜、世界システムに関して!。ヨック注意して聞いてほしいのは、この世界ってのは人の世を超えてあるその世界ってことになるんだ。つまりは、語弊があるかもしれないが自然ってことでいいかもしれない。もっと自分としての言葉で言えば、あの霊子コンピュータにおいて管理されているメタ世界ってことになる。

「ちょっと付いていけんな〜」っと思っておられるそこのあなた…そのお気持ちはよくわかります。あとでじぶんとしての具体例を添えますのでそれをもって某らか、ご理解を賜ればと思います。

閑話休題。この世界システムにおいて、我ら人類は、各個、個別単位で監視管理監督、コントールされているのだ!。これの殆どは自動稼働としてのものとしてあるんだ。だから、この自動性においての、その断罪としての介入にも、備えてなけりゃ〜ならないんだ。

ことのすべてはどういった思い、その動機において果たされているのか?実行がなされているのか?になる。このシステムが監視しているのは、マインドにおける、そこでの

になる。

神たるものであればその奥深くしての本意もご存知ではおられるが、このシステムに於いてともなれば、これでは、言葉を介してのその思考こそが懸案事項なのだ。

先に懸念/警戒すべきの、まず考慮に入れておかなければならないこととして、次点における、そのことによって引き起こされる影響、そこに伴ってある、くる、作用力ってがあるんだ。よっく注意しておかなければならないのは、それによる断罪としてのもの。それが起動されるこをを阻んでおかなければならない。

そこにおいての、ことの肝、その断罪のトリガーとなってくる、いるのが、けもの、けだものとしてのその次元に堕ちた上で、それとしてものにマインドが染まって、彩られて、ことを行うってことだと、要約することができる、適うと思う…。

要はだ、庇護としてのその身分、それとしての在り様から、脱落、逸脱してしまうのだ。
よって、よくないことの侵入を、事後には許してしまうことになる…。

この良くないことの中身は、千差万別、種々様々なるものとしてある。

この自分なんかの場合は、「インフルエンザ」だった。この話はまたあとで…。自分のこれまので人生において、二回これにかかっている。これの内の最後の一回がとてつもなく印象的なその疾患だったのだ…。これについてはまた後ほど。



*またちょっと例外的にして特殊な事例になっちゃうんだけど、こういった思い出いると、病気になりやすくなる。病魔の侵入をたやすくゆるしてしまうことになる。いや、ハッキリ言って、この思いに囚われたときが、囚われたることこそが、ことのトリガーなのだ。この悪しきものってのもいろんな種類、ケースがある。このことは法則においての自動発現、強制顕現になったいるってのが味噌。このことはもうこれまで。

彼らはよくしたもので、こういったことにも既に自覚的なのだ。この悪しくしてのその法則発現からいかに逃れるのかもちゃんと熟知しいる。ことは簡単なのだ。

「お客様に、こちらからの購入へと、切り替えていただく、代えていただく」までなのだ。


つづく…

プーチン大統領、

他国へ軍事侵攻できる大統領令に署名

大義名分がいるのは何故だろうか?。



そうまでも、しなければ、ならないほどまでの、世界の盟主に、なんとしてもならんとしてそのの野望を、彼らは持つにしかなかった。既に長きに渡る歴史にて、持ってしまっている……。

頭が良いので、ことの急所、梃子となるべくしてのもの、ことが回転運動するにおいての軸心たるものに関しての、その理解と、その応用に対しては、驚くべく嗅覚と利用に長けている。
村の掟、決まりごと、皆の総意をもっての決め事、ルール法律規定プログラム、プロトコ‥。

*自由競争の環境下において圧勝するが課題だった。よって、ツボを心得たものらが勝つのは当然なのだ。だが、そこに良心、人類愛としての要素は皆無。キリストを救世主として、それであると拒絶したことにより、ことのすべてを完成する最終コードが、それへの尊びが彼らからは抜け落ちてしまったのだ。欠落してしまっているのだ。「隣人を自身だと思って愛する」。「貴方が関わるそのすべての人間に自分がして欲しいと思うことをしてあげなさい」。

かって私は中国は、いや共産党は、猶太をよく研究してると思ってた。だが、ことは違っていたのだ。彼らの指南役として、猶太人

、党内部において、活躍、いや指揮を、とっていたのだ。(既に現場を去ってはいるが…。)このことは馬渕さんがいなかったら自分は知らなかった分からなかったことになる……。

その彼らが、表にでることは決してない。だが、これも、その自己顕示欲の為なのか、物を言う、語る、書くことにおいては、確実に、この私以上のものではある……。だから、結局は、名乗らなくても、知ってるものは、みん〜な知っている。





まとめとして…


なんたることだ!。この日本を考えるにおいては、一つの、異常にして特別なる、その”解”が、与えられてきてる…。なんと、もっとも核心的なるその解答は、ここ日本は、【蓬莱山】としての世界で、あるのだと…。

このタームが、日系アメリカ帰りであるこの自分の頭の中に浮かんできたことには訳がある。最近テレビの中で、どっかの山に関してのものだったのだが、その山を、その地の商人たちは敬いまた崇めてたってことに、この連想の起源を原因を持つ。

たしかに山中は異界だ。俗世としての人間世界とはまったく違ってる。このことは山を実際に登ってそっちら側に身を置かないことには決して理解はされない。そこは既に人界では確実にない。山であるがゆえに、俗界とはなりえない。人としてのその文明を、自由を、やりたい放題を許さない。環境としてはね。山が山としてあるのは、それが高みへと向かって急な坂をもって成り立っているからだ。

霊山神山としてのその考えは二つの根拠にあると思う。一つにそこがどうしたものなのか異界として人には感受されてしまうから。これも、どこのどの山でもそうだってことではないんだが…。妙に清廉なる、清く、いたく清々しくしての、精妙霊妙なるの”気”にて山全体が包まれてある、ってな印象を持っているところがある。自分が知る限りにおいてともなれば、あの鞍馬山がそれだ…。

もう一つはそれの見栄え、遠くからの見晴らしにおいて、それそのものの存在感と、天へと向かうその高さを意識させるからだ。

結局は、その山を崇めること、信仰することは、”天”を、意識してのその行為でしかない。

それのメタファーとして機能しているまでなのだ。

これは、これもまた、魔術としてのものになる。

何らかのたとえとしての対象において、それを写像とみなして、それへのダイブをもって、本体、核心部へのアクセスを果たす。それは目には見えないが、たしかに、確実に、存在している。大きすぎて、巨大にして、偉大すぎて、人の認識力においては、とらまえ切れないだけ。

でも実感においてなんとなくそれが在り、居り、力を揮っているいることは分かるんだ…。

そんで、対象となるべくしての具体的なるダミーを、人は用意する。それが山。

これもまた魔術にして呪術にしてなるもの。

一旦それはそれだと、それとしてのものだと確信したら、当人が当人等が了解したならば、
それがチャンネルと化す。そのもの事態は実際に存在しているので。
ことは見事に呼応するのだ。

だから、ここ日本においては、山のみならず、実在としての天を、神を、また仏を、
それらへと通じるチャンネルを多く持ち、備えていたんだ。

なんなのか分からないが、よくは知らないんだが、尊きもの、ありがたいものとして、
民衆の多く等において、その観念は、広く、長く、持たれて、きてたんだ。

あくまでも抽象的、曖昧なるままではあったろうが…。

難しくには考えない。そうであったればこそ、良かったんだ…。


四季を通してその変化の著しい、自然、それが豊かなる大地たるものがあったればこそ。そこに展開する変化に、あり様に、有様に、背景にて働いている力を察することができた。適っていた。


曖昧にして遠いままではあったが、霊妙にして微妙なる、奥深くしてある本体との交信が、当たり前として持たれては、きてたんだ…。

繰り返す。このことは豊かなるその自然に、また水源に、恵まれていたからこそ。


猶太があくまでもご本尊ダイレクト、また明文化をもってしてのその自律であったれば、こちら日本は閉鎖系としてのその環境においての間接的なる、あくまでも感受性においてのその感受においてこそのその理解その了解、それに、それらにおいての自律であったのだ。

マインドにおいての、それが紡ぐ観念大系からの縛りからは開放されてある。

両方ともに大事だ。

だが、可能性において、二つは分かたれてあった、別々に備えれれていた、ってのが現実だ。


神そのものにおいても同じことが言える。

ダイレクトに、それそのものを拝む崇めるを目的としての神殿。

片や、こちらは、中身のない伽藍堂としての、あくまでも器として考えるべくしての…

もはや、すでに、声を聞くこともできぬままの…までの……ただの極楽トン‥ボンク‥。

でも、それでいいんだ。彼は‥…。

彼はあくまでも

、その護符、シンボルに、すぎないのだから……。

日本というこの独特なる文化にいおいては、それはそうで、そのようなものであってこその、
ものになる。

として、直系男子として、いてくださってる(このことだけは絶対条件)、存在してくださっていることだけで、

もう十分なのだ。

その存在こそが、我ら日本人にとっては本当の神殿なのだ……。






では何故に日本という島国をこの自分は【蓬莱山】であるなどと云うのであろうか?

どういった連想においてそうなってしまうのか?。



こっからはまた後で‥。
















最後のこの絵の選択は、これが船としてのものになって

にある。亀は世界そのものを表してあり、またこの日本だっていうこともできる。この図が生きるにおいては意識されるべくしての、必要最小単位になる。このモデルとの比較をしといていただきたい。





元々、このモデルは、創世記の出だしにおいて、なにが為されんとされていたのかを語るにおいて用意したものになる。あのあれよ〜、なんにもなくって、ただ水が表面を覆っていたってやつ…。その表面を神の霊がなんちゃらかんちゃらって出だしのところ。

ここに強調されてある座標軸をもってして表されているその世界が、我らの領分なのだ。
天と地を貫いてある軸線。なんのこたぁ〜ない。天を意識しなさいって。そこにて本源ご本尊たる方がましましておられるんですよ〜って。海の上に国土たるものはある。そこが私達が暮らしてある場所、世界。この世界構造を改めて根底のフレームとして意識させる、改めて徹底的にもう覆すことのできぬようにしてビルトインする、その目的にてあそこはある…。

これに基づく世界観しか私達には必要ないんだ。

基本、これを超えての話しは、そのことにおいては、切実なる現実性たるものはないんだから。

その世界内にて責務たるものを全うしなさいだ。

その結果は、死後において、明らかになる。








こっちのモデルにおいてはまたあとで、いつか……。

ちょっとだけ‥あの移行/移動としての矢印はなんなのか?。

これがまた不思議な現象があるんだ。それが起こるんだ。

ときに、成り上がり、もしくはこの自分の様に放逐ってなドラマが現実には起きるんだ。

ここに神秘的な理由やら、なんらかの意思においての介入、それにとっての都合はない!。

あくまでも大宇宙における摂理においてでしかないんだ。

大昔の天皇が穢多非人の地位に追いやられたってこともあった。

また、あのダウンダウンのように、最外周に幼少期を過ごしなから、過ごしたればこそ、
中央に躍り出てきてしまうようなことにもなった。この実際は知ってるでしょう?。

このことにおける影響力は看過できない。
なし崩し的にモラルってやつを徹底的に破壊してくれよった。
ことは伝搬していってしまうのだ…。



循環としてのそのダイナミズムが肝心にして重要なのだ。

なにによって、なにと直接的にコンタクを持つのか、持てるのかにおいて。

それとの接触においてでしか真の活力たるものは手に入らない。

本質だよ‥それがなんであろうが、真に望む、欲することに、全力を傾けてあるまで。

ダウンタウンは糞ガキとしてのその遊び、あくまでも仲間内の誰かをイジメる、毀損する、ばかにする、貶めることにおいて、それを真剣に楽しむ、笑い飛ばすをやってたまで…。なんいおいてだって巧拙、センスってものが活きてくる。

真剣に当人本人等が楽しんでいたからこそ、脚光を浴びてたのだ。衆目を集めてた。

ことはなんだっていいんだろう‥…。

当人がなにに喜びを、楽しみを覚えるのか?見出せるのか?!

この当人ってやつは、その人間の魂においてだってことなんだ。

このことにおいては、その人間は強烈な放射ってやつを獲得する。

ことのその内容においての骨子を、辺り一面に、転写するものとして。

結局、良いも悪いも、影響を皆に与えてしまうことになるのさ……。


何かをそこで失って放流/放逐されてしまう。そこでなにかを得て、それをもってして中央へと
舞い戻ってくる。そこにて居場所を、大いなる権力を手に握る、入れてしまう。

天空の星々においてその影響力も、きっと関係しているのだと思う……。

ことに際して起こってあるのは、ある種の、(霊的なる)化学反応……。

それと確かに、なんらの身に見えない存在、例えば、守護霊/指導霊とかの、助け、介入も、

あるんのかもしれない…。

あと、外周部のバウンダリーは、あの点線で区分けしたところ、

実際にはそこには何も区分けたるものはない。

ある意味、その広がりは、無限、無制限、無尽蔵だってことになる。










まず最初にお伝えしておきたくことは、本内容においての、話者/解説者たるものは、この自分は、かなり

だってことなんだ。どう云う意味においてなのかと言うと〜、社会化としてのその事態を、日本より先に、アメリカで遂げている。それもその契機は、瞬時に、ドラスティックなるをもってして…だったんだ。詳しくはここでは語らないが、既に必要ないことではあろうが、とにかくにも、

においてのことなのだ。それも、まったくのゼロベースでの出現でありその登場となっていた。

社会化という言葉において、なにをこの話者が言ってるのかと云うと〜、あるがままの自分として、関わるすべての他者と、なんのバリアーもないままに関われるってことなんだ。当然そこにはTPOをわきまえての、臨機応変なる自分の調整ってのが利かなけれならないのだけれど…。操舵の一切は良心としての本質にあらねばならないんだけれど…。自分を開いて現して、向き合う現実その世界に迎合した、その世界が、その場所が、アメリカって国であったまで。

そのことにおいて自分が受けた影響ってのはとても巨大なるものだと思う。至極短い期間ではあったが、マインドへのことの刻印はとても大きかったんだ。ことの結果として、自分は英語でしゃべるときの方が、流暢で自由自在なる…。この話しはここまで。要は、この自分にとっては、日本って国の方が、社会化ってことの達成においては、後発なのだ…。

ハッキリ言って、その立場は、社会的なる責任の一切から切り離されて、通常はそれらによる支配は誰もが避けられないのだが、それらこれらからの一切の拘束から、解き放たれての、自由な身においてのことなんだ。だから良寛さんを提示したんだ。

補記:
ただし、隠居としてのその身と一旦なりたれば、一つの制約が、新たに伴ってくる。きてしまう。それは社会の歯車としてあらずにある以上、経済的な意味においてのリターン、つまりはお金だ!、また名声や評判を

、社会から、得るってことは、もうできないんだ……。あくまでも世間世界との関わりは一方的なるものでしかあれない。不特定多数‥?に向けての、それら個別にして特別なる、選別選択されしものらに向けての、それらを意識してのものとしかならない。あくまでも○を動機としての、その思いのみを原動力としての、不埒なる、勝手気ままなる発信にとしてでしか成り得ないんだ…。

から、初めてこの自分としての世界への出現は開始されたのだってことになる。またヨタヨタ、ヨチヨチ歩きだけどね。私の創作においてのその作品群の変化を参考にしてもらえればいい。段々と、なにかが、エスカレートしてってるでしょう?。現実においての周りの人達へとの関係も同じなんだ。理解が深まり、干渉においてのその踏み込み、深さも格段に激しくなっていってる。もう下手な考慮はまったく必要なくなってしまってる。自分という存在を空なるものとしてのそのままに、もうプライドも恥も怒りもなにもない、それが求めるままにて振る舞ってあるまでなのだから。だから、この自分が日本を日本人を知るのは、まだまだこれからのことになる。それが果たされてこそ、自分もまた本当の日本人になれるのではないだろうか?…。





急にこのアニメまた見たくなってきた……。これ最初に見てた時、あの「ブラム!」とおんなじで、世界は既にこんな風になってしまってんだ〜って思ってたんだ。実相としては〜だが…。




















こっちが単に「ブラム!」の二番煎じで二匹目のドジョウを狙ってたまでなんだろうね。
ああいった形が良しとされるなら、ならばだ、これはどうだ?的な感じ、その作品だった。







BC660 ここがスタートっと..
AC1553において揺籃期としてのものが終わる。
 この間が2,513年という気が遠くなる程の期間になる。
 つまりはこの月日年月において日本人というものは熟成されてきたのだ。
AC1945にポツダム宣言受諾があって、これ以降は別の流れとなる。
 つまりは現在の2023-1945=78年間だ。





彼らが未だよく分かっていないのは、日本にて起こったことは、後に他の国においても起こるってことなんだ。日本を、日本民族を根底から破壊する、劣化、低劣化、程度の低い移民らによってその血を薄めようとするならば、そのことの結果は、全世界に向けて、伝搬して言ってしまうこととなる。


低劣化、劣化、痴呆、白痴化としてその流れ、この展開は、
世界規模において、既に散見されだしている、確認されてきてる…。
彼らは、我らが共に、雛形であることを、認めていない……。





ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み