第39話  Interval (I)

文字数 20,778文字



    ヒトは母の胎にて結ばれて生まれいでたるのその前のことを知らない。
  ことそこにおいても試練が奮闘が激闘がありたることのその事実を覚えていない。
ヒトがヒトとしてこの世に生まれでて生きていることこそが、既に妙なるまでの、奇跡かな...



気づいたそのときにはもう必死で泳いでいたのさ。冥き深海のその底を。ただひたすらに上方に向かって。すんごく辛くってしんどかった。体のあちこちが既に悲鳴を上げている。もう止めようって、諦めたほうがいいって、絶えず自分を説得する声が聞こえてた。これはあまりにも無謀にしてなる賭けなんだって。息にも限界があるってことが何故か最初から()れていた。




とにかく今は上を目指すしかないんだ。あの向こう界面の向こう側に早く出なくっちゃ。
もう呼吸は継げない。ガイドはある。あの”光”だ。ほら段々と辺りは明るくなってきてるー。




やった〜!!!海面に出れたぞー。息が吸えるー!。もう思いっきり吐くこともできるー!。
ぼくは今こちら側で生きてるぞー。でももう体がいうことを効かないや。もう鉛みたい…。





嗚於ー!なんたる幸運なんたる天佑。彼処に視ゆるは小舟ではないか!。それも誰も乗っていないやつ〜。捨て置かれたまんまの難破船だー。今もしアレに乗れたならもう安心だ。そのあとのことはこの世界そのものがぼくの面倒をみてくれる。ある程度までは自動的に…。助かった。ミッション完結。ことの達成だ。よし最後の力を振り絞って全力で彼処(あそこ)まで泳ぐぞー!。
               (これが受胎のその裏側)






           「母」も

”光”としての存在としてあった。






このモデルにおいてご注意頂を引きたくは大きく分けてツーパターンの循環があるってこと。
左のものとある意味閉じた狭〜い循環経路をただぐるぐる回っているだけの右のやつ。
大規模なのべつ幕なしとしての世界循環のものと、そうとはならない至極限定されたるものが
ある…。これを例えとしてモデルとして、現実に当てはめることも有効にして可能は可能だ。

そして海底においては分解されて塵芥と成り果てたるの堆積層があるってことと、海溝なんかで例えられる

に向けて落ちてゆく降ってゆく箇所があるってこと。紫のぐるぐると赤のぐるぐるのライン。(どうしたものかその中にて亀が結ばれそして現れてくる…)
これらがあるってことだけは絶対に忘れないでおいていてやって下さい。
草々の敬具のあら怖いですね〜の崇でした…。











ゆく河の流れは絶えずして、しかも元の水にあらず。淀みに浮かぶ泡沫(ふたかた)は、かつ消えかつ結びて久しく留まりたるためしなし。世の中にある人と住処(すみか)とまた()くの(ごと)し。鴨長明 方丈記序


三界の狂人は狂せることを知らず 四生の盲者は盲なることを識らず。生まれ生まれ生まれ生まれて生のはじめに暗く、死に死に死に死んで死の終わりに(くら)し。   空海 秘蔵空論より


生は暗く、死もまた暗い。                マーラー 「大地の歌」の結び





                 始 ま り の あ の 山

   そこに、その山に、水としての特質を備え持つに足りる最低限の水分子の塊をもって、
                その一雫(ひとしづく)となってぼくはいた。


辺りをみわたせば数え切れないもう無数の無量の大数の命が同じくして湧き出してたんだ。
 気づいたそのときには、ぼくたちは渾然一体となって、この世に送り出されてたんだ。
               まさに躍り出てきてたー!。


それはそれは、澄んだ世界で、清らかさに満ち溢れてて、そしてまた、光の散光がその乱舞が、まるでぼくたちの誕生を祝福してくれているかのようだったんだ。ただひたすらに感動してた。なんて、この世界は美しく、また素晴らしいことかって…。



          でっあるときに敷居を跨いでしまうことになるのさ。
          あとから来るものらに押し出されるかのようにして。


            そして、ぼくたちの、その旅ははじまった...。


        美しきパノラマ、そしてなんてダイナミックな展開なの!。
  もう忘れちゃったけど、最初とはぜんぜん違ってる。これはこれで、また素晴らしい。


        素晴らしいよ!素晴らしい!。ほんと、この世界ってやつは!。
          なんたる造形!。景観美。これが自然とヒトとによって、
                伴に象られたものなんだってー!。


        下るに従って、川は段々と、広く、大きく、深くなってゆく。


   遠く、遠く、果てしなく、時のことなどまったく気にせず、意識することもなく、
        ぼくたちは運ばれて行った...。流れに任せて降っていったさ...。


まったく振り返りもしなかったな。どうしたものかもうどうでもよかったのだろう…。
もうあの場所を見ることは絶対にないんだってのに。戻ることも帰ることもできないんだって
いうのに…。どうしたものなのか来し方に関しては、まったく気に留めもしなかった…。


成長するに従いその時代の文明と文化、ヒトが生活してゆく上での決まりやルール、経済たるものを理解した。とにかくこの世界ってやつにをやたらめった刺激的に感じていたさ。欲しい物、可愛子ちゃ達、やりたいことが、もうそこら中に、もうこれでもかってぐらいに、大量をもって宣伝され、聞こえてきてて、画面の中に陳列されてたのだから…。でもこれは、最初の頃の話にはなるんだけれどね…。殆どが高嶺の花。自分には手の届かないものばかりだったのさ。そのことが分かるまでにも随分と時間がかかってしまってたよ…。
  

光陰矢の如し少年老い易くして学成り難しとはよく言ったもんさ。いつの間にか押し出されたかのようにして勤めに入ってて、結婚もして、子供なんかもいてて、毎日がもうおんなじことの繰り返し。もうあれやこれやの我儘を言える情勢身分なんかには遠にいないんだ。毎日が静かにして穏やかにしてなる障害物競走。いつ何時、突然、トラブルとしての事態が起こってくるのか解かったもんじゃない。安全にして安定にて、すべてがただ穏やかに過ぎ去ってれるならばそれでもう十分。自分はそれだけでいい。精一杯。もうそれだけで御の字なんだ…。



               やがてに河たちは合流しだす。
        そしてすべてを集めて飲み込むその海へと流れ込んで行った…。



更にその沖合遥か遠くにてはすべては一旦海底深くへと潜り込んでゆく。まるでその下には底なしの排水溝でもあるのかの如くして。流れたるものに乗って海へと返ってきて、今また底なしの深淵の彼方へと、その暴力的にしてなる強制力をもって、引きずり込まれ、連れ去られることとなる。この展開から、逃れうる術は、何処にも、誰をもってしてもありえない...。





                 【 無 常 大 鬼 】















Re: 中島みゆきさんのアルバム”親愛なる者へ”より「小石のように」

https://www.youtube.com/watch?v=pPp0qQ_xLU0

この歌い手さんは可能な限りみゆきさんの原曲に寄せて歌ってくれてます。ほぼ一緒。



   (や〜ま〜)を~ くだる~~ (なが)れーにぃ〜 の・せ・て

   まだ〜(み〜)ぬ〜景色(けしき) あ・こ・が・れ こ・が・れ〜(憧れ焦がれ)

   (ころ)〜が~りーだす~ 石は〜 十六(歳)

   (なが)れ~はー (お前の)(おも)い〜次第 (しだい)ーー

   (その彼女の一人立を目的としての)
   (たび〜)を~()めるー 親鳥(おやど〜り)たちは 〜 (かば)おうとするー

   その(彼らの)羽根が〜、(とお)〜に、 ひな鳥(を守る)にはー、

   小さ~す・ぎ・る〜と いつに〜なっても〜(幾つになっても)知〜らないーー
   (分からないー)


   ♬ おまえ~ おまえ~ ♬

   (その母は)(みみ)をー(ふさ)いでー 「さよな〜らー」を~()いても〜くれ~な〜いーー

   留度(とめど)も〜なくー (石は自ら)(ころ)がーり~だして、

   (だいぶ経ってから)石は~ は・じ・め・てー ()り〜()くーー


      〈 間 奏 〉


   (かわ〜)は~ い〜つか~ (はば)も~ ひ・ろ・が・りー(広)

   (くら)く~(ふか)く~ 小石(こいし)ををを け・ず・る(削)

   (いし)はー (すな)に~  (すな)は~ (よど)みにー

   いまや〜(もう)(だれー)にも〜み・え・な・い ー(気づいてもらえないーー)


   ♬ おまえ~ おまえ~ ♬

   (うみ)ま〜でー百里(ひゃくり) ー 

   (すわ)り〜()む〜にはーーーま〜だー早~〜いーー

   (いし)はー (すな)に~  (すな)は~ (よど)みに

   い・つ・か〜 (おあ)い〜海原(うなばら)にーー ー


   ♬ おまえ~ おまえ~ ♬

   (うみ)ま〜でー 百里(ひゃくり) ~ 

   (すわ)り〜()むーには~ ま~だー(はや〜)い ーー


   (すな)はー (うみ)に~ (うみ)は~ 大空(おおぞら)〜に

   そ・し・てーーい・つ・か〜 あの(や〜ま)へー♪〜ーーー

   〈リフレイン〉

   (すな)はー (うみ)に~ (うみ)は~ 大空(おおぞら)〜に

   そ・し・てーーい・つ・か〜 あの(や〜ま)へー♪♪♪ーーー





                     了



1979年3月にこの曲はLP”親愛なる者へ”において世に出る。みゆきさんは1952年生まれなので
彼女が27歳のときの歌。でもね〜、この作詞はもっと以前に作詞された可能性がある。
かなり高い。たぶん高校生んとき…。

自分は高1になりたてのころ聞いた「わかれうた」でもう即座に彼女の歌の虜となっていた。
巷にて流れるあの曲を聞いてだった。歌詞の内容がーとかメロディーがーとかじゃないんだ。
彼女の放つその波動において魅せられてしまってた。まさに彼女が”魔女”と呼ばれる所以...。
もう超弩級の波動放射体だったのだ!。


彼女は若くして既に恐ろしい程までに老成しいる。きっとその魂は古いんだろうね…。だからなのか創作におけるイメージ展開のその巧みにしてまたあざとくずるいことずるいこと...。
最後の水平線の彼方において海と天が青さにおいて連続されるをもって魂の移行がなされるなんて、これまでに使った表現者はいないと思う。天才。善意をもってしてのインチキイカサマの達人!。

例えばこの曲だ。あそこにある展開には、なにか驚くべきものを覚えなかっただろうか?。
自分がなんのことを言っているのかは、既に陳列させてもらってるあれらの絵が語ってくれていることだろう。簡単に云うと〜「輪廻転生」があの曲おいては前提になっている。それが期待となっている。終局、今生において自分の願いは、その思ひとしての業は、苦しみは、解消し得なかったのだけれども、死したれば、また新たに生まれ直して、その願いを叶えたいだ。

自分はズット長らく不思議だったのだ。何故にあそこまで聡明である方が、いつまで経っても陰と陽との間を揺れ動いているのかが…。その答えとしては捨てがたいのだ。あの体験をあのときの思いを。恨みを悲しみの情動のその海練を手放すことがもうできなくなってしまってる。悲しみが既に彼女の創作においての原動力となってしまってる。これも一種の執着だ…。その相手たるものに未練はまったくないんだ。だが一度我が胸中において味合われたその思いは未だもって去させることはできない。それらは新たなる表現を機会として再度表出されることとなる。

彼女は人を選ばずしてその愛を思いやりを向けることができるヒト。情がなによりも深く厚い。そして誰よりも勇ましい!。だからなのかもしれない、他者の悲しみをもまるで自分が体験したものかのようにして理解できてしまう。そのための想像力も豊かにお持ちだ。だからもう無限に創作しようと思えばできる。また歌に託するその思いも自分ならばその経路はしっかりと確保されてある。自由自在に呼び起こす呼び出すことができる。自在に自分の感情を操り、また想像力その知性をもって、彼ら彼女らの思いに限りなく合致したものとして再創造することもできる。

ヒトにはそれぞれ家庭の事情ってやつもある…。それにおいての制約からも、彼女は人の悲しみを世に伝える使命に縛られちゃってるのかも知れない。でも自分には理解できない。そんなもんは悪いがその当人が自分の責任において始末すべきことなのだから、もううっちゃっておけばいいのに…。家の財政を背負うのが我が身における定めと受入れ覚悟して、そして世の人々の秘められたる思い、その声なき待望が願望とが、彼女ができることと合致してしまったのだ…。

彼女は「失恋の歌うたい」と世にては呼称されていたがそんなもんではまったくない。”愛”なきこの世にて、全身全霊をもって自分は愛を発したのに、それと同じくしての反応を返してくれることを求めていたのに、その願いは無碍にされ非情なるまでに打ち捨てられて、叶えられることは一切なかった。愛を請い願う、そしてその渇望が満たされることなきを、その嘆きを歌う歌姫なのだ。

だからねっ、イエスに前お願いしたんだ。なんとか彼女をお救い下さいって。
遠くから見てても辛いんだーって。



ps.:
同じくして一聴をもって魅せられてしまっていたのはmcAT。彼もまた北海道出身。
同じくして彼も純粋に過ぎるまでに情が分厚く熱く深くそして、濃かった…。
あのハイトーンは唯一無二!。あの声を押し出させているものこそが真の宝。

♬ おまえ~ おまえ~ ♬
 (その母は)耳をー塞いでー 「さよならー」を~聞いても〜くれ~な〜いーー

この解釈は間違っている可能性もある。この「おまえ」は中島みゆき自身。さよならを言ったのは彼女のその「想い人」。これを振られたことをどうしても受入れられなかったので彼女は自分の耳を塞いだとなる。これがあそこの歌詞の真相なのかもしれない???。

もう一つの可能性は(実はこれこそがリアルなんだが)親はそのことの重要性を必要性を悟って辛く悲しい思いをしながらも、それを噛み締めながらも、子離れを決意する。そして声なくして「サヨナラ」を心中にて子に向けて発しているのだが当事者の子らにおいてそれは伝わらない。ことはそこまでの自覚はなくして親への甘えにまだ浸ったままにあるのが実際実情で、ちゃんとは、それの必要性は、彼ら子供においては理解がし難い。決定的な決別は先送りにされたままにある。おそらくは永遠に…。これは両者においてのちゃんとした自覚が伴わない限りはむり…。

最終的には親からの「いってらっしゃ〜いー!」なんだろが、子の方は自分に自分のことに夢中で、その声を聞いていないかな?。…でもそれでは「耳を塞いで」が謎になる。そんな面倒くさい改まった水臭い話しはただ”うざい”ってか?。跳ね除けられて知らんって...。












                     続く






「おまえ〜ふざけんなよー!」って、
読者からの呪詛怨嗟、声なき怒りの声が、その思いが伝わってくるのは自分の錯覚か?!。


 たしかにあれは酷い...。ショックな思いさせてごめんね〜!


 自分っていう人間にはナイーブさ、奥ゆかしき配慮ってのに欠けてるんだ…。


 みゆきさんとは違ってねー!。w。




あとがき:


次回はInterval II

なんで Interval ってタイトル付いてるのか分かります?。

本稿⑧を起動する為の助走だからなんです。

以前の訳の分からん話しをもう一回俎上にあげてこなければならない。

かなりもって回った、もう老婆心満載の苦心惨憺たる創意工夫をもって凝らして!。


今回の河に関してならば、それはヒトの生きる至極限定された世界においての一断面の話しでしかない。あの流れを遡るとか、回転するロールの向こう側に渡ってからの話しとかがないでしょう。大変重要なことではあるんだが割愛した。

むしろ、ことは同じくして似たるもんであるってことを改めて確認してもらいたかったんだ。

ヒトが生きる生存圏としての河はある意味、”点””に還元しうる。
それは並走するオクターブの一つでしかないって言える。
もっと大きな主幹としてのオクターブに思いを馳せなければならない。

だから最後のあの海において、海底へと落ち込んでゆくあの穴は、
地獄へと通じるその経路なんだ。
最低位の未知にして知ることまったくかなわない、預かってはならないその”DO”への。

流れたるものがある。そのイメージのものがある。それの端的なる特徴はなに?。知ったかぶりで言葉を選ぶならエントロピーの増大。どんどんとだんだんと無秩序になってゆく。それの氾濫。あなたはことが整理整頓されていることに快たるを覚えないだろうか?。ならばそれはどうしてだ?。またところで、整頓たるものの意味は、その極意たるはなんだ?。これを分かっているヒトはかなり意識の目覚めが、その存在が高い、はず…。

簡単なモデルはあなたの部屋の片付き具合。

まっことのすべてが無秩序で乱雑で無意味無価値になってゆくのがある意味自然。こりゃ〜しょうがない。これもまたゆっくりな変化なんである意味、慣れようと思えば、そんなもんなんでしょうっと思えば、別段問題ともなりはしない…。時々それなりに掃除して整理整頓してればいいだけの話し…。

茹でガエル!。

ことのあらましのそのすべては、あなたの存在のその反映、
っとなっていることだけは忘れてはならない。


整頓は日々のルーティン・ワークが前提となる。それはいるときに、間違いなくそれは手元にあらねばならない。つまりは”使う”があってこそ、それが活かされてるがあってこそ、初めて理想のあるべき状態たるものが見いだされることになるのだ。動きの中でしか、”そこ”、”ここ”、ってのは見出し得ないのだ。そして、どんな苦労、面倒くささがあったとしてもその状態を保つことに不満はない。既にそれが当たり前となっている。整理マニア、つまりは見てくれのニートさのみにこだわってあるものは、単なるバカ、役立たずであることの表明でしかない…。

追記:
あれの推敲なんかは実際に唱えてみて口にしてみてのものになる。それもいろいろと間に時間をおいてからの。そうしてこそ初めて見いだされるものってのもあるわけさ。ことはおんなじなんで少し語ってみた。敬具。




以下の絵は次回に使う参考画としてのもの。








要は至高なるもの、神、自然、宇宙の法理、なんだっていいんだけれど、これを信仰するにおいて、先程の横展開としての河はその意義を変えてしまうんだ。メタ、上位存在を、信仰するものらにおいてはこの縦のフローこそがまずリアルなものとして意識されてあらなければならない。それを意識するにおいて初めて横展開としてのあの河も新たなる意義を付与されてくることとなる…。




  これは煉獄のイメージ図なんだけど何か気がつかない?これと比較してみましょう。



ドッチかが間違ってる。間違い探しのその手がかりはまずは倒錯転倒にある。それに着目する。こっちはあの神曲に紐付けされてる。だからここにも作者がろくでもない動機であの作品を書いたってことが察せられるんだ。

がそちら側に足場をもっていることのサインになる。すぐ解る。ことの判別の為の材料として…。*人格の分裂においては両方にその足場ってのがあるヒトもいるはいる…。誰だ?

まっどうでもいいだけれど、前に既に言っちゃてるんだけど、煉獄とはこの地球における生のことさ。あの惑星パーガトリーは所詮はこの地球のことを言ってるだけのことさってのが自分の読み。その見解。

II において話者の課題となっているのは…、では主幹オクターブたるものを意識するにはどういったアプローチ、構想のフレームたるものがあるのか?だ。それが先ずこれになる。

この辺からはかなりいいい加減だから、ざっと読むだけでいいですから。w。


まずはグルジェフが用いる「センター」たるものから。これってチャクラのことだってこと分かってる?。だからセンター、中枢って言葉を採択している。このチャクラってのは七つあるんだってことになっている。これは架空の想像上のお伽噺なんかではない。ちゃんと実地に、それの実在は確認がとれている。あの善きオビヴァチェリにたりる〜先行する”ヨーギ”さんたちによってだ!。

ヒトの持つ可能性としての話しではあるんだが、あることが為されたならばの限定ではあるのだが、ヒトはその主幹オクターブにおいての上昇か下降かを、自主的に選択することができる。なんでかっていうと〜、そのラインがハッキリともうその彼らにおいては自覚されてしまっているからに他ならない...。



ここには上下の矢印があるのだが、人間は何方か一方の存在でしかない。このことに、この二者択一しかないことにあなたは異論はないのであろうか?。もし確かに、そうとでしかありえないのならば、その強制力と、救いとしての逆転方向への導きは、その正体はなんであろうか?。あの創造の光、その流出のフローそのものが、それとなくしての、ヒトの知覚能力においては察知し難しの作用なんで所詮はヒトには分かり難く、捉え難くしての強制力となっているのでは?。また飛行機が飛べるのは抵抗が浮力となって働いてくれていればこそ。その抵抗がなければ、空を舞うことは絶対に為し得ないってことも思い出しておくべきことかと…。

追記:
二極のどちらかしかない。白か黒かのどちらかしかない。ここに確かなる制限制約があることに驚きを感じなければならない。もっといろいろあってもよかろうにと疑わなわなければならない。力の微分においてのその組合せによっては違うベクトルがあるのではないのかを。黄や赤や青があるのか普通常識ではないのかを。ないんだ。これら二極しか…。


一つここでややこしいこと、混乱を呼ぶ話しをもしとかなけりゃ〜ならない。主幹オクターブの下降に沿うことは自然なことでもある。ある一面においては正しいことの限りなのである。神のご意思に沿ったるのものになるんでね〜。これに逆らって上流を目指すってことは神に逆らうことでもある。全体としてはそれは罪になるが、一個人においての選択たれば、許されてそれにおいおての導きたるも、付け加えてもらえるようになる...。

追記:なかなか語るべくしてのチャンスってのが巡ってこないので、ここで断片として、とはなるのだが自分の理解としての考えを置いておく。ことのすべては見たそのまんまに語られ語られきっている。分ってるだろうか?。円環の内部は、その

における進展運動の

なのだ。例えば自己に当てはめてそれは利用するならば、

もしくは

に関わってくる。ことにおいては、なんにおいてであったって〜「いい」か「悪い」かの基準しか基本ない。では実際に今ある状況において、何が「いい方」なのか、それが何なのか、どういった色合いを持つのかを知っとく必要がある。そして実際において現実において、それに合致する内容を見つけ出すっと。だからこの知識は貴重にして多大なるヒントとなるもんなんだ…。

もう少しだけ語っておく。内部のあの三角形が自己としての真の本質になる。それとしての知性感情本能それらと綿密に関わっている。ではあの外周においての各点間における循環としてのベクトルは何なのか?。ことは簡単に言えば

その外部(世界社会)に向かっての現れ、それとして、この自分としての人格が生来的に持たされてあるところの、付与されてしまっている傾向性なのだ。繰り返しておく。ことは強みとしての色合いとして強化されて、後にはこのことにおいての習慣が邪魔に不要なるものになってくる。世界自らがそのことを告知しむることとなる。ようはさっぱりうまくいかなくなる。そこにそうなるべくしてのベクトルに逆らう、むしろ反対の選択をするが何故にか不思議にも正解となってくるんだ。かってのそれはあくまで自動性において誘導誘引において獲得されてたものでしかないからね。ことは状況の客観的にして自己に対しての無慈悲なるなる眼差しをもって、なにが正しいのか何が今なされるべきなのかを考えなければならない。するって〜とー、不思議とさっき言った、従来の行動パターンからすれば逆、反対の行動ってやつになってきてしまうんだ。そうるすのが、何故か正しいような気がしてきてしまう。でもその選択は苦痛にして、恐れを抱かせるものとなる。習慣に逆らう行為だし、何よりも

だから…。その渦中においてともなれば一切が手応え歯ごたえがないものとしてでしか現れてこない!。でもそこが正念場なんだ。

ことの済んだ後に、すべてを思い起こして思い出して、エニアグラムにて、当てはめをしてみると、いろいろと合点のいくことになってんだ。そして思うことになるんだ。この偏向させるべくしての作用力は「いったい何なのだ?!」って。ことの総括は進化においての上昇と退化としての下降しかないなってことになる。そしてそれは何方も時間の観念を持ち込むならば、螺旋としての運動になってるってことに気づくんだ…。右周り、時計回りであることを、絶えず、なんにおいてであったってー、意識して選択しておられることをお勧めする。できれば無意識の内においても…。

繰り返す。やったことのないことは未知なることになる。それは皆目検討のつかない世界としかならない。まるで雲の上を歩くかの如く。生まれたての赤子にとってのこの世界のようにさ。それでも、それにおいて、悪戦苦闘するにしかないんだ。大人になると、どうも勇気ってやつに不足するようなってしまう。そんで、思うだけ、見てるだけ、読んでるだけで終わってしまうようになるんだ…。


追記2:中和力たるものがなんなのか?、これは色々と説明は考えはあるのだろうが、一つ、自分としての総括のを残しておこう。それはだ…、一種の”場”としての”世界”としてのものなのだ。それにおいて、その中に、もし

所在するならば、その場その世界その空間領域が持つ法則性によって、

支配されてしまうことになる。それって見えない感知し難くしてのものだからね!。つまりはだ、場や世界は、なんらかの平準性、均一性、均等なるを、それら自身の内にある”一切に”求めて作用してくるものなのだ。そういった力のことを総称して第三の力って呼んでるんだ。「ことはエントロピーの増大ってことだ」で片付くのかもしれない。棒の真ん中その中心を支えたならばそれは安定した状態となってしまう。もうその棒においては一切の動作は変化は為されない出来ないあり得ないこととなる…。

肝に命じておかなければならないのは、こと、ここにおいては、世界は七重性をもって考えなければならないってこと!。最上位の世界からのその作用力は「導くもの」としてもある。もしくは、我関せず手を出さずして下位の世界としてのその作用力に

としての対応。これらのどちらか。良いか悪いか。導くものとしての作用力、これが聖霊の積極的な関わりとしての中和力のことになる。本源に感応するものはその本源へと導く移行させることによって絶対的に安定した状態とされるのだ。ことは

としての努力としてでしかあり得ず、ならばだ、当然にその導きそのものも、

あらざる得ないのだ…。終了。




遠うに見知ったモデル図であるでしょうが、ここで注意を引きたくは高次感情センターと高次知性センター。さて、これってあのチャクラにおいてはどれのことを言っているのでしょうか?。Gは間違いなくヨガの大系にも精通している。なによりヨガは実践あってこその学問その成果理解になるからね!。その機会たるものは日常の中に山程、腐る程までに〜落ちているー!。




このモデルにおいては改めてあの自分の空想を持ち込んでおきたい。Gは下位としての本能性運動センターは一つとしてみなしうるって言ってたよね〜。そう元々はこれで完成した動物だったんだ。これに〜ヒトとしての魂がそれに備わる独特なる素質資質能力が持ち込まれた。つまりは残りの4つの中枢がだ。このことをこの事実を強調しときたいまで。

動物としての完成体の上に操縦者たるヒトがいる。彼はそちら側に引き込まれたり染まったりしてはならないんだ。だからこそ他人のそういった振る舞いには、何故か生来的におぞけを、嫌悪感を、抱くことになってるのー!。w。閑話休題。このモデルの中ではこの動物部にフォーカスを当てて理解を深めることを言ってる。何故?。ヒトにとって、それらは未知なるものだからさ。このことからもいろんなことを考えることができる。そして実際の確認作業実験において...。



    このモデルの出どころはヒンドスタンの文化だってことはもう前に言ったよね〜。

エニアグラム人格論においても少しだけ語りたい。これは必須のものにはなるのだけれど、
今、世に出ている専門家達はある意味なんの理解もない耳学問の頭でかっち。
ペテン業の専門家ばかり…。


これらの分類も言葉にならざるを無理やり誤解を恐れずに言葉に起こしたるものに過ぎない。
センスなさすぎ。でもその正確なるところは自分だけが(あなただけが)知っていればいい。

この矢印の運動こそが主幹オクターブにおけるガイドになる。それはもうクドいだろうけど、
もう言葉や観念の世界ではなくなってるんだって。実際に、その生活環境、社会における状況において実践せん限りは、なんの効果も成果もありはしないんだ。実行には言葉はいらない。
ただし、内面においてその行為は修羅場たるものになることだけは間違いない.................。


現行のグルジェフィアンのその殆どに自分は首を傾げている。言葉をもってでしかその商売が成り立たないせいか観念的に過ぎる。そんな話しを誰が読むねん?と、それが読むヒトらにいて何の役に立つねんと思うばかり…。呆れるばかり…。むしろもし書籍においてなんらかの真に身になるものを求めるならばこれをお勧めしておく。


だるまんの陰陽五行






 土、つちにおいても二種ある。スケールを前提とした大草原、大舞台
 そして二黒土星にてあらわされる”畑”の土。自分はこれになるんだ…。
 どちらがいいか悪いかってのはどうでもいい。ことは選べない。定まってある。
 その定めにただ準じているのが正解。


日常的にはこっちの五行の方が使いやすい。四項が欠けているのは簡略化されているからに他ならない。相補的に理解が深まる。なんにしても、日常にて活かされんことにはただの戯言。
理解たるものにおいては、すべてのセンターの参与参画が必要なんだ…。

追記:
すべては錯綜としたままにて、多くが重なり合っている。たくさんのシステムがってことになるのだが…。エニアグラム人格論においてのその白眉たるものを述べるなら、あなたが所属してある家族たるものの、その必然たるものを理解することができるのだ。誰かにとってのその遡行としての向け先はまた別の誰かが担ってる。だが。ことは簡単にはそう進まない。むしろその行為は目覚めていないと愛を胸においていないとそうとはならない。これはそうすべきの本人においての話し。むしろ、それは遡行としての抵抗に会うために、反発として作用するのが自然なのだ。正解はいつも「自分が思うこと/やりたいこと/行きたい方ではない」。まっ兎に角、その環境としての家族もちゃんと仕組まれた形となっていることだけは理解しとくのがいい。自然は一切無駄をしない。了


なんと漫画仕立てやん!。読みやすいやん!。でも内容レベル高すぎるんやけど…。
皮肉なことなんだが、Gで商売やっている人間の百倍、この著者は理解に優れてる。
人間的にも稀なほどまでに善意に溢れてる。



あと興味深い昨今の現象は、テスラへの脚光のせいでか、
自然とエニアグラムの研究にも再起動の兆しがあるってこ〜とー。





今現在の私のPCの壁紙











刻印等はノイズだから修正かけて消したりますねん。








おまけ:


アルバム「親愛なる者へ」より更にもう一曲。

Re: 断崖~親愛なる者へ~





https://www.youtube.com/watch?v=VJH4et0Cw0A

*原曲からはかなり遠い。でもこの曲に関しては良い歌い手が現在不在となってます。
*でも、あのエレーンを、この歌い手さんは完璧に自分の歌として歌いきってる...驚。


風は〜北向きーーー 心の〜 中じゃ〜 〜
朝も〜夜中〜もー いつだって〜 吹雪ーー
だけどーー死ぬ〜ま〜でーー春の〜服を〜着るよ ー
そうさ〜〜寒い〜と みんな逃げて〜しまうものねー 

みんな〜そうさ…

走り〜続けてーー いな〜けりゃ〜 倒れちまう〜 〜
自転車〜みたいーな この命〜転がして 〜
息は〜切れ切れーー それでもー走れーー
走り〜〜やめ〜た〜らー ガラクターと 呼ぶだけだ〜 

この世では…

冷えた〜〜 体を〜 暖めーて〜 くーれー
すがり〜寄る〜町にー 住む人とて〜な〜く〜
扉〜を開〜けて〜 出てくる〜人はー ー 
誰も〜〜今〜し〜もー 旅にー出る支度ー


息も高く…


生きて〜〜ゆけーよ〜とー 扉の〜外で〜〜 
手を振り〜なが〜ら〜 呼んでるー声がー聞こえるーー
死んでーしま〜えーと〜〜 ののしって〜おくれーー
窓の〜中〜 笑い〜だすー 声を〜聞かすーぐらいなら 

ねえ〜おまえだけは…

生きる〜〜手だーて〜はーー あざない〜ものとーー
肩〜をーーそら〜し〜てーー 風を受け〜なが〜らーー

今崩れ〜ゆくーー 崖の〜上に〜立ちーー
流しー目を〜使〜う 昔惚れてーくれた奴にー 

ああ〜情けないね…

風は〜〜 北〜向きーー 心の〜中じゃ〜〜
朝も〜夜中〜もー いつだって〜吹雪 ーー

だけど〜死ぬま〜でーー 春の〜服をー着るよ〜 〜
そうさ〜寒い〜とーー みんな逃げてーしまうものね 〜

そうさ〜死んでも〜〜 春の〜服を〜着るよーー
そうさーー寒い〜と みんな逃げてーーしまうものねーー」


          了!




意訳解説バージョン:


こころの中は〜いつも吹雪の状態。
でも春の感じを無理してでも虚勢を張ってでも演出していよう。
みんなと、いろんな人と関わり合いたいから。出会いたいから…
一人は寂しすぎるから…。

誰もが皆、
幸せそうな人、楽しげな人、イキイキと活発な人に
惹かれ関心を持つのが当たり前だから。
それを他人に求めているのだから。

なんかしてなけりゃ〜、社会と関わる仕事をなんかしてなくっちゃ。
立派な体躯、なんら専門的な教養があるわけでもないこんな私であっても。
いっつも、いつも、出たとこ勝負の私。
惑乱動揺しまくりの私。まわりに迷惑かけまくりのこの私。
でもだからといってその関わり合いから逃げたら、もう私はただのポンコツでしかない。

この世の審判、常識、慣例に従うのであるならば…。

寒い、寒い、寒い。こころが、体が。生きてゆくこととは、こんなにも辛いことなのか?!。
誰か、誰か、誰か。私のこのこころを受け止めてよ!。私を素において愛してください!。
どうしたものか、私のいい人は何処にも何処でも見つからない。
出会う人、そのみんな、自分の仕事に、自分のことで、いつも忙しくしているまで。
私のこともあくまでその一部のでしかあり得ない。

みんなどうして?。そんなにも活気に溢れていられるの?。

私の心の、その扉の外で声がする。「頑張って生きてゆきなさい」と。
「何があったって、挫けたり負けたりしてはならないよ」っと。
あれ…これは母さん? 私のことを今、応援してくれているの?
いつも、いつも、心から、心配してくれてた…。
私の名前を呼んでいる。何度も、何度も、大きな声で…。


「お前なんかもう死んでしまえ!もう今すぐここで死ねよ!」
「そうしてくれたなら〜、こちとらもうどれほど清々することか!」。
 そう…まだこういって罵られてあるほうが救いになる。
 酒のつまみにされて、笑われているぐらいなら…。

ねえ〜聞こえている?あなただよ。あなたのことだよ…。

私にとって、現在、現実の世界は、そのかっての輝きを、完全に失ってしまっている。
すでに、世界は、見知らぬものになってしまった。

なのに〜、どうしてあなたはなにも変わらぬかのようにして、前と変わらず楽しげに、楽しそうに過ごしているの?!。どうしてそんな風にあることができるの?!。わたしはあなたにとってそんなにも他愛ない存在だったの?!。私にとってあの世界は二度と戻ってくることは...絶対に、もうありえない!!!。


人が生きがいとする何かっつ〜のは絶えず移り変わってゆくもの。移りやすいもの。
そうしたもんであるのが当たり前。そう自分に言い聞かせて分かったような顔して、
素振りをして、なんとか虚勢をもって自分を支えているんだが、
どうも旗色が悪いみたい…。

やっぱりダメージがかなり深刻なようで、もうちょっとしたことで泣き崩れて、
座り込んでしまいそう…。もう寂しくって孤独に感じちゃって自分を支えきれてないでいる。
そんで、なんの気もない見知った男友達にまで、その気を引こうとしてしてしまっている…。


ああ~情けない、情けない。情けないって言ったらありゃしない…。
このみゆきさんがだぜ〜!

風は~~ 北~向きーー 心の~中じゃ~~
朝も~夜中~もー いつだって~吹雪 ーー

だけど~死ぬま~でーー 春の~服をー着るよ~ ~
そうさ~寒い~とーー みんな逃げてーしまうものね ~

そうさ~死んでも~~ 春の~服を~着るよーー
そうさーー寒い~と みんな逃げてーーしまうものねーー






蔦屋にCD借りにいったら、これだけがないの!。

取り寄せでさえ不可だったんだ…。

こりゃ〜不用との伝えだなと思って諦めて帰ってきた。

そんで、帰ってきてから他にどんな曲があったのか確認してたら、

この曲だけが未だもって琴線に触れた。

そんで、この稿を作っちまったてな次第なのでやんす…。


これは人恋しの歌。世界喪失の歌。

はっきりとタイトル曲とはしてはいないが、実際はそうだな…。

彼恋しの歌、アルバム。

男ならば、もうほっとけなくなるでしょう?


魔 女

みゆき


 拝








以下は読まないで!。次回にもしかしたら使うかもしれないので置いてあるだけだから。


これは準備であるし整理の為のものでもある。

次回の本稿において、自分がかって関係のあった会社員/社会人、その

を悪し様に言う。ハッキリ言ってやる!。どいつもこいつも皆、最低の存在だった。勇なきこと、他人の手柄を横取りすること、仕事を取り込んで満足すること、仲間への思いやりなきこと、妬み嫉みに絶えずほだされてあること、その感情にいつも悶え苦しんでいること、いざ行を動共にしてみれば、並んで歩めば必ず先導したがること…。その様子を一言で言い表すならば、それはまさしく、「あさましき獣の性のままにて、その次元で生きているだけの人間」となる。ただそれだけの存在でしかない...。


会社のお金。もしくは税金、自分の懐が傷まぬ金であるならば、極端に無駄に使い倒して、また羽振りよくばら撒き蕩尽しつくして止まぬその恥知らずな習性!性!。アイツラに真のコスト意識なんぞはありゃしない。ことのその事業たるものが、如何に利潤を生み出しているのか、その実際が、現実が、まったく理解されなままなるのだ!。そういった人間に金銭における決済権を与えては絶対にならない…。


介入:



【速報】“過去最大規模”の経済対策閣議決定、財政支出55.7兆円

   そしてもう一個、これは絶対に見逃せない!。

外国人労働者の在留資格「特定技能」のうち熟練者について、事実上、

方針を固めた。これにより、農業、製造業、サービスなど幅広い分野で、



写真見たら分かる。この人も単なる操り人形。薄っぺらい薄っぺらいカッコづけの人間。そして更には訳の分からん思想に洗脳されてしまっている…。河野はもっと酷い。遥かに酷い。そしてあの馬渕睦夫さんがべた褒めしていた高市早苗さんは…。自分としては国政を預ける預かるにおいて女性では決定的に駄目だとおもってる。強情で自己評価が高すぎるから。男女ともに謙虚なる美徳が必要になる。でもこれはしこたま頭打った打たれた人でないと獲得はできないのだが…。

要は究極的には、聖霊の導きを持てる、それと会話できるヒトじゃないと先ず無理。男はその身を捧げるのが勤め。女はその男の子を宿して育てることに身を捧げるのが勤め。法理においてこれは元から定まってしまっているの〜!。

補記:
プロセスとして自分を殺して何か他のものに奉仕する、そのものの為に自分を犠牲にするってのが定まってある時節ってのがあるんだ。これは避けがたくして用意される。されてしまう。それも超長期を射程において!。でも事はづっと、いつまでも、そのまんま、ってなことではないんだ。

達成完結をもって、これは変化のことになるのだが、その後は今度は自分が好きなことができるようになるんだ。間違いなくそうしてくれる。決して永遠にそうであるとはならない。でも…そんなことは、その話しは、意識から退けておいた方がいい。ことの完結ってのは自己たるものがそのプロセスにおいてすり減って跡形もなく見失われてしまうが達成されることであるんだから。その後の展開を当てにしていると欲求不満になってそれが募っていってしまい、すべてを台無しにしてしまやも知れないのだからーーー。世界からの反映を信じて、ことに完全に完璧に打ち込んでいるのが一番いい。了

日本国にとってのその聖霊は「ガイア」、大地の霊、自然を創造し司っている「ソフィア」!。これを介して源泉としての本核とつながるのー!。

ここで自分の構想たるものを明かすなら、真のキリストの理解をもって日本人による純粋なる独立したキリスト教を再誕させることにある。従来の旧来からの権威として認められてあるドグサ(doxa)やドグマ(dogma)に縛られないあくまでも個人レベルの個人単体にて達成されたるのキリスト教。そういった信者を用意すること…。イエスは最後まで残る。彼は傘におけるそのすべての骨が収斂する突端みたいな存在なのだ。だが彼以前のすべての宗教、その理念、つまりは先の骨のことになるのだが、それらは意味のみが抽出されて、その型そのものにおける絶対性は一旦解体/解消が為されなばならない。今改めて一段昇華がなさるをもって再構築する。神なる存在はただ一者、単体であるのみ。それは全宇宙の全生命体にとっての創造主であるわけなのだから…。宇宙宗教としてあらねば、それとして通用しなければならない。ことは実際に彼の存在を確信しての知っての味わってのものでなくばなるまい。だから個人的な信仰としかならない。マインドを越えた次元での信仰にしかならない…。追記:その彼は神の属性である創造性をもって現実に変革を行わねばならない。彼からの導きにおいて。その為に自身の人生を供犠として差し出さねばならないことになるのかもしれない。基本ことは神にお任せとの構えとなる。ならばだ、このことは決して不幸な目に会う、それが必然だとは言えない限らないんかもね…。
彼は貴方のことをちゃんと考えてくれている。とんでもなく深き量見にて!。

今、日本が、求めるべきは米と中狂からの、場合によっては南北貂蝉からの”軛”から脱するその機会だ!。それには物騒だが動乱の情勢が必要になってくる。場合によっては自国内の天災であってさえも究極的には見方にするぐらいの覚悟でいなければならない。片や根本的な経済の活性化の為の戦略を持って、これも密かに推進しておかなけらばならない。入をそれも長期に渡って有効なものを準備しなければならない。これが完全に為政には欠落している。他人任せなのが決定的にダメなのだ。それはもう常識的な発想でなんとかできるものではないだろう。室温超電導ぐらいが丁度いい。摩擦抵抗ZERO(0)をものの移動において達成する。たぶんこれしかないだろう…。これを全国の道路鉄道網として採用する。その上で電気自動車も発想すればいい。要は無線送電で足りる構成にする。何よりも電気ってのは

みたいなもんだからね。個別に封じ込めるってのは無理がある。それはあくまでも標準外の例外事案だけでいい。掃除機みたいに使う時だけコンセントに差すのがいい。もし電気自動車化をグローバリストたる自民党が推し進めるのであれば、こうした様式変更の機会とする。戦略的に。追記:こうして、素人の勝手な願いであたって世界はそれなりに反映をかえしてくれる。水素の固体化金属化が鍵であったならばそれはもう目処がつきつつある。特殊な導電体の作成が必要ならば、あの日本電気硝子の特許との結びつきにおいてそれを突破するを夢想せざる得ない。すべてが揃ってきてる。あとは魂の願いをもっての試行錯誤があるまで。願えよさらば与えられん…。水素も自前で近海の海底に眠るメタンハイドレートから作れよ!。もう他国に他人に甘えるのはやめろよ!。甘えて甘えて、その権威を託しての相手に全部決めてもらって、いい加減に自立せひよ!。

次世代半導体もいいのだが既に競争が激しすぎる。ブルーオーシャンと呼ぶに足りる市場において日本の未来の稼ぎを構築するべく発想をするのがよい。これがニッチ!。

なんの実行力も勇気も、有効な発想も持てない人間ばかりが国を動かしている。売国行為でしかないことを平気の平左で行っている。GHQに傅いての習慣、奴隷根性から未だ脱しては全然いない。片や、夢うつつの左翼リベラルグローバルのマルクス主義の亡霊ども…。介入終

これは自分という人間においての印象なのでそこに普遍性がある訳ではありません。むしろここでは自分という人間のその出来上がりにおいて、それに沿って、すべては然るべく準備されていたまでしかなかった。そうとハッキリと述懐しておきたいと思います。

そのヒトの出来上がりたるものによっては、素晴らしき人々に取り囲まれての社会人生活を送れる人もいることだろう。それはそうあって当然なのだ...それこそ然るべくしての展開として、そうなるのが妥当な人たちも確かにいる...。

とにかく、自分たる人間においては、現実に社会人として接してきた内部/外部の人間のその殆どすべてがクズだった...。まったくもって役に立たない...。立ちゃしない...。獣としての、その反射反応にて生きているだけ。そんな人間でしかなかったのだ...。まっ詳しくは次回に...。

構想としては起業に関して自分なりのとらえ方を披露します。会社たるものが如何に起こり始まるのか。新規の事業/ビジネス/商売がどういった状況、なんの化学反応において結晶化することとなるのかを、この自分という人間の理解において陳述してみる。それは他では先ず聞くことのできない変わった話しになると思う。感覚ベースの発想と行動をとる人間において、

どんな風に識られ消化されて、また関わり合う内外の人々に対して何を意識して行っていたのか?。そんな話し。あれらのことは、その結実において、実際に成果に結びついてくれてた。だから、ある種の真実もそこにあるやも知れない...。

この起業の成功において人々が集まってくる。そこに起こった仕事を助けるにおいて生活の糧を得る。それのみならず、社会における己が明確なるポジション、社会人としての意義存在価値をも見出さんとすることになる。まっ簡単に言えば、その職場としてのグループにおいて、幅を効かせたい、他のメンバーに命令できる権限を得たい、中心人物になりたい、皆が自分には低姿勢で絶えずいつも接してもらいたい、そんな風になりたいとの思いを願望を抱くようになる。確実にだ!。

次回のテーマはズバリ理解の断絶になる。仕事がルーティン化される前に、起業としての節がある。そのステージにおいてはそれはそれなりの苦労がある。また獲得したその仕事が身体化において完璧に理解されている。だが、そこに出来上がっている仕事を受け持つものにおいては、その創業の実際は絶対に理解できない。知り得よう訳がない...。ここに、避け難くしての当然の断絶たるものが存在することになる。…まっ一つ考えてみたまへ。立派な、金額換算されてのルーティン・ワークをその会社は持っているから、その会社入りたい勤めてもいいなって思うんでしょう?。なんの実績もない会社だったら入社することは敬遠するでしょう?。

断絶たるものの実態は、創業者社長と社員って形になる。でもこれは本当のところは違うんだ。社員において、起業たるもの、事業たるもの、会社たるもの、その実際、本質に関しての理解が欠落してるんだ。ここにどうしようもない断絶が備わってくることになる…。

二代目社長もことの理解が根本的に失われてしまってる。これはしょうがない。出来上がっているものはその外見からしか理解はできない。されないのだから。その向こう側に何があったのか何があるのかは分かり得ない。二代目以降の社長は一般社員と変わらず...。

チョット端折ると自分の見方において、それはあるべき論になるのだが、会社は〜国たるものは〜「宇宙の写し身」たるものでなければならないんだ。スケールはいたく違うのだが、その奉じるところは究極のところ、同じでなければならない...。そうであることに依って、そうであるからこそ、その会社は〜国は〜生かされることになるんだ。自然と…。この宇宙全体の庇護/加護において…。それとの協調調和が故に…。宇宙はシステムで、途方もない動力において、それらすべてはいっぺんに動いている...。たぶん永遠に...といっていい…

他方これは言いたくないんだけれど、あの悪しき波動に合わせて染まって、あれの傾向性に歩調を合わせて沿っての事業ってものもあるにはあるんだ。たぶん全体の九割方はこれ...。そういった会社は、ことこの世の現実においてともなれば非常に強い。…でもこれに関しては話しはやらない。あくまでも自分が理想と信じるもの確信されたるにおいてのみをベースとして持ってくる。

ここであの樹の話し、河の流れの話しを、違う表現をもって再現する。そして、当然な話しとしてただ機械的な仕事、ルーティンワークのみにて安穏と満ち足りようなどと考えているような輩は、害虫か、下流に単に押し流されて良しするまでの存在でしかないとなる。

この本稿の目的は、二項対立、二律背反、二元論、保守か改革かの話が根本からしてみな間違っているんだってことを説きたいまで。これは、とある全体総括の巨視的なフィールドのビジョンを持つことによって、そこにある定められた課題に自覚的になることにおいて、あそこにある錯綜とした迷妄混乱誤謬は解消されることになると信ず。ことの理解の為の「真の土台」についてをその情報の断片としかならないとも提供することに自分の目的としての思いたるものはある。


ここからは、自論の前提となるべくしての、前知識、その提供になる。
詳しくはやらない。所々に問をおきます。皆さん自身でその回答を考察してみてください。

*恣意的なる誘導を目的として、ものによっては自分のものを、
 その独善的なるままの作法にて、披露させていただきたく存じます。
 これも最初から既に断定として語ってしまっているだろうから、ご注意ください。


敬具





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