第7話   I am that I amとは?

文字数 3,331文字

老婆心でこれやっときます。
一般的にはどうも要領を得ない解説ばかりだから。
同じくワケワカメとあいなりましてもご勘弁の程を!。

なんらかの宗教に長く携わってきてないとこれ理解できません。
理屈的にはグルジェフとマハラジ に詳しい。
マハラジ は情報提供が進行中ですよね。

基本、こいつは、ヒンドスタン・フロアには似つかわしくないものなんだ。
ユダヤーキリスト教フロアに入れなきゃなんない


だけどそれらの単体のフロアは現在ない...。



「ウッキィーーーィ!」



「てッいうか〜そんなこた〜どうだっていいんだーーーーッ!」(*1)


まず、このことについてを考えるためには、最初に誰が誰に何のために”現れた”
言葉であったのかを知らなきゃなんない。旧約の出エジプト記3章14節がこれの
最初の登場になる。

あらすじ的には...モーゼは神からえらいミッションを申し付かる。
奴隷となって暮らしているイスラエルの人々を、エジプトから連れ出して逃げよと。
そんでモーゼはみんなに〈神命〉で「御座りまする」って説得せにゃならなくなった。

でもそうする為には貴方様の名前が「いりま〜す」と神にお尋ねするわけ。
あなた様はどなたですか?と訊いたわけよ。すると神は『我は有て在る者なり』と
答へられた。さらに皆にこのように伝えよと。『我有りといふ者我を汝らに遣わし給ふ』と。

【 I am that I AM. --- (今ここに)有りたる我は、在る我なり。】(当然意訳)

これは特別にして特殊な記号だ。聖書は、特に神代のものは、”作り話だ/創作だ”、
と考える人が多い。いつからか、神が直接人間に語りかけることがなくなったので
これはしょうがないと言っちゃしょうがないこと。しかしだ、この記号の選択は、
人間の発想からは出るものとは思えない。確信犯(モーゼ)か、少なくとも何らかの
霊智に触れた人間による総括/閃きとしか思えない。

固有名詞でないことも一つだが『我はAMせる我也』と、be動詞単体のみで語りきって
しまってる。このAMが恐ろしい。圧巻たり得る。be動詞を単なる記号と理解している
方も多いと思う。単なる”は”だろとかね。動詞ですよね、「存在」を意味する。

脱線: יהוה 。これは『ヤー』の表音文字なのだが専門家が翻訳すると、
I am that I am となるらしい。となると、あれらの呼称は後から便宜的に
付けられたものに過ぎなかったのかもかも?。


先行的に自分はグルジェフに親しんでいる。彼の教えるワークに、I AMを絶えず意識するといったものがある。なんと、内臓のどこかに痛みがあるのならそこに自己を移し、痛みを核として存在を意識せよなどとのアドバイスもある。なので、自分が、AM に認める意味合いは普通とはちと違う。個人的には、この動詞単体の意味合いが特別に育まれたわけ。
*自己想起の主体たるものを意識する顕現させるためのマントラでもある。

なので、びっくりするわけさ。あまりに神を表すに完璧な記号だから!。
これ以外、いかなる表現もあり得ない!。

マハラジ の言説が馴染むもの(つまりは正だとサウンドする人)、
そして真剣に彼の残した言葉を理解しよとしているものとしても、
これは、本当に神が語った神自身の正体なのであろうと納得してしまう。

閑話休題、先に上の話の続きで重要な部分を別途上げておこう:

それでもなお、モーセは主に言った。
「ああ、主よ。わたしはもともと弁が立つ方ではありません。あなたが僕(しもべ)にお言葉を
 かけてくださった今でもやはりそうです。全くわたしは口が重く、舌の重い者なのです。」

主は彼に言われた。
「一体、誰が人間に口を与えたのか?。一体、誰が口を利けないようにし、
 耳を聞こえないようにし、目を見えるようにし、また見えなくするのか?。
 主なるわたしではないか。さあ、行くがよい。
 このわたしがあなたの口と共にあって、あなたが語るべきことを教えよう。」

〈もう十分。続きは本書にて!〉


そして、ヨハネ福音書8章24節に、今度はイエスの言葉でも

が出てくる。

それ故に、you will die in your sins と、あなたがたに言ったのだ。
もし、あなたがたが、『 I am He 』であることを信じないならば、
あなたたちは、あなたの罪が故にて死ぬことになる。」

*[KJ versionを直訳]
*(アダムから引き継ぐ原罪のことだと思われる)
*AM + He まで付いてくる。このHeが誰であるかはお分かりだと思う...。


Re: I AM が何なのか?

この「 I 」は、ただの「私」ではありません。
これが「 AM 」するのも、ただ「有る」ではありません。

Gのタームでいけば、三つのセンターが調和的に十全に発現して初めて結ばれる主格たる私。
真実の、正真正銘の、剥き身の、純正なる、純然たる、厳正にして厳密なる意味における私。

これの出現は、そのまま強烈な存在感を伴ったものとして「この私」には覚えられる。
(強力に過ぎるもの。下手したらこっち(存在)の特徴の方が主なのかも?...)
外すことのできない、つまりはセットとして、同体として I とAM はある。

世における本当の神秘体験とは、これの一時的な体験、もしくは恒久的な達成なのだ。
なので一般的にはこの表現の意味へのアプローチが難しくなっちゃう。
結果、学者さんなんかはマインドで訳の分からん理屈を組み立ててしまうのだ。
意味なし...。

その状態からの世界認識は、これも不思議な話だが、人それぞれ違っている。

我が主観において、つまりは我内なる世界は/宇宙は、すべて私を基礎に私を神として
創造されている。これが絶対的な真実として事実として自覚/認識されてしまう状態。
これマハラジ 。彼の個我は完全に死んで、死に切ってしまっているからこうなる。

そんで、グルジェフはまた違う。G の場合は彼の残した言葉から憶測するしかないが、
「<彼>は全世界の神であり、同時に私の外なる世界の神でもある。
 私も神であるが、それは私の内なる世界の神であるにすぎない」。

内なる世界とは自分が知りうる認知できることのすべてだ。つまりは主観。
自分はそこでの神であると

宣っている。彼の場合は、彼は確かに死んだが、
ある程度のエゴを

残している。

マハラジ では、分かり易い表現を採択したためかどうかは分からないが、
外部の神でさえ自身の存在に依存したものになってしまていると語る。
「私が根で、神が幹や枝だ」と...。

ここに程度の差があることが分かる。
これは(選んだ)立ち位置の違いからくるのでしょう!。


もうしんどなってきたのでこの辺で止める。

乱暴になるがまとめると:

神性としての発露/発現だ。それは、もう在るとなるしかならない。
聖書に書いてある通り、人間は神の子なんだ。
現世にて達成するなら(今ここに)有りたる我は、在る我なりとなる



〈一回終了〉

また加筆するかもしんない。やんないかもしんない。難しすぎる。
理屈にしてはいけないもの、成し遂げる

もの...



おっと、あと二つだけ:

グルジェフのレゴミズム三部作の最終部であるLife is real only then, when "I am".
このタイトルも意味深ですよね。
I am となって、ほいでから初めて人生は本物(リアル)になるだって!。


興味深いのは、そういった存在には、世界の現れ方も変わってしまうのだ。
ある意味、必要なものは自動的に用意されるようになる。
苦しみはなくなりはしないが、それの目的がより見透かされて見えてしまう。
何より自発性が求められる。導きは必要最低限度となる。
ある種の勘が取り上げられてしまう。とても孤独かも知んない....。



(*1)
やがてに至っても、そのフロアはありません。
なぜかって?
そんなの決まってるじゃないかー、総体としてのコンプレックス自体がそれなんだ...。



AMは...AUMであり、OMでもありうる。かも?....



おしまい!




















     




                  隠されたるの...
           作ってしまった以上は活かしてあげないとネッ!










ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み