第51話 N.33、それ自らが然るべく‥。全。

文字数 69,198文字

33. Everything Happens by Itself

こっちの内容はかなり上級者向けのものになります。座禅を長くやってきてないと理解は覚束ない…というか〜マインド/知性によってのみにてでは、誤読してしまうことが避けられないんだ。例えば「私は只今たいへんに苦しんでおります」という人がいて、「ではその苦しみとやらを、ここに出して、見せひ!」と問われ、云われなたならば、その苦しんであると宣ってた人は、意表を突かれて、混乱に陥ってしまい、一瞬で、ことの苦しみの一切を、忘れ果ててしまっていたので、ありましたっと。まっ今回は先の

といたしましまして、訳します。でもあとで……。敬具




                   【 善 哉




































































































































































































































                     「ふッ」

































































































































































































                  「……………」



                     



              仏罰防衛サーヴァント緊急召喚!

          [ フランク・フラゼッタルニアン公、コナ〜〜ン!]





        ♪「()ばぁぁぁ〜っ(こた)へっるぅぅぅ〜魔□(ま○○)(ぐん)〜〜…」♪




歯が痛ければ歯医者にいくまで。苦しみから逃れたいのなら、忍耐してそれが解かれる解けるまで我慢するか、その苦しみの源たる何かへの執念執着を離れる、手放す、放下するまでのこと。誰かに相談したとてなにがどうなるわけでもな〜いっと。基本、自己を捨てる、犠牲にする、放下させる、そのことを会得させる為に、成さしめる為にこそ〜、これとしての時期は準備されてくんだ。それができない限りは、然るべく定められてあるパホーマンスとしてのその全量を果たさないその限りにおいては、良い目が巡ってくることもまたな〜いっと。例えば、人生のある一時、ある時期においては、自分としてのその欲求のすべてを諦めて、子供らのにおいてのそれを満たすのに回すってのもこれに当たるんだ。実際はこれしかないだろうな…。肝心なことは、その苦難としての時期は、永遠永続的には続かないってことなんだ。「無常なるものなし」は、この苦しみにおいてでさえ言える。禅僧になることも仏門にくだることも必要ない。座禅にての入神を果たすことは誰にでも、

で〜き〜るっ!。このことはあくまでも習熟に関わることでしかな〜〜いっと。了

追記:
この手の試練としての時期、それが巡ってきてるってことはだ、然るべくしてのその

この自分は生きてきてるんだってことの証でもあろう。万人においてもそうだとは言いきれないだろうけどね……。




Re: やっとこさ、本編の開幕!


Questioner:
Does a jnani die?  *生前解脱者のこと。

解脱を遂げ得た人間もまた死ぬのでしょうか?。

Maharaj:
He is beyond life and death.

彼においてともなれば、〈〉も〈〉も超越されてしまってる。

What we take to be inevitable -- to be born and to die
-- appears to him but a way of expressing movement in the Immovable,
change in the changeless, end in the endless.

我々において免れがたくしてあること、必然なること、
生まれ出たりしこと、そして、やがてにおいては死してゆく、死んでしまうこと…

これらのことは、彼にとっては、
動かし難く、変え難くしてある(実在する世界の)本一部、
それに、そこにおける、変動変化たるものに過ぎない。

それ、それらとしての表象、表現、見かけとしてのものでしかないのだ。

その内における、

変化

その内における、

終焉

To the jnani it is obvious that nothing is born and nothing dies,
nothing lasts and nothing changes,
all is as it is -- timelessly.

彼においてともなれば、何一つとして、生まれたるのことなどなかったし、
また何かが死んだ、滅んだ、いなくなった、なんてこともまたありえはしないのだ…
このことが、事実であると、自明なる事として、覚えられて、

いる....。

何一つとして終わってなどない。そして何も変わってなどいないのだと。
すべてのことは、然るべく、そのままにして、在り続けてあるまで…。
そこに、”時”としての概念は、存在しない、してない、し得ないものなのだ……。

*実験観察推察をもってしてのその論理思考の果に〜とかじゃなくて、
 これとして、持たれるべくしての実感が理解が認識が、もう彼方より、否応もなく、
 鷲掴みされるをもって、到来してきてしまってる。
 圧倒的にそちらの方が、自分より遥かに巨大にして、畏れるべくしての偉大なるものと
 意識されてしまってるので、また説得力たるものを…、どうしたものなのか、最初から
 それを備えているんで〜、もう疑うなんてこた〜できないんだ。
*マハラジたるものにおいてならば、も〜そちら側、その在るとしての世界そのものと、
 ここに、その全体として在るもの、それらすべての、その総体としてのものと、
 一体化してしまっている…。なので、あれら、生と死のことなどにおいては、
 その意味、その色合い、その機微たるものは〜、まったくもってもう無意味なるものと、
 意味なきものと、成り果ててしまってる…。
*天国たるものに入りなば、極楽浄土たる所へと渡り得たならば、
 かっての、人の世にて在りたるときの、そのすべてが〜、
 無用なるもの、無価値、儚き限りのもの、夢うつつにしかあらじなること、
 その限りであったと、しかと、受け止められてしまうようになる。
 どうしても、それとしての覚えが、持たれて、しまっているんだー!。

Q:
You say the jnani is beyond.
Beyond what?
Beyond knowledge?

覚者となられた方は「超えてしまってる」貴方はこう表現されるのですが、
では、いったい何を、超えてあるのですか?。
知識を、なんですか?

M:
Knowledge has its rising and setting.

知識たるものは、それとしての出現と、形式化、形態化、総括が為されてあるまで。

Consciousness comes into being and goes out of being.

意識は、存在の只中にて、それとして現れ、そしてまた、その存在から去ってゆく…。

*大河が在って、その流れにおいて飛び散った一滴のしずくってのがよく使われる喩え。
*またロウソクってのに、どうしたものなのか、然るべくしてなのか、火が灯ったってやつ。
*その一滴が消えた、ロウソクの明かりが消えたとしても、死した、死んだとてしても〜、
 それは所詮は元の大河としてのものの中に戻った、もしくは機縁たるものが失せたので〜、
 その姿を消したまでで、永続永遠なる運動が途絶えぬその限りは、また再び、一滴のその
 迸りとなって、灯火としての現象となってこの世に現れて、

、しまうのだ。
*この辺は、実地に、その目において観察されたことを参考にされるのが一番いい。
*たとえ死したると言えども、その身が灰となったれども、命としては、絶えず流動してある
 その大本の中にて、未だ、収まってあるんだなってことが、

だろう…。

It is a matter of daily occurrence and observation.

それは日常においての発生物であり、また観察されたるの事柄においての(くく)になる。

We all know that sometimes we are conscious and sometimes not.

我々の、誰もが、知ってる、よっく理解してる。
あるときには(この自分は)意識的なる存在であるが、
またあるときにおいては、そうではない、そうは、なってないってことを…。

When we are not conscious, it appears to us as a darkness or a blank.

意識的でないとき、(しっかりと目覚めていないときには)、
ことは、

として、もしくは、

空虚

(時間)として、
我等のこころには認識されてしまうのだ。
暗愚って、このことばの、その意味の、奥ゆかしきこと、深淵なることかな…。

*反対としての表現が、「陽の光が差してある中で〜」になって、
 こうなると物事がはっきりされる。一如にて、一覧をもって、一事実しかなくなる。
*ところが夢見の状態ともなれば、事は夢としてのものであるのが、でしかないのが実際で、
 おばけ妖怪としての表象としての世界になる。一切において、嘘か真かが判然としない、
 実際事実と虚が、それらが入り混じった構成にて認識が想起が、起こってきてしまってる。
*もしくはだ、最後の空白としての、ただ「ボーっと」してただけ、「(うろ)(はい)ってた」の、
 表現としてのもの、その状態に在っただけ〜ってことにもなる。
 端的には「自己たるものの、その不在」ってことにて捉まえるのがいい。
*この、貴方としての意識の不在において、あるべくしての監視が不在時に、その空きを突い
 て、誰かが、

、操縦桿を握ってしまうのだ。このこいつの正体は、


 しての認められるべくしての旧来から、太古から、培われてきてしまってる癖であり、
 また業とよばれるものになる。自動稼働していて、ある種、


 その存在になる。「憑き物」ってのが妥当な表現になろう。

But a jnani is aware of himself as neither conscious nor unconscious,
but purely aware, a witness to the three states of the mind and their contents.

ところが、彼においてともなれば、彼自身、意識的でもなければ、無意識にあるわけでも
ないてことが分っている。識られてしまってる。あくまでも、自覚においては、ただ観測者、
見張り、目撃者としてあるまでなのだ。

人の心におけるその三つの様態、眠り/夢見(半覚醒)/目醒めたの、各その状態において、
そして自らのマインド内にて生起してある一切の事柄、その内容に対して、関してはだ。

Q: When does this witnessing begin?

この観測者としてのそ有り様は、その役目の遂行は、いつ始まるのでしょうか?。

介入:
もう既にお気づきではあろうが、エノク書の文脈における「見張りの天使」、「ザ・ウォッチャー」としてのものが持ち込まれてしまっている。これが本当は何を意味してるかにおいても私見を持ち込ませて頂いてる。ヒンドスタン文化の文脈においては、それの主体は「プルシャ」となってて、それによって持ち越される認知は、識別知/分別知(ヴィヴェーカキャーティヒ)って呼ばれてる。これが良心や魂と同義であるのかどうかは分からない。基本、これにおいてともなれば、過つことはありえない…。なにが正しいのか、過ちとしてのものなのかが、一発で、一瞥をもってで分ってしまう。直感における覚知なんだろう。

なもの
なのか、

もの
なのかが……。これのことを自分は神としてのその端末だって思ってるんだ。よってその行いは、

記憶/記録されてしまってる。道教における三尸(さんし)の虫ってやつの話も思い出してね。こちらはちょっと毛色が違ってきてるが、核心部においては同じものだと思う。問題となるのは、それにおいての深刻なる問題となってくるのは、それとしてのものに既に自覚的でありながら、このことは簡単にはそうはならないんのだけども〜、それにおいて、いけないってことって識られていることを、自発的に、確信犯的に、行うってことにになる…。悪いと知っていながらそれを行ったならば、後では、とんでもなく大変な面倒なることになるってやつね。その罪の結実たるものを解消する、その罪を償うって意味においてでは……。 転載:If thou already knows it bad and does it, thou committest a sin difficult to redress.(悪いと知って行えば、償うのが困難な罪を犯す)。その当人においてはまさしくそうだそうなののだが、ことは、その個人においてだけってその始末じゃないんだ。

、他者へと、当たり近辺のその皆へと、波及していって、し〜ま〜うーーーって〜、ことなんだ。エノク書のにおいては、そが故の伝染の結実が、ネフィリムだってことなんだろう…。それにて表されている…。これって、実際はなんなのか?。現実を見れば、その答えは、一発で、分かるっと…。:終わり


再開:

M:
To a jnani nothing has beginning or ending.

彼ともなれば、始まりも終わりも、最早そんなことは、もうなんの意味も、
持たなくなってしまってる。なんの意味もなさなくなってしまうのだ。

As salt dissolves in water, so does everything dissolve into pure being.

塩が水に溶け込むようにして、
すべてのものごとは、純粋な存在としてのものの中へと、
溶け込んでいってしまうのだ。

*(一体化して在る。それそのものの構成要素のその一つ、一断片でしかない。
  それも刹那の瞬間をもってしてのみにての…。)

Wisdom is eternally negating the unreal.
To see the unreal is wisdom.
Beyond this lies the inexpressible.

叡智たるもの、それが意味しているのは、

ものごと、ものらに対しての、

としての、その態度としてのものになる。

真実ではなきものを、ものごとを、
知る/識る/分ってる/直感してある、あれるってことこそが、
まさに叡智としてのもの、事態なのだ。

*(識別知/分別知ーこれをパンクチュアルにて果たしてあるのは誰?。)

このことが適う、そのラインの向こう側において、ともなれば、
ことの、すべては、最早、表現不可能なることの事態を迎える。

*ある意味、イデアそのものとしての世界、それそのものにおいての直接的な、
 認知になるので、言語化は最早、不可能のその限りとなってしまう。
*言語は、人間にとってのみの、その観念表記/表現の為の道具に過ぎないので。
*つまりは、言語は、または観念は、人の共同体内において、
 社会のみにおいて、通用するものなのだ。


Q:
There is in me the conviction:
'I am the body' Granted,
I am talking from unwisdom.
But the state of feeling oneself the body, the body-mind,
the mind-body, or even pure mind -- when did it begin?

私において確信されていることとは:
 私は、この体において、この身体において、存在することが、供与されたるものであること。
 私は、叡智たるものの不在下において、話しをしいるってことになるます。
 
されど、自身を、身体として感覚している、その状態、状況ともなるなあらば、
体とマインド(こころ)の連結におけるその果としての意識、
マインドと体の結合、連続体としてのそのものの有り様、
もしくは、純粋に、マインドそのものとして、その単体としての有り様は、
いつ、それとしての活動を、それとしての役割を、開始するのでしょうか?

M:
You cannot speak of a beginning of consciousness.

貴方は、意識たるものの、その始まりに関してを、語ることはできない。

The very ideas of beginning and time are within consciousness.

あらゆるすべての意見/考え/推測/推論、
その意識たるものの始まり、その出現に対してのものは、
そしてまた、時間たるものに対して同じ話しになるのだが、
それらはすべて意識の上においての、
そのマインド内にての、その場たるものにおいての…、
話でしか、な〜〜いっ!のだから…。

To talk meaningfully of the beginning of anything, you must step out of it.

いかなるものにおいてであろうとも、それの始まりにおいてを、ついてを、
意味深くして語ろうとするならば、貴方は、それそのものの、


踏み出さなければならない。

And the moment you step out, you realise that there is no such thing and never was.

そして、貴方が外部としての世界へと、一歩を踏み出したその瞬間!
貴方は、そんなものが本当は存在していなかった、過去においても、これまでにおいたって、
一度として、存在したことが、なかったってことが、その事実が、分ってしまう……。

There is only reality, in which no ‘thing' has any being on its own.

在ったのは、ただ一つの、現実としてのこの世界だけだ。

その中、その内においては、何一つとして、それ単体のみにて、それ自身の、
自力をもってしてだけで、生まれ得た、始まったものなど、ないのだっってことがだ……。

Like waves are inseparable from the ocean, so is all existence rooted in being.

止むことなく、止めどなく、押し寄せてくる波の数々の様に....
あれら波たるものは、海そのものから、切り離せようはずがないものだ。

かくの如くして、すべてのものは、すべてのものごとは、各個が、存在する、生きてある、
活動してあることにおいて、その根拠たるものを、存在そのものものに、持っているのだ。

*「誰のおかげで、なにのお陰で、生活できているのか?よく考えなさい!」と、
  小中高の長きに渡って、母親にさんざ云われてきた!。だから家の仕事をちゃんと
  やりなさいだった!。自分が家事ができなかったので、そういったことは全部
  こちらにお任せだった。ワンちゃんのご飯の用意もあった〜…。砂ずりキロ単位で
  仕入れてきて〜、グツグツ煮て、細かく包丁で切ってあげるの。むしゃむしゃ喰ってた
  な〜…。お陰で炊事洗濯は苦にならなくなったけど、嫌だったな〜…(遠い目)。

Q:
The fact is that here and now I am asking you:
when did the feeling 'I am the body' arise?
At my birth? or this morning?

実際、実感において、

、私は、貴方に〜、

いろいろとお尋ねしているわけですが〜、

この肉体、体たるものにおいて、
これが自分だと思うのは、考えてしまってることは、
いつの、どのタイミングで、始まったことなのでしょうか?。

この私が生まれでたとき(から)でしょうか?

それとも今日の朝、あの朝に目覚めたそのときからでしょうか?。


M: Now.

それは”今”のことだ。

Q: But I remember having it yesterday too!

しかながら、私は昨日も、それとしての実感を持ってましたが?!。

M: The memory of yesterday is now only.

昨日に関しての記憶もまた、今にだけ、許されてあるものだ。

Q: But surely I exist in time. I have a past and a future.

でずが、だけれども、私は、時の(流れの)中にて、確かに、存在しています。

だからこそ、私には過去がある、そしてまた未来もあるのです。

M: That is how you imagine -- now.

貴方はそうゆうふうにしてイメージを膨らませてあるまでだ。今のここ、この今にて。

Q: There must have been a beginning.

始まりたるものが間違いなくあった、あるはずなんですが…。

M: Now.

”今”が〜、正にそれなのだ。

Q: And what about ending?

ならば、終焉、終わりたるものはどうなんです?

M: What has no beginning cannot end.

始まりなきものには、また終わりたるものも、またあり得ない

Q: But I am conscious of my question.

しかしですね〜!、私は、私が質問してあることにおいて(完璧に)意識的なんですよ。

*おそらくは、ものごとには始まりたるものがること、また終わりたるものも間違いなく
 あるってことをこの質問者は確信してるんだ。だからこの自説においての前提を無効化
 されたくないんだわ。このポイントにおいては、この自分も同じ思いだわ。
*興味深いので先を見てみよう…。

M:
A false question cannot be answered.
It can only be seen as false.

誤った質問、偽りとしての質問において、答えることはできない。
虚偽の質問としか映らない。

(ご自身が信じていない、思っていないことにおいて質問するのはやめなさい。)

Q: To me it is real.

私自身にとっては、それはリアルです。

M: When did it appear real to you? Now.

いつ、それらが貴方にとってリアルなるものと確信されたのだろうか?…
それは今のことなのだ。

Q: Yes, it is quite real to me -- now.

いいでしょう。
ですが、そのことは、
今の私にとってはも〜完璧に、リアルなるなるもの、実感なんです!。

M:
What is real about your question?

貴方の質問のどこが、なにが、リアルなんだろうか?。

It is a state of mind.

それは単に貴方のマインドにおけるその状態、それにおける、おいての話でしかない。

No state of mind can be more real than the mind itself.

マインドにおいてであらざるして、それを超えて在るにおいて知る現実こそが、
マインド自身によってなるその現実よりも、リアルなるものになるんだ。

Is the mind real?

マインドたるものは、それとしての”場”は、

実在しているのだろうか?

It is but a collection of states, each of them transitory.

それは、マインド内におけるその貴方としての思いや考え印象は、
外界に対して偏見偏向まみれを持って摂取された、いびつにして、断片的なる情報、
それに対しての貴方独自の反射、反応…、独善的なる、独りよがりの、
その限りをもってしての思考/考察/推論/妄想/邪推等によって、
(つまりは習慣に基づいて)形成されたるものなのだ。
その状態としての記憶の記録の集積、混合塊、保管庫。
あくまでも儚くして、また束の間の限りに過ぎないものごとにおいての、
その消化の、反射反応としてのその過程、その道筋結果において、
結像がなされてあるただのモニター・スクリーン。
または、架空の出し物に過ぎなきものものごとにおける、
それのお披露目の舞台でしかない…。

*(注:悪意満載!)

*思念におけるその思考としての中身は、実は、まったく架空なるものでしかないのだ。
*観念たるものは妄想と呼ぶべきものでしかないのだが、その当人にとっては、
 それとしてのものとは思えない。何故だ?。
*たとえとしてのものでしかないのだが、テレビの中の世界にて生きてしまっているから。
*だって、そっちの方が、刺激的で、楽しく、また楽ちんなんだもん!。
*では、それは誰が楽しみ、執着し、志向しているのか?。
*またどうして、その事態を、食い破れないのか?……。
*眠りたるものが持つその特質さ……。ずっと寝てたい。
*現実を生きるにおいては、辛いことばかりだから、しんどいことばっかりだから。
*でもこれは嘘なんだ。怖いからなだけー!。最初の切っ掛けに際しては、
 

いっるーーー!。これが持てた人は、実は、ほんと、幸せなのだ。

How can a succession of transitory states be considered real?

そんな…その成立ちが儚きものの限りにしかあらないものの連続下において、
なにが、なにをもってして、リアルだと言うことが出来るのだろうか?!。

Q: Like beads on a string, events follow events -- for ever.

糸に通されてあるビーズのように、出来事たるものは、絶えず、いつも、
(先行する)出来事のその後を、ついて回る、引き起こってくる。それも永遠に……。

*デジャブとしての”感”が持たれる……。でもねっ、これもまた依って立つその基盤、
 その世界スケールによってことは違ってくるものだとしといた方がいい。
 現実においては、問題とされてあることの、その原因について数段の掘り下げを行うことは
 必須なのだ。ボトルネックたるものを見つけて、大概これは目には見えないことが大本に
 なっていてんだが、その正体を知ること、ことの原因をことが及ぼされてしまっている
 その状態を、改善改革するってことは絶対に大事なのだ。
 ことの結果は、実はやってみないと分からないってことだけでいいんだ。
 すべてを、そのマキシマムとししてのその存在に預けて、託して、そんでなにもしない、
 やんないってことは確実に間違っていると思う。ある種、危険な見地だ…。
*マインドはマインドなりに、その進化としての努力が要請されてあるのはまず確実なのだ。
 自然によってね!。超えるにおいても、このことは必要なはずなのだ。
*果てしなき因果の連鎖。それも余りに多岐に渡るその要因の錯綜したその有り様、
 そしてまたことの顕在化におけるのその後の影響、そのことの伝播、そして更に〜を、
 引き起こしてしまってあるその拡散の在り方において…。
 でもね、この地球上に、有機生命体が登場してきってことにおいては、
 一本の明確にして明瞭なる区分を、その線引を、してもいいと思うんだが…。
 たとえそれが遠く彼方より飛来した隕石に付着してあったものが種になったんだとしても。
 
再開!

M:
They are all strung on the basic idea: 'I am the body'.

貴方が「出来事」と呼ぶもの、それに、そこに、貴方が込めてくる、込めている意味は、
そのすべては、とある前提の上に、完璧に立っている、それに基づいた上での話なのだ。
根本的なる、その考えとは、「私は、この体としての生命体、生存体だ」なのだ。

*基本、人は、この考えの元にある。
*完全に自己を、自身の

、同一化したものとして見る。考えている。
*それ以外に、自己イメージを持つことは、基本、できないんだ。
*これが普通。あくまでも自然!。
*だが、ここに、‥いや…ある種の修羅場としておこうか、自己をオープンにして曝け出して
 おくことなど決してできない環境があったれば、人は自己を

(かくま)うといった能力を
 発揮することにもなる。それができるんだ。簡単に言えば、本音と建前としての自分の
 使い分けのことさ…。
*兎にも角にも、自身を表面から切り離した状態にて、留めおくこともまた可能ではある
 ことに気づく。気付ける。このことは修羅場たるものに長く留まることとなった者のみが
 会得できることになる。この辺がたいへん面白い。試練は人を進化、洗練、高度化させる
 わけなのだから。

Re:ちょっと割り込みコラム…

   マタイ 10:16より。
   「わたしはあなたがたを遣わす。
    それは、狼の群れに羊を送り込むようなものだ。
    だから、蛇のように賢く、また、鳩のように素直でいなさい。」

   もう一つ、今度のは別のところから。
   「狼の群れの中にあっては、

振る舞う必要がある。」
   こっちはGっだと思うのだが…。

   両者共にたいへん含蓄が深い。そして重い。簡単にはそうはならない、いかない。
   なにが必要なのか?!。詳細は語らず……。

*座禅ってのもまたよく似た、似たような効果を及ぼす。自己を日常としての世界から
 切り離したとこころで成立するものになるので。
*最終的には、自己を、肉体としてのその場に結ばれてあるまでの独立したまたなにかの
 存在であるとの認識にも到れるわけさ。ロウソクに灯ってあるその炎は、ロウそのもの
 とはまったく違う、別の存在であるってことが如実に実感されることにもなる。
 両者は切っても切れない縁で結ばれてはいるが、質的にはまったく違う。
*大事なのは、この肉体内における感情含めての種々諸々の反射作用に翻弄されたままに
 あることはよくないって事なんだ、それらの正体は、その大本は、動物次元における諸々
 のプログラムでしかないので…。
*ハッキリ言って、それらは盲目なのだ。知性や理性、良心たるものにおいてのその制御権が
 あまりにも乏しい。それらが介在する、介入する、指揮を取るってことはまずない…。

再開:

But even this is a mental state and does not last.

しかしもだ、自分を、肉体において意識してあるその状態もまた永続的ではない。

*気が多いのでエゴとしてのそれや、感情に簡単に染まっちゃってたり、見新しいなにか、
 気になるなにかにおいて、連想もってあれこれ吟味しだしてる。考えてしまってる。

It comes and goes like all other states.

貴方としてのそのすべての状態もまた、来てはまた去るまでのことでしかない。

*自覚がなぜかされない、されえない様なっている。
*ころころ異種としてのそのまた違う自分へと、止むことなく切り替わっていってる。
*さっきの俺と、今の俺は、確実に、その色合い、実感、質が違ってるって思ったこと
 あります?。

The illusion of being the body-mind is there,
only because it is not investigated.

肉体(体)ーマインドの連結、恒常的なる体組織との完全同一、それとしての事態、
これにおいての存在が持つ幻想が、幻惑としてのその作用が、ここにては働いているのだ。

何故そうなってしまうのか? しまっているのか?

確認が調査が当人よってはまったく為されてきてこなかったからだ!。

*内観、自己観察としての、内部に向けて光を差し入れて、ことの実相を知る。
*内省としてのものは後の振り返り。
*ことは、そのことが起こってあるその瞬間において覚知するにしかないんだ。
*インパクトが全然違ってくるし、精彩感が、切実感が違ってくる。
 よって、記憶に焼き付けるにおいて非常に役立つショックってのにも欠けるんだ。
*ことここにおいても

「識らしめるべからず、頼らしむるべし」としての作戦を
 その当初からは、その当初においては、打ってきてるんだ。
 あれってのは自然ってことにもなるんだかね…。
*おそらくは一種の篩、自力をもってその関門を通り抜けて来れた者のみを、
 

誘導するのだろう。
*万人にはその可能性は開かれていないので、大部は暗愚のままに、その内にて一生を送る。
 このことが不幸せなのかというと〜…そうでもない。両者共に神に祝福されてはある。


再開:

Non-investigation is the thread on which
all the states of mind are strung.

未調査、未確認、未吟味ってゆうその状況こそが、
すべての貴方としてのその心の状態を、

、糸なのだ。


*ここは自由気ままな勝手なる無軌道な限りとしての連想のあり方ってことになると思う。
*そこにトリガーとして働いてある連想のリンクは、かなりいい加減、あくまでも感覚的、
 まったくもって

。あくまでも反射的なるものだってことで良いと
 思う。

としての思考、配慮がそこにはまったくない。
 つまりは健全なる連想じゃない。

*「お前は感覚でしゃべるんじゃない!」って、永作が里見ゆりやに言ってたっけ……
 タイトル:「教えて!ケンシロウ姐さん
 https://www.youtube.com/watch?v=k0TbmDYRTpw
 これは名作。もっとも完成されてた一本。超お勧め。絶対見ましょう!。お暇なときに。

再開:

It is like darkness in a closed room.

それは、窓も扉も閉め切りにされてある部屋かなにかのようなものだ。
すべては、暗黒下における、その世界の内にある。

*これが通常の人間の生きてある世界。
*ここの暗黒の意味は、真にリアルなるものからはかけ離れている、切り離されたところで
 なされる認知認識にあるってこと。本当の現実としてのものではないので、暗闇だと
 されているまで。ちゃんと、光学的作用の元に〜とはなってはいる。
*夢と幻想、手前勝手な期待解釈と〜、真実/ホント/実相が〜、不可分なる形として、
 その様子として入り混じり合ってる。総じてこれは夢見の状態だってことにされてある…。

It is there -- apparently.

は、そこに、ある…。明らかに……。

*さて質問です。ここにおける " It " 

はなにを意味しているのでしょうか?。

But when the room is opened, where does it go?

されども、もし部屋の窓や扉が、開け放たれとなれば、

は、いったい何処へと行くのだろうか?

*何処へ、行ってしまったのだといえるのだろうか?。
*光の下の元にとなれば、影としての世界は、消滅してしまう。
*では、あの暗黒たるものは、どうなってしまったのか?!。

It goes nowhere, because it was not there.

それは何処へも行きはしない…。
なぜならば、

としてのものなど、最初からいなかった、なかったのだから…。

*なにかがあったいたとするならば、それは貴方におけるであり、無知なることになる。
*外側を観るにおいて何を

好んであるのか?、また嫌って憎悪してあるのか?。
*自分自身を棚に上げてってのが一番恥ずかしいことになる…。

All states of mind, all names and forms of existence are
rooted in non-enquiry, non-investigation, in imagination and credulity.

貴方が持つ心における(各)状態は、視認/意識されてある(あれやこれやの)対象が持つ、
該当する名前/名称/呼称/属性、そして、それ、あれらが持つ見た目におけるその形、形態、
見かけに、その根を、印象におけるその根拠を、思いとしてのそのすべての起源を、
持っている。

「あの人”東大出”だってよ…「今度発売の○○!メッチャかっこいいじゃん…「エロい体…」
「あの腰のクビレがいい!…「見た目からしてスタイリッシュ!…「大邸宅!お城みたい
 じゃんきっと金持ち…「あいつはきっと俺のことを下に見てる!…「おっ!えらく際どい、
 エロいニュアンスの言葉を混ぜてきた〜、あいつはきっと、俺と寝たいんにちがいない!
「これがロンギヌスって槍の…「もの凄い物量の投入なので、あのアンプはきっと重厚な音が
 出るに違いない!…「ほんとだ〜出てる出てるわ…も〜うっとり‥買ってよかったー!
 「もう飽きた〜…。」

その、これらのことにおいての特徴的なる事実は、ことにおいてのその真実は、
すべては、未だ、未確認のまま、未調査、未検証の段階にあるに過ぎないってことなんだ…

すべて、貴方の心の内に結ばれてある思いやら印象や、その考え、評価やらは、
幻影としての、

としてのものでしかない…。

貴方はすぐに、なんにでも、かんにでも、無意識に影響されてしまってるんだ…。
そうだと信じて、そうなのだと思い込んで、勝手に、いるまでなのだ。

たやすく信じ込まされてしまう、そういった、その質としての人間なんだ…。
あらぬことをあると信じて、正しからぬことを正しいと信じて、
盲信してってしまってる、それ


それとしてでしかあり得ない、人間なのだ…。


It is right to say 'I am',
but to say 'I am this', 'I am that' is a sign of
not enquiring, not examining, of mental weakness or lethargy.

「わたしは、いま、ここに、私たるものとして、存在しいる」これは正しい。

だが、「私は○○だ、私は□□だ」と思う、認識してある、語ってあることは…
それは未調査であることの‥、未確認の、着手不当なるの、その限りに過ぎない…。

いや、ハッキリ云うならばだ!‥貴方のその精神性の、弱さ、怠惰さ、
夢見のその深きばかりなることの、よって、虚のそれの入りまくりたるの…、
それとしての存在でしかないってことの、その、証明でしかない…。


Re: ちょっとここで、

をもってしてのコラムを一つ……。


ヨハネ9章1-8より

イエスは道の途中で、生まれつき盲人として生まれた人と遭遇された。

弟子たちは、彼においてイエスに質問した。
「先生、彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからなのですか?。
 この人ですか?。それとも彼のその両親ですか?。」

イエスは以下のように答えられた。
「この人が罪を犯した性でもなく、両親の性でもありはしない…。
 神のわざが(栄光が)この人において現れる、そのためだった。
 わたしたちは、わたしを遣わした方のわざを、
 

行わなければならない。
 

が、やがてには訪れてきてしまう。
 わたしがいる間においては、

、この世のだ。」

イエスは、こう言ってから、地面につばきを吐いて、つばで泥を捏ねられた。
そしてその泥を、盲人の目に塗って、彼に、こう言われた。
「行って、シロアムの池で、その目を洗いなさい。」

そこで、彼は云われた通りに行って、そこで目を洗った。
すると、見えるようになってしまったいてのだ。そして、そのまま住まいへと帰って行った。

近所の人たちや、前に彼が物ごいをしていたのを見たことのある人たちが言った。
「これは、(道端にすわって)物ごいをもって生計を立てていたあの盲人ではないか!」。

(改稿多々‥)


この段における、イエスの回答が、たいへん、興味深い…。
基本弟子たちが聞きたかった、知りたかった答えとはなっていない。
いや、そのレベルにおいての問いかけが、無効になる回答を、用意されたので。
弟子たちにおける業病たるものにおけるその起源、原因は棚上げにされてしまってる。
さてイエスの答えたるものは何処から、どのようにして帰結されてあったものなのだろうか?
流れ上においてことの帰結を確信することにおいて、それしか回答たるものがなかったから。
神の栄光を代弁するべくしての奇跡!。これを証しし、仲立ちするをもって、その結果を、
その事実を、世間に知らしむる!。このことこそが、あの場における要旨になる。
繰り返す。イエスにおいても、

答えられない、

答える必要のない、
質問であったのだ。了
追記:
業病である可能性がかなり高い。
でも、それが先祖の誰の因縁によって引き起こってしまっいることなのかは、
分からないことなんであろう…。子が子孫が

対価を支払うのは確実だ…。

「この世の光だ」は真実

、それを明らかにする、証明して見せるものの意味。

再開:

Q:
If all is light, how did darkness arise?
How can there be darkness in the midst of light?

もし、すべてが、光ならば、暗闇としてのものは、どうやって現れてくるのですか?
光の只中における暗黒たるものの、その現出は、いかに起こってしまっているのでしょうか?

M:
There is no darkness in the midst of light.

光の下において、その只中においてともなれば、そこに影たるものの成立の余地はない。
そんなもん、ありはしない。

Self-forgetfulness is the darkness.

自己を完璧に忘れ去ってある、埋没させてしまっていることこそが、暗闇なのだ。

*それとしての状態に陥ること。観察者、責任者、管轄者の、総責任の不在。

When we are absorbed in other things,
in the not-self, we forget the self.

我々が他のこと、日常における諸々に、巻き込まれ、それらに取り込まれ、吸収されて、
同化してしまったならば、もう我々は自己としてのものを離れ去り、
それのことなど忘れ去ってるのだ…

There is nothing unnatural about it.

についてともなれば、反自然的なることなど一つとして、ありなどしないのだ。

*それってなに?。本来としての自己

のことでしょう…。

But, why forget the self through excess of attachment?

しかしだ、されどもだ、自己を、絶え間ない同一化の連続、
その狂奔の元に、故に、その果に、
忘れてしまった、忘れ果ててしまってるともなれば、
ことは、貴方としてのその存在の意味は、意義は、どうなってしまう?!

Wisdom lies in never forgetting the self
as the ever-present source of both the experiencer and his experience.

知恵と呼ばれるものとは、智慧とされあるべきこととは、
自己たるものを、それ

、忘れないことにことにこそある。

それは…(自己そのものとは…)

ことを成立させるにおいての、
体験として受領/賞味している者と、その体験そのもの…、
この二つを同時に成立させている、つないであるところのもの、
それらを初めて顕在させてある、出現させてあるもの、
常に、いかなる状況であろうとも存在してある、するべきものとしての、
体験そのものの源泉、ことにおける真の原因体、としてものになるのだから……。

Q:
In my present state the 'I am the body'
idea comes spontaneously,
while the 'I am pure being'
idea must be imposed on the mind
as something true but not experienced.

現時点における私の状態としては、
「私はこの体である」が正しく、また妥当なるものとして思われます。
この思いは、あくまでも自然な、感覚に基づく自覚においてのものになります。

しかしながら、片や、「私とは純粋に存在してあるまでのもの」としての考えともなれば、
それは、マインドに、無理強いしなければ、成立しえないものになってしまいます…。
たとえ、これこそが真実であったとしても、未だ体験たるものを持ってないので、
その上ので話でしかないからなのです…。

M:
Yes, sadhana (修行修練) consists in
reminding oneself forcibly of one's pure 'being-ness',
of not being anything in particular, nor a sum of particulars,
not even the totality of all particulars, which make up a universe.

そうだ、自己修練たるもののその核心性は、
自己に、強制的なるの態度をもって、して、
自身が、純粋なる存在であることのその事実を、
思い起こさせ、知らしめて、意識してあるまでのことなのだ。

なにか特別なるなにか、としての者などとしてではなく、
特殊な、特定なることとしての、そのなにかの合算/合計としてのものでもなく、
宇宙を構成してあるそのすべてとしてのもの、それらの全体性としてのものでも当然ない。

介入:
ここはやや精神世界関連でよく語られてある言説に対しての

が混ざってる…。
前者は手前勝手な自身に関してのおいての価値付けの話し。「あなたの個性たるものが真実大事なの‥「これまでに貴方が苦労して果たしてきた自己実現におけるその成果を、実績を、誇りなさい…「貴方は世界で唯一つの存在なのよ…等々。後者は、これこそあれだは、自分は宇宙の縮図たる存在、普遍的なる人間、ユニヴァーサルヒューマンとして最初から在るだとか。
そのことの実際は、こうやって考える、思う、願ったその瞬間に、ことは変質を遂げてしまう。エゴの強化としての事態になったしまってる。そんで真にその事実としてのものを、
その存在を現実から分断させてしまうことにもなってしまうんだ…。:介入終

再開:

All exists in the mind, even the body is an integration in the mind
of a vast number of sensory perceptions,
each perception also a mental state.
If you say: 'I am the body', show it.

マインドにおいてのそのすべての存在物は、この””としての考えさえ、それは一つの
マインド場における、その電算機能における、一つの析出、一つの出力結果でしかないのだ。
分ってはいるだろうか?…すべての、あらゆる、各種、それぞれにおいての知覚や認識は、
その印象は、それらもまた心の状態としての、その内容物でしかないことが。

もし、貴方が、「私は、この体としての存在だ」と言うならば、
それを実際に見せてみなさい、証ししてみせなさい。

Q: Here it is.

今、ここに、貴方のすぐその目の前に、証拠が、実証が、事実が、あるではないですか?。

M:
Only when you think of it.

ことは、貴方がそうだと思う考えるその瞬間にのみ、そのときのみの話しなのだ…。

正解:
ほとんど正解だったのだが、言葉を発したその時点ですべては”おじゃん”になったのだ。
ことを理解している、既に、ことにおいてを悟っていたならば、自己をそのまんまにして
差し出していれば、おれば好かったのだ。
もう一個、おもしろくまた興味深い話しを....。
朝に師と一緒に食事をしている。茶を飲んでいると師が「今朝のお茶はどんな味がする?」と
訊いてきたとしよう。当然にこれは弟子を悟りに導くして掛けられて問答になるのだが…。
あなたならなんと答えただろうか?。正解は上と同じくして、グビリと、即座にお茶を飲んでその味わいを確認していれば良いだけのはなし。あるレベルを超えてあるならば、両者間においては以心伝心としての

開かれている。そうなれば、言葉は完全に道具、機縁としてのものでしかなく、イデアとしての意味そのものの伝達こそが主要となってしまってる。相手の思念をダイレクトなるをもって、つまりは一切の推論推察考察を要する、経ることの必要もなく、そのまんまが、識られる、受け取られることとなる。:了


再開:

Both mind and body are intermittent states.

マインドと、体(ボディー)としての自己認識は、共に、そうであったり、
そうではなかったりとしての、

としてのその有り様なのだ。

*自己を自覚するにおいての重心が、切り替わってる、移り変わっていってる。
*連続性がないとことにおいて、それを感じさせないのは、即時それとしてのものと、
 完全に自己同一化が果たされてしまっているからなのだ。
*矛盾を感じさせないで済むようにしておいてくれている。
*多分生存競争においては、それは、矛盾の覚知は、邪魔になるからだろう。

The sum total of these flashes creates the illusion of existence.

肉体に備わっている/ある感覚器(五門)からの入力に対しての
その吟味/判断/消化としての処理工程、そして、その結果に対しての、
然るべくして自動的にて起こる反射反応の総体/総計において、
幻影としてのその内容たるものが、それとしての中身が、
(貴方の心の/マインドの内にて)存在することになるのだ。(フー)

Enquire what is permanent in the transient, real in the unreal.

実相たるをよっく吟味して、そこに真に知性を働かせるをもってして、調査してみなさい。
儚きことのその限りにしかあらぬものらの内において、恒久的なるものが果たしてあるのかどうか、あり得るのかどうかを!。

This is sadhana.

これこそが修行においての核心部になる。

Q: The fact is that I am thinking of myself as the body.

しかし、現実において、実際、私は自分自身を、この体としてのものだと考えてます。

M:
Think of yourself by all means.

「あなた自身…」この言葉の意味を、貴方は、よっく、その語が含む全体の意味において、
考えてみなければならない。

Only don't bring the idea of a body into the picture.

その考察においては、絶対に「自分が体だ」としての考えは持ち込んではならない。

There is only a stream of sensations, perceptions, memories and ideations.

そこ(自分を構成する肉体)にあるのは、興奮、認識、記憶、
そして観念化されるをもってまとめ上げられた思い考え想念たるものの
その奔流しかないのだから…。

The body is an abstraction,
created by our tendency to seek unity in diversity -- which again is not wrong.

肉体たるものおいてのその認識の場は、あくまでも抽象的なものでしかない…。

多様としてあるもの、ごちゃ混ぜ、混乱、カオスと認識されてあるその対象群において、
統一性を見い出さん、築かんとしてのその欲求、その傾向性にて、ドライブ、創造され
てあるまで…。

補記:
生体反射機構…獣としてのその内的世界は、

洗練されていて、また整合性も取れている。このシステムの上に、その上位にて、人としてのマインドが所在するようになってしまってる。上位なるものなので、すべてを吸い上げて、制御権をも、持ってしまってる。この事態をとりあえずは原罪においてのその結果だと自分はしてる。核心としての事態は「正誤を識るようになってしまった」ってことで表されているのだが…。まっいい‥この補記において述べておきたきことは、肉体、体、これは圧倒的に精密にして複雑にしてなる生体コンピューターだってことなんだ。でも…操縦士が、操縦桿を握るにおいてのその自覚と覚悟がないので、すべてが統合性を欠いた状態にて、も〜めちゃくちゃなるがままにて現在は普通は、機能してしまっている…、ノイズまみれの、それの奔流の、その濁流としての内部状況になっちまってる。自覚はなかろうだろがね…。コンピューター内においてもそこには恐ろしくノイズとしてのものが存在してることは、もし貴方が、MP3ファイルの再生に精通されているならば、お分かりのことであろう。このノイズはカットをもってして制御してから再生にまわさなければならない。ことは人間においても同じだと思う。マハラジが語ってあることは極度に重要なことではあるが、この肉体においてのその機構を完全支配することが

になるであろう。そして、このことはマインド場においても同じこと。端的には理性知性、意志力を、発達させなければならない。それは死闘格闘をもってしてでしか育ちはしないのだ…。
何との?…。

昨年は暇な時間はトータルエクリプス見てた。あの全111話をもってなるやつ。
だんぷりんくさんのサイトのを。戦術機は肉体だ。それを操ってある操縦者は、
別次元と呼べるフィールドの、その主人になる。

         もう一回、ここにおいても、あの絵を、掲載しておこう…。



再開:

Q: I am being told that to think 'I am the body' is a blemish in the mind.

(なんだかずっと貴方の仰ることを聴いていると〜…、)
自分が、この体だ、としての思いを持つことは、その確信を持っていることにおいては、
自分のマインドたるものが、欠陥品だからなのだと、
(恥ずべきそのできあがりであるからなのだと、)
云われているかのような気になります…。

M:
Why talk like this?
Such expressions create problems.
The self is the source of all, and of all -- the final destination.
Nothing is external.

何故、このように話す?。(何故に、そのような受け止め方になってしまうのだ!?)

そのような表現を、貴方が選択してあること

、問題を作り出しているのだ。
その自己は、すべての源泉としてのものである。
そして、あらゆるすべてのものが、至り着くべくしての、その最終到着地でもある。
(それ以外は)、貴方の外には、なにも、存在してなどいない……。

*ここがある種の山場。

Q: When the body idea becomes obsessive, is it not altogether wrong?

「この体としてのものが自分である」。
この考えにおいて、改め難くしての確信を抱いてあることは、
まったくもっての勘違いを、自分はしてきてしまってる〜ってことなんでしょうか?!。


M:
There is nothing wrong in the idea of a body,
nor even in the idea 'I am the body'.

体としての観念に、その捉まえ方に、問題はない。
私はこの体だとしてのこのアイデアさへも、また間違いなどではないのだ。

But limiting oneself to one body only is a mistake.

だが、自身を、一つの肉体において限定したとき、問題は起こってくる。

In reality all existence, every form, is my own,
within my consciousness.

現実においては、すべてが(確実に、間違いなく、)実在している。
すべてそれそのもののフォーム、その形をもってして。
それそのもの、それ自身を表す、表してあるものとして!
それも…(また…)私の意識としてのその舞台上においては〜なのだ。

*つまりは、「私としてのその認識内においては〜っ」てなことなんだろね。
*そうなのだ。誰も・外部・としてのその領域に・接近接触到達することはできない
*これもまた「非在の在」としてでしか観念化、表現できないもののことになる。
*神なんてものなんか、まざにこれ…。
*大海そのものに完全に溶け込んで、

となってしまったならば、その機会に
 自身たる境界を完璧に喪失してしまったならば、つまりは「非在の在」そのものと化して
 しまったならば、その後にはなにが残るのか?、それにおいての言質たるものとは、
 いったいどの様なものになるのか?。
 これらの問に対しての最大級の回答が、その実例が、マハラジになる。

                   特別公開!
               〜〜マハラジの愛唱歌〜〜



                ♪葉巻(くわ)えながら〜…、
                 ♪それ(くゆら)ながら〜…、
                  ♪弟子たちに教えるときには
         ♪

いっつも

口ずさんでた〜〜〜
                 (NEU! の Hero それのビートにて)

再開:

I cannot tell what I am because words can describe only what I am not.

私は自分がなにとして存在しているのかを語ることはできない。
言葉は、私がなにでは、なんでは、ないのかを、語ることしかできないからだ。

*基本、言葉としてのその観念のすべてが実際は実在していない。
*なので〜、否定をもってしてでしか、真実なんてもんは、語ることができないんだって。


I am, and because I am, all is.

私は(今ここに)在る。そして、このことが何故なのかと云えば〜、私で在るが故に…。
これしか言えない。これがすべてとなる。

But I am beyond consciousness and, therefore,
in consciousness I cannot say what I am.

されども、言っておかなければならないことは〜、
私は、従来の意識たるものを、既に超越してしまったものなのだ。
(そこのその領域から、貴方に、話しかけているのだ。)
なので、そがゆえに、
意識において、自分がなんとしての存在であるのかを語ることはできない。

*心臓に、己が役目を語れったって〜、たとへ口が利けたとしても回答には困るだろうさ。

Yet, I am. The question 'Who am I' has no answer.

されども、私は(確実に今ここに)存在してある。この私たるものがなんであるのか?、
それの真実、その本体/実体ものが何で在るのかについての関してのその答えはない…。
(持つことが既に適わない、語ること事態が相応しくない便宜になる。)

No experience can answer it,
for the self is beyond experience.

如何なる体験/達成/悟りをもってしても、
この問い掛け対しては答えることができない。

なぜならば、この自分たるものの本体/本性/核心は、
体験としてのその世界を、超越したものとしてあるからだ。

*この世に生まれ落ち、然るべくしてのその成長の後にはこの問が確実に各自にて持たれる
 こととなる。幼年期の頃のことだろう。この問には答えがないのでまた日常に忙しくまみ
 れてしまうをもって完璧に忘れ去ってしまう。だがこの問は、核心であるが故に、残る。
 残ってしまう。残しておかなければならないのだ。このことの苦しみは、あえてをもって
 して、意識的に、担って、背負っていかなければならない。
*そうことは問を発した発していた部位においてでは回答できないことであったと、後に
 完璧に理解されることとなる。だが、その自分

識る覚る領解するにおいては、
 良き機縁たるもを得さしてくれた、これこそがもたらしてくれたものとして、懐かしく、
 また愛おしく、思い起こされることとなる。(知性センターのことね)

Q: Still, the question 'Who am I' must be of some use.

たとへ、そうだと、そうだとして、あったとしても!
自分たるこの命ある存在が、なんであるのか?
その正体たるものがなんであるのか?の、
この質問をすることには、
間違いなく

、あるはずです!。

M:
It has no answer in consciousness and,
therefore, helps to go beyond consciousness.

その答えは意識上においてはない。存在し得ない。
そして、そうであるからこそ、ことは、
この問に対しての回答を切望するならば、
貴方が意識たるもの、その舞台を超えてゆくことの、
その発端としてのものになるのだ。

*その答えを求めるその行為自体が、実はマインドを媒としての、本体そのものからの
 その希求、欲求、切望だったのだ。その出来合いの作り物でしかない舞台から、降りる
 離れるをもって、ダイレクトに自己を覚知するにしかその方法はない。
 背後に、それを析出をもって確信するにしかない。
*このことの媒となるのが自己想起。

Q:
Here I am -- in the present moment.
What is real in it, and what is not?

私は、ここにて、今現在、確かに存在してます。
このことにおいて何が確かで、何がそうではないのですか?

Now, please don't tell me that my question is wrong.
Questioning my questions leads me nowhere.

この時点においてこの私の質問が間違っているだの言わないでください!。
私の質問に対して、質問をもって返すことは、何処にも至れない、
連れて行くことなどできません。

M:
Your question is not wrong. It is unnecessary.

貴方の問は間違いなどではない。ただ、不必要なまでだ。

You said: 'Here and now I am'.

貴方は言った、ここに、いま、自分は存在してあるのだと。

Stop there, this is real.

そこで止めなければならない。このことは現実だ。

Don't turn a fact into a question.

事実において、それを質問に、換えてはならない。

There lies your mistake.

そこに貴方としての間違いな横たわっている…。

You are neither knowing nor not-knowing,
neither mind nor matter;
don't attempt to describe yourself in terms of mind and matter.

貴方は知るでもなく、また無知なるわけでもないんだよ…
(貴方は)マインドとしてのものでもなければ、物体としてのその存在でもない。

貴方自身をマインドにおいて持たれてある、所有されてある、あれら概念、観念、思考、
そしてモノでしかないものにて、おいて、
考察する、叙述する、記述することなど試みてはならない。

Q:
Just now a boy came to you with a problem.
You told him a few words and he went away.
Did you help him?

ここにいま、一人の少年が貴方のところに問題の相談においてやってきたとします。
貴方は彼にいくつかの言葉を投げかけ、それれ彼は帰っていきました。
貴方は、彼を、(このことにおいて)助けたことに、なるのでしょうか?

M: Of course.

もちろんだ。

Q: How can you be so sure?

どうして、どうやって、貴方は、その事において確信を持たれるのでしょうか?

M: To help is my nature.

助けを差し伸べてあること、これが私においては、あくまでも自然な態度なのだ。

Q: How did you come to know It?

では、どうやって貴方は、それがそうだと知ったのですか?

M: No need to know. It operates by itself.

なにも知る必要などない。そのこと自体がすべてを、そうあらしめてあるまでなのだから。

*両者のコンタクトにおいて、そこに形成された交感の場それ自体が、問題のそのすべてを
 明らかにしてあり、してしまってて、自ずとそこに備わってある

を、問題となる
 べく存在しているその

、問題の根幹たる部分そのものを、両者共に、理解させる。
*この展開の推進力となっているものが、まさにマハラジの思いやりをもってしての、
 そのとしての心の働きが故のことなのだ。
*このことの実証を、マハラジは、いまここに、いまここで、やって見せてくれているんだ。
*やりとりの中で、その内にて、質問者はMの居るその世界によって侵食されていってしまう
*あとはこの質問者としての彼が、自説に、己がエゴに

、真実としてのその
 世界を、やがてにおいては垣間見ることが可能にはなるんだがね…。
*なかなかに、このことは、難しい。なまなかには、行い難い…。

Q: Still you have made a statement. On what is it based?

しかしながらも、貴方は、意見たるものを、はっきりと言葉をもって(訪問者らに対しては)
語られていた。この言説たるものの、その信ぴょう性は、その権威は、
何に、基づいてのもの、ことに、なるのですか?!。

M:
On what people tell me.

人々が私に語ったその言葉、その内容において…。

But it is you who asks for proofs.

しかしだ、私が語ったことにおいてのその証明を、求めたのは貴方なのだ。

I do not need them.

他の人々のことは、今の、貴方との関係において必要ない。

Setting things right lies in my very nature,
which is satyam, shivam, sundaram (the true, the good, the beautiful).

ものごとのすべてを、あらゆるものごとを、正しく、整える。
これこそが私においてのあくまでも自然なるその態度としてのものになる。

真実、本当なること、善きこと良きこと、美しきこと、美しくしてのその行い。
これらとしての質に、色に、その顕現に、奉じてあることこそが…。

Q:
When a man comes to you for advice and you give him advice,
where from does it come and by what power does it help?

誰かが貴方にアドバイスをを求めてきて、貴方はその求めに応える。
では、その応えたるものは何処から来たるものなのでしょうか?
そしてどういった力、権威において、そのことが助けになっているのでしょうか?。

M:
His own being affects his mind and induces a response.

(ことにおいては)その質問者自身の存在こそが、彼の思考に影響を与えることとなる。
そして、(あるべくしての、然るべくしての)反応を、彼から引き出す。
(彼においてあくまでも客観法則に基づいて、然るべくしての反応を誘導する、起動する、
 呼び起こしてしまって、ある/いるのだ)。

*基本的には、すべては、然るべく、調和してある。これが普通。
*だが、人間においては、それのみにおいては、混乱が/不調和が/狂いが生じてしまってる。
*全体としての構成が他の有機生命体と比べて、異常に複雑にし高度であるが故に、少しの
 狂いをもってのその影響は甚大なのだ。
*一律を回復するには、調和を達成している誰かと同調すること以外には基本方法はない。
*調和の達成、それも回復も実は簡単で、真に自分としてあるものが、権威の椅子に着座
 すればいいだけの話なのだ…。だが、このことは眠りの状態にあってはまず不可能。
*なので、便宜的に、その目覚めてある人に、影響を受けるをもって始める必要がある。


Q: And what is your role?

そのことの進行中において、貴方が意識する、その役割とは?

M: In me the man and his self come together.

私の中にて、その人間と、彼自身は、一緒になるのだ。

私の世界内にて、その人間と、彼自身は、一体化する。

*マインドにて意識されてある自分としての意識と、それの本体たる本質が、
 分かたれなく、然るべくしての、その本来としてのその姿、状態を回復する。
*真に信頼を寄せうる、自己の全てを預けて託せる、なにか大いなるものとの関係。
 これとの一体化において人は日常における変調を回復すること、そのことからの
 悪影響を無効化することができる。
*かっては、本来は、家庭そのものが、この役目を果たしてあるべきものなのだが…。


Q: Why does not the self help the man without you?

なぜに彼自身としてのその存在は、貴方(の助け)なしにて、
その当人自身を、彼自身を、助けることが、できないのですか?

M:
But I am the self!

しかしだ、私が

存在なのだよ。

You imagine me as separate, hence your question.

貴方は私を分離されたるもの、独立してあるものとして、想念を巡らせている。
そうであるが故の、(これは)貴方の質問となっている。

There is no 'my self' and 'his self'.

(基本前提としてよっくわきまえておいてもらいたいことなんだが、)

私自身とか彼自身なんてもんは存在などしてないんだ…。

There is the Self, the only Self of all.

ここにあるのは、ザ・セルフとしてのもののみ
すべてとしての、自身が、自己が、(セルフ)が、あるだけのことなのだ。

Misled by the diversity of names and shapes,
minds and bodies, you imagine multiple selves.

名前と、その見かけにおいてのその形の多様性において、
誤った思い込み、誤解としての認識にて、貴方は染まってしまってる。

こころにおいての私、肉体としての私…、
錯綜する、錯綜してある、並列する、複合状態としてあるものとして…
そんなものにおいて、自分としての存在を想念/空想してしまっているのだ。

介入:
ザ・セルフしか存在してないってのは、究極の事実、問いに対する最終的なる回答になる。
だ〜がー、そのことの悟りに至り着くまでには、複数としての自己もまた重要な確認ごとにな〜るーー。それらは本来の自己では決定的ないが、同一化するにおいては異常にたやすくしてのものではある。それとしての、あれやこれやとしての自己認識は、もう恒常的になってしまってる。そこにあるそこに備わってある矛盾を、一切感じてないってことこそが不思議。このことの習慣化において、再履行の果においては、それはあたかも一個の独立した、まるで命あるものかの様な振る舞いを始めてしまっているのだ。反復するをもってそれらは結晶化されてしまって、改めて、その当人に、ことの再現を再実行を改めて求めてくることになる。それとしての命はこの自分としての生命でしかないんのだがね…。つまりは、つまらん一人芝居を延々と繰り広げてあるまでの話なのだ。それらは確実に、もう絶対的に、自己としてのものなんかじゃない。たんなるロールプレイにおける役者としてのその存在でしかない。:介入終

追記:
一つ、一つ、よっく吟味して、良からぬものならば、それらを虱潰しに、
していかなければならない。ことは超長期としてのその構えそれにおいての課題となる。


再開:

We both are the self, but you seem to be unconvinced.
This talk of personal self and universal self is the learner's stage;
go beyond, don't be stuck in duality.

我等は共に、ザ・セルフとしてのものなのだ。
貴方においては、どうやら未だ確信が持たれてはいないようだが…。

この「個人においての/個人にとっての自己」と「普遍的なるのその意味おけるその自己」
との話しは、初学者にとっての、初歩としての、そのステージ上におけるテーマになる。

その「個人としての/個人においての自己」たるものを貴方は超えてゆかなければならない。

二元性におけるその判別の習慣に、囚われたままであってはいけない……。


介入:
一足飛びに、ことの核心を突くならば、この「二元論」(duality)ってやつこそが核心。たぶん、

根本的な要因。(これは我々においては常習の、認識におけるその目安、レギュラーフォーマットとしてのものに、なるのだが)、知恵の実を食べたことによって人類が手に入れた自然からすればイレギュラーなる能力であると共に、これによって果たされてしまっている、その傾向性だってことが言える。要は

ってことよ。うまい/まずい、キレイ/きたない、美人/ぶす、おニュー/使い古し中古、熱い/冷たい、快/不快、支配者/奴隷、主格/従属、その他諸々。これらの対立する概念において、あれやこれやを判断してその対応を決定している。この色分けの伴わないもの、ことにおいては、貴方は現実においては、どんな対応をとっているだろうか?。ごっそりそこの部分においては意識が抜けてしまっているのではないだろうか?。まっビビッドに明瞭に世界を色分けしてくれる、くれている判断基準ではあるわな〜…。*一つの可能性ではあるが、永世を絶たれてあるが故に、もう絶対に問題としての、不幸なる展開にしかならない。サタン系は永遠に地獄で苦しむにしかない。主を離れて独立することはこの宇宙、この世界においては叶わない…。

閑話休題。ここのマハラジの話においては、ことは、自分と他者としての判別においてのこととして二元論が登場してきてる。主体に対してのオブジェクト/対象ってことになる。この両者の間に明確に引かれてある線引ってことになる。そこには、越えるに超えられぬ、断絶ってやつが横たわっている。そうそう、上の例においては男と女、陰/陽ってやつも加えておかなきゃならなかったな…。

この両者間における断絶としての線引は、非常に明瞭なものである。社会人ともなったれば分別を身に着けなければならないので俄然強力なる認識における区分けとなってしまうことになる。自宅の敷地たるものにおける区分けは、厳正に厳密なるをもって、確定しとかなきゃならない。じゃないと売るときに困る。固定資産税のその算出の為にも!。

国境ってやつも、その土地に眠る資産たるものを押さえる為に、執心ごととしてある。あの大海原の海ってやつにおいてもそこには水域制限なんて区分けを建立してしまってる。

ちょっと脱線するならば、村やら市町村、都市としてのものがあるからこそ、個人としての名付け、区分ってのが必須になってきたのだ。共同体の一員として認められるためにこそ、個人としての自我は形成され、強化される運びとなった。

もう一段、脱線すると、昨年の2022年においては二つの話が異常に自分のこころに残った。それは人は何故戦争において他者を殺せるのか?ってテーマにおいて。殺すことにおいてどうしてそんなにも前向きになってしまえるのか?ってこと。それもだ平素において至極一般人であるその人間がだ!。一つにはアカデミーにおける実験報告。シミュレーションの様な実験で、ことはスイッチを入れるか入れないかのやつ。もう一つは、アニメ映画、呪術廻戦0の作中内において登場人物が語ったところ。誰が言ってたのかは覚えてはいないが、ことは自分が属する組織におけるその意向ならば…?、この組織を守る為ならば…?、セリフに関しては忘れてしまったが、ことの要点としてはどちらも自分が属する、養われてある、人間関係が既に築かれてある、良好なるものとしての話だろうが、その立ち位置を、その状態を守る、維持する為にらしい。つまりは、共同体の一員としての意識が、いざとなればたやすく拳銃の爆薬の投爆のトリガーを引かせることになってしまう…。なんの良心の呵責もなく……。

   マハラジがここに語ってあるザ・セルフとしてのものがなんであるのかは、
           イメージ図をもって確認するにしかないだろう。



   大洋としての、この海そのものが、そのすべて、全体が、それとしてのものにあたる。

超えていかねばならないって彼が言ったとき、貴方がなすべきことは極端なるパラダイム・シフトとしてのその認識の変換になる。それが果たされてるのは存在においてのその自己としての重心を、海面上の氷山から、水面下における本体へと移動することによって。大切なることは、それは確かに

ってことなんだ…。: 介入終

追記:
この自分としてはなんとか日本が良き国へとなってもらいたい。やはり日本人なんでね〜。
ことはだ、渡れるその機縁が訪れたなら、そのときには、もうなんにも考えずに渡ろうの、
その思いだけでいいと思う。渡ろうとして、超越せんとしてのその努力は気に入らない…。


再開:

Q:
Let us come back to the man in need of help.
He comes to you.

貴方のお力にすがって、助けを求めてやってきた男の話しに戻りましょう。
彼は貴方の元へとやってくる…。

M:
If he comes, he is sure to get help.
Because he was destined to get help, he came.

もし彼が私の元に来るならば、彼が助けを得ることは確実な話だ。
何故ならば、彼は、助けを得ることが定められていたればこそ、
私の元に来たのだ…。

There is nothing fanciful about it.

この必然としての出来事においては、そこにはなにも不思議なるものはない。

I cannot help some and refuse others.

私において、誰か、特定としての者を助け、その他の者において、
それを拒むなどということはない。

*助け/指導/助言を求めて来る者ならば、そのすべてに対して、
 自分は可能な限りの助けを行う。これが自然。当たり前。決してより好みなどはしない。

All who come are helped, for such is the law.
Only the shape help takes varies according to the need.

来るもののそのすべては救われる。これは(宇宙的なな意味におけるその)法則、
そが故の状況の整い、また展開におけるその顛末なのだ。

必要とされること、切実なるその求めにおいて、対して、
(ことの問題を解決すべくして)その舞台は/役者の登用は/形態は/形は/展開は、
析出/用意/創造される…。

Q:
Why must he come here to get advice?
Can't he get it from within?

何故に彼はこんなところへまでアドバイスを求めてやってこなければならないのですか?
彼には、彼自身の内から、それを手に入れることは、できないのでしょうか?。

M:
He will not listen. His mind is turned outward.

それもまた可能ではあるが、彼はその声を聞くことはないのだ。
彼のこころは、外部に、向いてある。

But in fact all experience is in the mind,
and even his coming to me and getting help is all within himself.

しかしながら、全ての体験たるものは、自身の心の内、マインド内におけるものでしかないのが事実なのだ。そして、彼が私の元に来たとしても、そこで救いとなる助言を得たとしても、ことのすべては、彼自身のそのこころの内においての、できごとでしかないのだ。

Instead of finding an answer within himself,
he imagines an answer from without.

彼自身、自らの力だけをもって回答を見出す。つまりは自身の内にてことの問題を解決する。
そうする代わりに、彼はことの答えを、自己そのものの不在の地としてのその外部に、其処にて、得ようと思い、願い、展開のドラマを

、イメージを

、それに沿っての努力をしてきてしまっているのだ…。

*ここも、極北の、究極の真理においての論点、それにおいての語りとなってしまってる。
*自己の内に、すべての根源としてのその存在たるものを見出す為にはまた旅も必要になる。
*チルチルミチルと十牛図において描かれてあるその展開は、普遍的なるものとしてある。



(いた)り、辿(たど)り着くべくしてのものは

そのものではあるのだが
 外界をさまよう、訪ねて/尋ねてまわることもまた必須なる行為行動その努力ではある。

再開:

To me there is no me, no man and no giving.
All this is merely a flicker in the mind.

(私に写ってあるのは)そにに私はいないってことなんだ…
誰も人間としてのものはいない…そしてなんの贈与もない、行われてなどいないんだ…
すべてのことは、マインド内における、その明滅としての事態でしかない。

I am infinite peace and silence in which nothing appears,
for all that appears -- disappears.

私は、究極の平安…そして(絶対の)沈黙としての存在なのだ。
その内においては、なにも起こらない、起こってはいない、起こりなどはしない…
現れるくる全ての出来事において、そして、消えゆくものらそのすべてにおいても……

*この部分は比喩としての表現などではなく、真実それしか、そうとしか表現できないもの
 なんだ。これがマハラジ自身が覚えてある自分としての現在、その状態における感慨。
*清く澄んだ池みたいなもの。そこには魚らの遊泳や流れとしての運動は備わってはくるが、
 それもみな一時の話しでしかない…。
 
Nobody comes for help, nobody offers help, nobody gets help.
It is all but a display in consciousness.

誰も助けに来ることはない。誰も助けを申し出てくることもない。
誰も助けを(外部から/この自分、マハラジから)得ることもないのだ…。

ことのすべては、(当人における)その意識としてのディスプレイにて映し出された、
映像、投影、希望としてのそのイメージでしかないのだ……。

介入:
このへんの語り口は、なにやら独白めいた特殊性がある。もう完璧に、マハラジの所属してある世界からのことの見立て、その一切を陳述されているかのような…。こうなれば、もう完全に質問者には理解不可能となってしまう。なぜならば、存在においての断絶性が故の物事の理解の違いが、そこには、両者間の間には避けようもなく、否応なしに存在することになってしまうからだ。結果、言葉において、それを媒として、相手を理解することもう絶対に不可能。後は、その世界に侵食されるをもって、味わいとしての触手を、そちらっ側に、伸ばせるかどうかにかかってくる。重心移動が起こるのか、どうか?。為せるのかどうか?。後の為のヒントにはなるか?。

言葉の背景、そこにある意味はよくわからないのだけれども、マインド、こころとしての舞台に登場する物事、人々において、各個の認識は成立してる。その舞台上には、にては、ある意味、24時間途絶える途切れることなくお話は続いているのだ。その演目において、重要なることは、実在としての人物は、貴方だけだってことなんだ。だって、その舞台たるものを構成しているのは貴方なんだもん…。だから、演目の展開上、いろんな配役としての人々、他人が登場することになったとしても、それらは、彼らは、貴方にとっては未だ、仮想としてのその存在でしかないんだ…。真に実在するものとしてはなってない。ことの鍵は、そのものズバリではなく、貴方における期待、希望、偏見をもって、マインド内にて”一度”変換された上での、そのイメージでしかないんだ…。

すべては、すべての出来事は、あなたの、あなた自信による、稚拙にして自分勝手なばかりの、身の程知らずなその限りをもってしての、思い込みにすぎない…。それにおいてのことの反映、それをもってしての外界の創造でしかない…。

親切にも、この世界はだ、そんな貴方の状態、願い、程度に合わせて、沿って、ことを、色々と、巧みをもって組み立てて、仕組んでくれてるんだ。適切な形に、その姿に、整うようにとの願いの元に…。

追記:
実際に、現実に、存在してあるものらを直接的に認識するためには、貴方自身が現実にて
真実存在してないとだめ。それらとしてのものらも確実に多くしているんだ…。:介入終

再開:

Q:
Yet the power to help is there and there is somebody or something
that displays that power, call it God or Self or the Universal Mind.
The name does not matter, but the fact does.

それでも、(貴方において)、救済の力は、確かにある。
誰かにおいて、もしくは何かにおいて、その力は、(間違いなく存在することが)
明示されてある。…それを、それらとしてのものを、神、もしくは自己自身、もしくは
普遍的マインドなるものとして呼んでもいいでしょう…。
名前、名称にさしたる意味はない…だが、真実は、それでも確実に残ります!。

*奇跡なるものとして、受け取られる事象のことを、この質問者は思ってる…。

M:
This is the stand the body-mind takes.

貴方としてのその考えは、考えは、認識は、
肉体ーマインド」の連結/同一化におけるその舞台上においての、そのとらまえになる。

The pure mind sees things as they are -- bubbles in consciousness.

もし純粋に、マインドそれ単体のみとしてのものの見立てなれば、
ことは、まさにそれそのもの、それのそのままにての、ものとなる…。

言うなれば、ことにおいておいてのそれによる認識は、意識においては、とっては、
単に、気泡、あぶく、それの泡立ちかの現象のようなものでしかない。

*ビビッドにして鮮明なる種々様々なる光の粒立ちって言葉を自分ならば選択する。
*穂先に宿る光の粒が、群れをもって光の波を生成して流れてゆく…それも止むこともなく。
*変に意味やら価値をそこに認めて加えて持ってしまうからこそ、事後の展開が、自分勝手
 なるものになるんだ…。
*ただ、曝されて、侵食されるままで、それにてで、留まっていればいいんだ。
 それはあくまでも自然なるもの、向こうが、勝手に、自らを開示してあるまでなんだから。
*この事態を幸いとして思えたなら、……その貴方は、たいしたもんだ。

These bubbles are appearing, disappearing and reappearing -- without having real being.

これらのアブク、泡としてのものは、現れ続けている、そしてまた消え去り続けている。
そしてまた、新たに形成されて、また違った様子、形にて現れてきている…。
されども、それらたるものは、実体たるものを、備えてはいない。
真実に存在するものだとは言えないんだ…。

No particular cause can be ascribed to them,
for each is caused by all and affects all.

究極的なる原因としてのなにかを、それらにおいて当てはめる、限定することはできない。
それらのすべて

、全体としての原因と、なっているのだから。
すべてはお互いに影響を及ぼし合って、その結果として全体を形成してあるのだ。

Each bubble is a body and all these bodies are mine.

各々のバブルが、それらの気泡のすべてが、一つの体を形成してある。
そして、これらとしての肉体のそのすべてが、

なんだ…。

*やはり大河とその流れを、それにおいて空中に飛び散った水滴の例えが有効になる。
*その一滴としての別離は、分離独立、孤独は、どんな、なんの意味があるのだろうか?
*それとしての機会を、その境遇を、状況を、楽しめ!ってことなんだろな〜…。
*わたしのものであるが故に愛する…。その思いの発露と、どうしてもなってしまう。自然。

(わたし)貴方(あなた)のみを、其が臨在(りんざひ)たるを、実在(じつざひ)こそを、(みと)め、(しん)じ、(あひ)し、(たた)へて、(あが)めます。


Q: Do you mean to say, that you have the power to do everything rightly?

なんと!あなたが仰られんとするのは、
貴方にはすべてを正しく治める、行う、その力があるとでも言うのですか?!。

M:
There is no power as separate from me.
It is inherent in my very nature.
Call it creativity.

私から分かたれて力などというものはない。その力たるものは、
私としての本性に、その本質に、それの傾向性に沿っての、備わってのもの…。
それは単に創造性と呼ばれるものになる。

Out of a lump of gold you can make many ornaments -- each will remain gold.

一塊の金から、たくさんの金製としての装飾品が作られる。
ブローチ、指輪、ネックレス、金箔…。
多品種、多様なるそのあり姿となったとしても、それらは未だ、
金であることには変わりはない。

Similarly, in whatever role I may appear and whatever function I may perform --
I remain what I am: the 'I am' immovable, unshakable, independent.

この事実と同じくして、私がいかな役柄として人々の前に現れていようと、
いかなる役割を果たそうとも、演じてあろうとも、
私は、私としてのこの存在のままにて、留まったままなのだ。
この私としての存在において、ことの一切は、
動かし難く、揺るぎ難く、完全に、自主独立したものとして、在る……。

What you call the universe, nature, is my spontaneous creativity.

貴方が呼ぶところの宇宙、自然としてのものとは、
私においてともなれば、もう既に、止むことも留まることもない創造性、
その発露としての事態そのもののことになる。

Whatever happens -- happens.

起こてあること、それがなんであろうとも、いかなる内容のものであろうとも、
それはただ起こる。起こってあるまでの話なのだ。

But such is my nature that all ends in joy.

だが、しかしだ、
良きことも悪しきことも、あらゆるすべての出来事は…、
喜ばしきものとしての感慨においての、その思い元にて終わる。

こう捉えられ、覚えられてしまってあるのが、
今の、この私における、まったき自然なること、思いなのだ....。

*もう限りなく「イエスにならいて」のガイダンスに近い…。

Q:
I have a case of a boy gone blind because
his stupid mother fed him methyl alcohol.

(ここで一つ仮定の話をもってして、貴方にお尋ねしたい。)
愚かな母親をもったせいで、ある少年がメクラになってしまった…。
メチルアルコールを後先も考えずに飲ませてしまった。

I am requesting you to help him.
You are full of compassion and, obviously, eager to help.
By what power can you help him?

このことにおいて、私は貴方に救済の手をお借りしたい。
貴方は彼に心底同情しており、手助けをすることにはまったくやぶさかではない。
この不幸なメクラとなってしまっている少年に対して、
貴方は、いかなる力をもってして、この彼を、助けるのでしょうか?。

M:
His case is registered in consciousness.
It is there -- indelibly.
Consciousness will operate.

彼のこのケースともなれば、
(私の)意識に、記録が、記載が、登録が、刻印が、なされる。
彼の事柄は、もう消し難くして、(私の)意識にて留まってある。
次点においては、意識が、ことの采配をするまでのことなのだ。

Q: Does it make any difference that I ask you to help?

私が貴方に彼の助けを(ズバリは治癒をもって目を元通りに治すことを)
求めてあることは、なにかの違いを、もたらすものでしょうか?

M:
Your asking is a part of the boy's blindness.

貴方が彼の救済を求めてあることは、その少年がメクラであることの一部としてある。

Because he is blind, you ask.

何故ならば、彼は盲目、メクラである。それで貴方は(彼への)助けを求める。

You have added nothing.

そこには、貴方としての付加物はなにもない。

Q: But your help will be a new factor?

しかしですね、貴方からの助けは、新たなる要素となるではありませんか?!。

M:
No, all is contained in the boy's blindness.

いや、そうではない‥そうはならないんだ。
すべては彼の盲目たるその事態に、(つら)なってある。
その事態そのものに、その中に、(ふく)まれたるの、ものなのだ…。

All is in it -- the mother, the boy, you and me and all else.
It is one event.

すべては、すべてが、この事態たるものの中に存在してある。
その母親、その少年自身、貴方、そして私。あらゆるすべてが同じくして。
ことは、一つの出来事、それとしてのものでしかない。

Q: You mean to say that even our discussing the boy's case was predestined?

貴方は、この不幸な少年の例をもって議論しようとしたことさえも、
最初から決定されていたことだとでも仰りたいのですか?!。

M:
How else?

他になにがある? 他にいかなる在り様があるというのだ?

All things contain their future.

すべてのものごとは、それらとしての未来を、その結末を、その行く末を、含有してる。

The boy appears in consciousness.

その少年としてのものは、(私の)意識上に現れた。

I am beyond.

私は(この意識たるものを)超えて在る。

I do not issue orders to consciousness.

私は、この意識に対しては、なんの指図もしない。

I know that it is in the nature of awareness to set things right.

なぜならというか…私はもう知ってるのだから…。
それが目覚めてあり、何かを覚知したなら、ものごとを正しく整えるのが
それにおいての、それにとっての自然な対応なのだから。

Let consciousness look after its creations!

この意識たるものがこれ以降、どんな行動にでるのか、どんな考えを思いつくのか、
その創造性の機微を、その彩を、その真価を、見せてもらおうじゃないか!。

The boy's sorrow, your pity, my listening and consciousness acting --
all this is one single fact -- don't split it into components and then ask questions.

その少年が味わってある悲しみ、貴方における憐憫としてのその同情心、
私においてのこの傾聴、そして(私の)意識の活動は即座に開始をしてある!
すべてのことは、ただ一片の事実の元にあるにしかない…。

その単一としての構成を、バラバラにして、恣意的に分解して、
その断片、ほんの一部の要素をことさら取り上げてきて、
それのみにおいて私に何かを求めたり、質問することはやめなさい…。

Q: How strangely does your mind work?

なんと不思議な思考たるものを、貴方のマインドは生み出していることでしょうか…。

*依って立つ、現在生きてあるその世界としての理解スケールが全然違ってる…。
*この理解が妥当となる、その見地を、その存在を、手に入れることこそが至難…。
*得る機会の訪れたものはそれを手に入れるだろうが、ないものには不可能…。

M:
You are strange, not me.

おかしな思考を生み出し、それにおいて…、
奇妙キテレツなる行動を闇雲にとっているのは貴方で、
この私ではない。

I am normal.

私はまったくもって正常、ノーマル、普通、自然。

I am sane.

私は正気としての、そのものずばり。

I see things as they are, and therefore l am not afraid of them.

私は、物事を、それそのもののままに、そのまんまに、観る。
であるがゆえに、私は、なにも、何事であろうとも、それらを、恐れることはない。

But you are afraid of reality.

しかしながら、貴方は、現実を、恐れている。

*今回の32と33は、同一の質問者との対話になる。
*なので、この彼は新たなる世界大戦が起こることを、その可能性を念頭において話してる。

Q: Why should l?

何故に、自分は、そうなって、しまう、しまっているのでしょうか?

介入:
このNo.33における山場に入ってきてるんだが、ちょっと息抜きがてらに解説。…と言うか〜ちょっと注意すべきことを言っとく。ことの肝心なるポイントは

ってものの必要性になる。なにとなにを分けるにおいての分別か?って云うと〜、観念/イメージとしてのものでしかないものと〜、ホント現実現場としてのものをだ。例えばここにおいてはあの目が潰れてしまった少年ってやつ。これはある意味、メディアや広報をもって伝えられてくる話ってことになる。こころに留めておくべき話ではあるが〜、切実感や現実感を備えて肉薄してくる話なんかではない。むしろ重要になってくるのは、貴方の周りにおいてのその現実の方なんだ。そこにて、自然なるをもって、

のことになる。これらの、彼ら彼女らのことに関しては、貴方は、

行動介入が起こせる。むしろ、こっちの方において、手抜かりがあっては絶対にならないんだ。そこにおいての問題にこそ、心底ヤキモキしなくちゃならない。自分が為すべきことが分かるように、そして実際行動に起こせるように、なってなきゃ〜、ならなきゃおかしいんだ…。あの姐さんに、あのジニーに、すべてお任せの状態ってなことであったれば、ことは絶対に為せないって。むしろ想念観念としての(かかず)り合いの方に、そればかりとししての世界に、流されていってしまうようなる。しまうまで....。:介入終



     Passio(パッシオ) Christi(クリスティ), conforta(コンフォルタ) me()  「キリストの御受難、われを強め給え。」 

               *やっぱ、鍵になるのは勇気。

もうちょうい追加…
自分はマハラジのアドバイスに沿って解説をまとめているが、実際の、現実的なるアプローチにおいて、そこにおいて恐れを取り除く、その方法も見ておきたい。ことは簡単で、力を獲得するにしかない。あらゆる意味においてだ。世界大戦としてのものを避けるのもおんなじ。他国に勝る力を自国として得る、持つことだ。要はユニットとしてのそのスケールは違えども、パワーゲームとしてのものへとすべてが収斂するその世界にて我々は生きている。これが変え難くしての傾向。弱肉強食としてのその根深くして我々人類に備わってある原理がため。現実において我々の生存が、自分の命が、永遠なるもの、永続的なるものであるならば、それもまた未だ分かるんだ…。だがそうではあるまい。ならばだ、ああいった解決の方法に重きをおくのは、空しきことの、その限りものとしかならない。であるならば〜だ、マハラジとしてのされてのそのアドバイスに重きを置くってのが正解なのではないだろうか?。これは、今度は逆に、簡単なものではないけどね〜〜〜w。

補記:
これはどっかで語ったこではあるのだが、人間においてのマインドたるものがおかしいのだ。それはイレギュラーな、何かの獲得のせいであるのからなのかも知れないが。これがケダモノとしてのプログラムにおけるその対象におけるその意味を、その属性を、過剰に観念をもって膨らませる、別次元におけるその魅力と変えてしまうようなった。ことは無限増殖、無限妄想としてその内容を持たせることとなってしまっているのだ。簡単にこの事態のことを他の表現に変えるなら、尽きることなき、終わることなき、果てなくしての、贅沢の追求ってことになる。切がないものとなってしまった。貪欲さってのがどうして来されてしまうのかってのも大変興味深い。なぜならば、そこに込められている価値としての意味は、観念だからに過ぎない。ケダモノ、動物としてのその体に住まいしている以上、そこに備わってある肉としてのプログラムは強力だ。またそれ単体として観る限りにおいては、有効にして有意義でもある。だが、このフォース、強制力においてのその対象への関心、意味付けが、人におけるそのイレギュラーなマインドにおいて果たされたなら!……(断)。

再開:

M:
It is ignorance of yourself that makes you afraid and also unaware that you are afraid.

貴方に恐れを抱かせてあるその原因。そして貴方自身におて自己が恐れてあること
さえも分っていないこと、そうであるこそさえ知らないでいるその原因。
これらは共に、同じなのだ。

貴方が自分への自身においての理解に、あまりに乏しいが故になのだ。
これまでの人生において、自己を知ることにおいて、手をつけてこなかったが故の、
その無知が故なのだ。このことこそが根本的なる原因になる。

*ひどい意訳…。

Don't try not to be afraid.

恐れを抱かないようする努力などは、してはならない。

*一つの例えとしては所詮は対処療法は気休めに過ぎない。根治療法こそが重要なのだ。
*物事に動じない、いかな出来事に際しても、誰も、何も恐れない…。
 この努力においては一つ困った事態が伴ってきてしまう。ことは人格よる制御の強化に
 しかならないからだ。戦場で死ぬことはもう恐れないが、他人にこころを完全に開いて
 身内の如くしての関係を築くことはできない。だって、それは、「怖いんだもん…」。
*ことは根治としてのその原因を取り除くことにこそある。

                 リフレイン
♪この星の無数の〜(ちり)が/の、”一つ”だとー、今のボクには理解できない…♪
♪恐れを知〜らない戦士の〜よ〜うに〜振〜る舞〜うーし〜か〜な〜い!アンインストー…♪

Reba:アンインストール (アニメ「ぼくらの」より)
https://www.youtube.com/watch?v=auukp9Ns32c

このひとって‥外人さんだと思うんだが…本家に唯一並び得る、いや、ある面においては本家を超えているような…。他のカバーのほとんどが、そのすべてがクズ‥いや余りにも至り得てないんのだが…真打の登場か?。もしデュエットが適ったなら奇跡!もう泣いてしまうだろう‥。


Break down the wall of ignorance first.

無知としてでしかありえない、そうとでしかありえなくさせている、果たしている、
その壁そのものを、いの一番に、打ち壊さなければならない。

*Gにおいてはバッファー(衝緩器)なんてかっこよく名称が付けられているが、ことの
 正体は、ことの妥当な表現としては、頭が固いんだ。融通がまったく利かない。
 ある領域においては…。また別の表現としては、癖/パターンとしてのものに完全に
 支配されてしまってる。勝手な思い込みにおいて、そうであることを当たり前、当然、
 まるで苦労して獲得した宝、能力かなんかのように思い込んでしまってる…。
 自尊心、優越感、プライドを支える何やら屋台骨としてのもの、それとなっているのだ。
*この習慣から一歩でも踏み出そうとすれば、恐れとしての感情が伴ってきてしまう。
 何故だ?
*無意識に、頭において、人格において、信じ込んでしまってる自己のステイタス、価値
 たるものが、脅かされてきてしまうからだ。メンツを著しく毀損してしまう、そういった
 可能性において是が非でもことを避けようとする行動にどうしようもなくなってしまう。

*人は皆ほとんど、その大部は、夢の中に生きて、夢の中において死んでゆくまでなのだ。
 これはGにおいて語られた言葉である。決して、軽ろき抽象的にしてなる修辞などでは
 ない!。

、そのまさしく現実としてのもの、事態なのだ!。

People are afraid to die, because they do not know what is death.

人々は死を、死ぬことを恐れてある。
何故ならば、皆、死たるものが何であるのか分ってないからだ。

*分かったときには、もうこの世にはいない。この世へとはかってのままにては戻れない。

The jnani has died before his death, he saw that there was nothing to be afraid of.

生前解脱者たる者達は皆、自身の肉体の死のその前に、死んだものたちなのだ。
だから彼らはもう知っているのだ。死ぬことにおいては、何も恐れる必要がないことを…。

*余りに巨大にして圧倒的に神秘なるもの、そのなにかが、すべてを引き取ってくれる。
*貴方としてのその意識は、これまでの人格は、もう吹っ飛んでしまうことになる。
*その後のことを、全幅の信頼をもって預けるにたりるものが確かに在る、
 居るということだけは言っておこう‥

The moment you know your real being, you are afraid of nothing.

貴方としてのその真実の存在を知ったその瞬間、もう貴方は、何も恐れることがなくなる。

*もう少し正確に表現すると、長年において培われてきた心理的反射運動は残る。
 つまりは恐れを覚えてある、しまうことは残る。
*だが、本質においては、なぜか、ことを穏やかに受け入れる覚悟ができてしまってる。
*以上は極端な出来事における人格と本質における反応違いのはなしなのだが、
 もっと卑近な日常においての話となれば、もう貴方は出会う他人に腹を立てることはもう
 なくなる。胸襟を開くことも、相手の間合い深くに踏み込んでいくことも、時宜が適えば、
 なんの躊躇もなくなってしまってる。
*その相手をもう既に愛するにおいて、これまで得た、そのすべての知見が技が理解が、
 導入されるその手はずその運びとなってしまってる。

Death gives freedom and power.

死は自由と力を与えてくれるもの。

*とりあえずは人格としての、それにおいての死のことだとしといたほうがいい‥。

To be free in the world, you must die to the world.

貴方が今生において、生きているこの世界において、自由になりたければ、



*だって、それらって、肉体にとっての価値において紡がれている幻想でしかないんだもん。
*エゴイズムとしてのドライブ、それに基づいての、それを推進力としての経済/文明でしか
 ないじゃん。共産主義においても階級性は確実に築かれてしまってる。
*ある意味、これは、世界は、ケダモノもどきとしての人間が支配してある世界。
*自然と並列状態ではあるけどね。いや、むしろ、それを退けつつある。もう完全完璧に…。

追記:
この世界とされてあるものは実際には存在してない。だが成人するまでには確実に全身全霊をもってして染まってしまっている現実と化してしまってる。それはしょうがないことなんだ。社会というものは共同幻想としてのものがあってこそ初めて成り立つものなのだから。そこにおける価値とされるものは時と共に移り変わってゆく。実体的には操舵を行っているものは誰もいないってのが現実。昨今ならばどの夢としてのトレンドのものはなんだろう?。コンプラ重視、ポリコレ、対コロナ対策としてのマスクの着用の緩和、同性婚の社会にとっての承認…まっ、これらはあくまで今におけるその夢のものとしての実例として上げたまで。最も強力に機能している夢たるものが法律だ。規定、仕来り、掟。プログラミング、プロトコルとしての話しだ。これらは強力に行動を支配してある強制力としてのもの。これに従って、これを絶対の権威と認めて、我々は社会において暮らすのだ。ことを決めるのはお偉いさんたる方々で、確実にこの自分としてのもの、まわりにおいての者達ではないっと。だから、あまり是非に関しては考えない。既に決められたままに従ってあるまで。それらは既に

自分の生にいおいては

。ことは文化、娯楽としてのものも同じ。広報されてあるそのフォーマットにおいて自分を合わせるまで。皆が好み、もてはやし、殺到してあるものの中から自分に合う、自分が気に入る、この自分の手の届くものを選べばいいまで…。この社会にてなんらかのステイタスを築いて、獲得して、日々の仕事を行ってあるものならば、ことは完璧に健全なるその努力その姿になるのだが、この実体なき夢としてのものは、繰り返すが

完璧になってしまっている。つまりは分かたれ難くしてのその世界、また環境なのだ。では、これに対して死ぬってのはどうゆうことなのか?。それと同化してしまっているものを、その支え持つものしての自分を殺すまでのこと。ことの実際は、自分で自分を殺すことはできないのでぇ〜〜、真の自分としてのものにその本拠を移して、仮初としてのものを、その習慣癖としてでないものを、自分を、人格としての自分を、無効化するにしかない。確実に闘争としてのものとなる。:終わり

Then the universe is your own, it becomes your body, an expression and a tool.

そうすることができたなら、(実在としてのこの)宇宙は、貴方のものになる。
それが貴方の体としてのものになる。貴方としてのその存在にとっての表現、
そして(その行為の為の)道具となる。

The happiness of being absolutely free is beyond description.
On the other hand, he who is afraid of freedom cannot die.

完全に自由なる、その存在として在れること、
このことにおけるその幸福感たるものは、
語り尽くせるものなどではない。

他方、自由なること、自由でいられることを、恐れているものならば、
その彼は死ぬことは先ずできない。


介入:
結局は世界観が変わる〜、よってそこに起こってある現象においての理解も変わる〜てこと。物質相としての現実はなにも変わらず、皆にとっての共有のプラットフォーム。決定的なのはやはり共同幻想においてのものになろう…。これはある意味、狭い狭い意味に限定されての因果としての捉え方だって言えると思う。原因があって、結果があるってもの。繰り返すが、非常に薄っぺらで、表面的なその意味のとらまえにおいてのもの。自分がなにかやったこと、その仕事に対しての報酬、お金、お返しみたいなもんかな…無自覚、無意識なれどもこの両者はセットとなって思い、思考として織り込まれている。

マハラジとしての、死することにおいて自身が迎え入れられることになるその世界っていうものともなれば、世界全体が、宇宙がって表現されているが、旧来に意識されていたその体と同じ様な感じにてのそのとらまえになるって。この自体においての、ことの理解、了解、承認、了承のそのあり方は、こんな感じ…。

ある日、家に帰ると猫がいた。この自分にはなんの了承もなく猫がいた。
この猫を手配したのはこの宇宙こそがなのだ…。自分がやるべき仕事、責任として
彼は到来、登場してきたまでのことなのだ。

娘には散々、嫌味/嫌がらせをもって苦しめられてきたのだが、ある日を境に自立を始めた。
私はもうその方面からの苦しみを耐える必要がなくなったのだ。既定の数値に達したからなのだろう。空き瓶出すのは自分の仕事なのだが、極端に本数が減ってる…。

自分の目からすればあらゆるすべてがオワコンの流れに入ってきている。終活に移れってことなんだろう。色々と、後に、心配することはあるのではあるが、マハラジの言説をこころに染み込ませることをもって、こころ安らかにおれる。これも…。

「自由なることを恐れる。」「完全完璧な自由としてのその身分になることを恐れる。嫌がる。」なにやら訝しげなことを仰るな〜と、お思いの方もいると思う。この思いとしてのものは、実は簡単で、それとしての状態は孤独/孤立としてのものにならざる得ないからだ。
やはり、みんなと一緒に居たいだ。やっぱり、寂しいのは嫌なんだ、耐えられないんだ。

でも、やっぱり、死ぬときは孤独であることは間違いない。嫌も応もない。それとしての死しかないのだから。一人じゃなかった。周りにはたくさん親しい人がいた!。だから自分は寂しくはなかった。だから!このままでいい…。

これも大差はない。外界を主観性において内面化してあるのか、すべてを我が内において、我が内のものとしての了解するのかの違いなだけ。上図で行けば、貴方はあの”池”なのだ。であるすべての人々、慈しみとしての情をもって見つめる、識るにしかもうないんだ。思いを配慮を投げかけるまでとなった人、楽しくその成長を見守っていた身内の誰か、それら彼らは、その池に生きる生き物たちでしかない。貴方としてのその自己意識はその池の中の生物としてのものでは最早ない。そうとしてはもうありえない。既に池そのものにまで広がってしまったのだ。それとしてのものと一体化してしまっちゃってるのだから…。←人間として大きいだとか、スケールが大きい、さしたる事には拘らない、なんて表現も人物評としてはあるね。

なんら恐れることはないんだ。死しても、核心としてのその存在に変化はない。
ただ、世界観としてのその次元が、世界スケールたるものが変わってしまう、
ただそれまでの話なのだ。なんのこた〜ないこれまでに制限を来していたものが、
その夢としてのものが、取り去られたまでの話しなのだ…。

追記:
ここで語られている古くから馴染んだその世界を捨てる、その住人としての自分は死ぬと決意したとても、実際はこのことを自力でするのは不可能だ。いろんなことに、ものに、執着してしまっているので、それらを自力にて捨て去るってことは土台無理な話しなのだ。このことにおいても、然るべくしての介入を、その助けを、導きを、斡旋を、求めるにしかない。ではそれは誰によってなされるべきものなのだろうか?。それこそ世界そのものによってだ〜ってことにしておこう…。:介入終


Q: You mean that one who cannot die, cannot live?

貴方が仰らんとするのは、死ぬことのできないものは、実際、
生きることもまたできないってことなんでしょうか?。

M:
Put it as you like; attachment is bondage, detachment is freedom.
To crave is to slave.

なんとでも貴方の好きなように理解すればいい。

事態に関してのその要点だけを伝えるならばだ、

 何かに何者かに何かの集まりとしてのものに執着執心するってことは、束縛なのだ。
 無関心としてあること、あれること、距離を保てることこそが、自由なのだ。
 
切望、渇望、羨望としてなにかを捉える、迎え入れている限り、
そのことは、奴隷としてのありかた、それであることの特徴に過ぎない。

*このcraveなる単語にて想定されてあるのは麻薬だ。
*一度そのなにかをとしての魅力を味わったなら、それとしての効果を知ったなら、
 もう二度と忘れることができなくなる。
*結果、強力に、それとの再度のつながりを、可能であれば永遠の関係を、
 切望してしまうようなるっと。

介入:
これこそ先に言ってた世間/社会としてのその世界そのものだってことになる。もっと微分化するならば…例えば…限定品とか希少品なんかで語られてあるフィギュアやらLPってことでいいかな?。この文化コードにて語られてあるその魔力によってその何かに対しての所有欲ってのは構築されてしまってる。もしくは、ここではマハラジは自分自身に対する世間の人々の評価のことをも暗に意味してたのかも知れない。自分に縋っても自分の理解を手にする訳ではないって…。聖者に対してはその理解においての尊敬は必要ではあるが、あくまでも無関心としての態度を保持しなければならない。ことはあのイエスにおいてでさえ言える。あなた自身が彼をお手本にして、何処まであの存在に近づくことができるようなるのか?。父なる神から、これは私の愛する子として認めて頂けるようなれるか?。自由自在ってこの言葉の意味にすべてが語られてしまってる。それとしてあり得た上で、我が内に覚えることを闊達に為せれたならそれでもう充分なんだろう。その上で、マハラジ、イエスとの関わりが持たれるべきなのだ…。:介入終わりっと。

再開:

Q: Does it follow that if you are saved, the world is saved?
貴方が云わんとする所は、
「もし私が(you)が救われたなら、世界も救われる」
ということなのでしょうか?。

M:
As a whole the world does not need saving.

世界は、その全体としてのものは、なんら(人類からの)助けを、求めていない。

Man makes mistakes and creates sorrow;

人類そのものが間違いたるを犯し、そが故に、彼ら自身、
悲嘆や苦悩の中に、暮れて、暮らして、あるまでのことなのだ。

when it enters the field of awareness,
the consciousness of a jnani, it is set right.

彼ら自身、実在に対しての気づきに、その認識の地盤に、根付いたならば、
それは生前解脱者としての者の、意識にはなるのだが、
すべては正しい形にて収まることとなる。

Such is his nature.

そうすることこそが、これこそが、彼においての当たり前、自然なる態度であるのだから…。

*大変興味深い…。
*…恐らくはこのポイントに向けて進化させるべくすべては整ってあり、
 また準備されていってるのだろう。
*だが、ことは、その対象者、候補者としてのものは、すべての全員では確実にない。
*恐らくは卒業者は地球ではない別次元としての異界にて再誕することになるのであろう。


Q:
We can observe what may be called spiritual progress.

精神的なる成長とは、いったい何を、意味するのかについては、
身近に生活してある人々を、長年に渡って観察することにおいて、
その変化を知ることにおいて、理解することができます。

*ここは、核部としての魂そのもの、感情センターとしてのその主である良心/本質
 たるものの成長についてのお話しになる。
*それもまた独自の成長、固有なる進化としての道筋を辿るにしかあらないのだ。
*それのみにおける、単独、独立した成長は、実は、ありえないのだ……。
*確執/葛藤においての苦しみこそがそれにとっての重要な糧なんだろう。
*あともう一つは安らぎをもたらすなにか大いなるものの中に内に在る居るというその実感。
 良き家庭、良き仲間、安心してその身をゆだねることの適う”場”なんだろね。

A selfish man turns religious, controls himself, refines his thoughts and feelings,
takes to spiritual practice, realises his true being.

至極、利己的な考え思いにて凝り固まっていた人間が、宗教的なる人間になった。
それへと変わった。自身の行動を、教義に基づいて、それを意識するにおいて制御する、
自制する…。考えを改めた。感情の用い様を改める。それのとしての新規なる質のものを、
その状態たるものをも、手に入れた…知ることになった……。
この彼はワークたるものを日常において行う。
そして、彼は、やがてにおいては、真に実在となりえたるの、その彼自身を、実現する。

Is such progress ruled by causality, or is it accidental?

このような進歩は、因果応報としてのものなのか、それとも、ことは、あくまでも、
偶然としての、それによっての出来事でしかないのでしょうか?。

*デジャヴュやね〜…ここは彼の物事の理解においての、その様式においての、拘りが、圧倒的なる強固にして根深くしてはめ込まれてしまってる思考においてのその習慣が、その風習が、その機械的にして偏執的なる癖が、煩く、顔をだしてきてるまでの話し…。因果律ってやつよ…。マハラジにこの様式、このフレームワークにおいての、その同じ土俵にて、回答をもらう、えようとすること自体が、そもそも間違い。彼においては、既に〜、その二元論においての話しは、無効化されて、されきってしまってる…。これはマインド内においてのみの、それに依っての、それにおいての、ものの捉え方、考え、また理解における、その土俵、そのプラットフォーム、プロセシング・フィールド(場)になる。

M:
From my point of view everything happens by itself, quite spontaneously.

私の見立てにおいては、すべては、すべての出来事は、それ自らによって、起こる、自然としてのマナーにおいて、出来上がってきてるまでのことなのだ。その自生としての展開のエネルギーは、驚くほどまでに精力的で、まるで、命たるものに溢れかえってあるかのようだ…。

But man imagines that he works for an incentive, towards a goal.
He has always a reward in mind and strives for it.

しかしながら、片や人間において、人間の世界ともなれば、人は対価たるものを、また切りとしての最終のゴールたるものを、念頭にて想念している。彼は絶えずいつも、なにをするにおいても、ことに対しての報酬たるものを、その心の内にては想定してある/いる。その対価としてのなにかを得ようとして、彼としての奮闘/努力を、行っているのだ。

Q:
A crude, unevolved man will not work without a reward.
Is it not right to offer him incentives?

原始人たるものならば、その人類としてのものならば、なんの見返りもなく働くなどということはありえない話でしょう…。そういった人間たちを動かすその目的において、報酬の話しを持ち出すことは、それによっての動機を与えることは、正しいことではないのでしょうか?。

M:
He will create for himself incentives anyhow.

ことのあらましがどうであろうとも、彼は彼としての動機を、思惑を、想念してしまってる。

He does not know that to grow is in the nature of consciousness.

あれらの、彼らとしての、その無知なるものにおいてともなれば、成長することが、意識に
おいての極自然なる、衝動、選択行動、義務/務めてであることがまったく判ってはいない。

He will progress from motive to motive and will chase Gurus for the fulfilment of his desires.

彼は、今はこの目的、この動機において、だが明日にでもなれば、また新たなる目的、その
対象において目まぐるしくも落ち着きなく、樹から木へと飛び回ってあるまでのことなのだ。

*関心の対象、執心してあるその相手、心酔してあるそのなにか、ころころ変わってゆく…。

先立つ、導士たるもの、世にてその名声を勝ち得てあるもの、自身にてそうだそれだと信じて、盲信してあるものたちのその後を追う!付け回す!恥知らずにもなんの礼儀もなくして土足にてその彼の家へと上がり込む!。…そういった無思慮/無配慮/無茶なることをするのも、核心においては、彼が自身の心の内にて、想念してあるその希を、その欲望を、その目的を、完遂したい、満たしたいからなのに他ならない!。

When by the laws of his being
he finds the way of return (nivritti) he abandons all motives,
for his interest in the world is over.

彼の存在自体に、(真に客観的なる)法則が、働きかけるとき、
彼は戻るべくしてのその世界たるものを、見つけ、また識るようなるのだ。
そうなれば彼は胸の内に抱きたるのそのすべての動機たるものを捨て去ることになる。
彼のこの世に対しての興味は、もう終わりを告げたることによって。

He wants nothing -- neither from others nor from himself.

彼はもうなにも求めない。欲しいとも思わない…。
誰からも、何かを、彼自身の、その努力においてさへも…。

He dies to all and becomes the All.

すべての関心/欲望/執着において、彼はそれらにおいて死ぬことに依って、
すべてとしてのものになったる。

To want nothing and do nothing -- that is true creation!

なにも求めない、なにも欲しいとは思わない、そしてなにも、なにごとにも、
恣意的なるをもって、して、その介入を、することがない。もうそうすることないだ…。
これとしての在り様に、自然となってしまってる…なった……。
これこそが、真の創造としての、されたるものしての事態、有り様なのだ。

To watch the universe emerging and subsiding in one's heart is a wonder.

我がこころの内にて、とある世界が、それとしての宇宙が、現れて、そしてまた消えてゆく…この事態を識ること、観ること、体験することは、正に不思議としてのその事態になる。

介入:
基本、マインド、つまりは外界との折衷点、仲立ち、仲介業務を司る

としての、それにおいてのプログラムは限定されてしまってる。二元論、二律背反なるこを忌む/拒む/避ける、正誤、優劣、多寡を測るべくしてのその秤、指標。等価交換としてのそのものの考え方が前提になる。なんだろう〜?…ゼロ/1としてのそれにおいてのメリハリが付くからビビッドにして鋭角なるものの捉え方、その感受になんだろう。特にビジネスの世界においてともなれば鋭敏なるものの考え方におけるフォーマットではある。であればこそ、一心不乱に頑張れるんだっよと…。より多くを、よりたくさん、確実に前年比を上回るべく!。目指すは一社(一者)独占、寡占としてのありましだ!。これは見方を変えるなら、”呪い”としてのもの、それによる事態なのだ。頭の中は、マインドにおいての自動稼働の領域においてはこのメリハリとしてのものの捉え方が完全に支配的なのだから…。ことの始まりは幼少期にからになる、なってる。

でっ!この有り様においての強化、高度化、ウルトラ化から、運良く、自覚的に?偶然をもってして?聖霊の関与をもって?身を引きことができましたって。単に重心を本質の方へと移行させたまでの話なのだが。あくまでも、真実なるもの、本当なるものにおいてを、主軸に据えたまでの話なのだが。いろなことがありまして〜、自練努力の積み重ねもありまして〜やりまして〜、その世界においての自己たるものがいろいろと覚えることがありまして〜、やりたい放題するよにもなってもたるのきてまいまして〜、結論として、「もういいやっと」…あの蒼井そらが…安藤あいかに言い放ったかのように、私服ファッションにおいてのダメ出しをしたときに途中でもう話しを投げ出してしまったときのように……
https://www.youtube.com/watch?v=pPXVTNnqti4&list=PLpZ_shC501hUPWotGMnFafuuBcHCmOLfK&index=1
これまで自分にとっての欲望の対象ありえたそのすべてが、その魅力を、失ってしまうことになる。なんなんだろう?〜…ことが、マインドにおいてその効力を持つ、魔力/魔術/催眠としての影響力が、土台を失い、無効化されてしまったからなんだろね。確実に、そうなってしまうんだ。

なにも特別に欲しいとは思わない、思わなくなる。
無理して、無碍に他人においてのその有り様、その行動に、頓着しなくなる。
それはその人においての問題なのだから…あとはインスピレーションにおいてのみの
その自分としての顕現になる。

ことにおいては、場合によっては、主を意識して、その思いを汲んで、なにがしらかの積極的な、主体的な干渉を、他人に対して行うこともありだと思う。特に、寡婦たる方々、障害のある方々、生活において窮地にて喘いであるであろう方々においてはだ。

この辺は、自分のこころにやましきことのない限りは、やってみるべきことではあろう。
ことの成否に関しては神にお任せにて、その思い覚悟でいる必要はあるではあろうが。

ちょっと、ひとつ、この自分における現在進行中のプライペートなテーマを……。
とある寡婦さんがいる。かなりご高齢の方で現在72歳。一人住まい。認知症を発症されててものの覚えがかなり怪しい。テニス友達ね。このご婦人には息子さんがいる。近所にてこの息子は一人住まいなのだそうだ。この男性はかって一度、結婚はしたが離婚されてしまってる。ことの原因は母親たるこのご婦人へのなにがしらかの配慮があったからなそうだ。自分としてのモチーフは、この息子さんに誰か、いい女性を充てがって、再婚させて、母親との同居を達成することにこそある。女性の方は既にめぼしい人を見つけてはある。これもまたテニス友達。この女性とは彼女と一度、チャンスにおいて、強引に引き合わせてみた。悪くないご印象だったみたい。このテーマは実はたいへん難しい。当事者がボケとるんのやから…。ことの完遂は、五年以内においてのその結実でいいと見てる。おそらくマハラジならばだ、自分がやってるようなそんな動きには、ならないだろうがね。:介入終わり

再開:

Q:
The great obstacle to inner effort is boredom.
The disciple gets bored.

求道者らが、その内面において覚える、最大の障害としてのものが「飽きっぽさ」、
ことにおけるその努力を「退屈なるものだ」と感じてきてしまうことにあります。

*質問者ご自身が長期に渡るその努力においてこう感じてこられてたんだろな…。
*三歩進んで寝て起きたら四歩も五歩も後退してたってなことは茶飯事なることではある。
*結局は、馬鹿になるにしかない。根気、執念、それも無目的な形においての!。
*ただひたすらに、エゴにおいては死んでなさい。それを殺し続けてなさいだ。

M:
Inertia and restlessness (tamas(タマス) and rajas(ラジャス)) work together and
keep clarity and harmony (sattva(サットヴァ)) down.

あくまでもことの努力が機械的なるものでしかないとき、これまでの意識的なものではなく、あくまでも慣性的なその行いでしかなくなっているとき、既にことは鈍重なる、停滞、ドツボにあるにしか有らず、自身としては、なんの閃きも、鋭敏なる覚知、頭の回転も備えておらず、単に反復的に行為は為されてあるまででしかないその状態…。そしてまた!、または!その!、落ち着きないそのこころの挙動にしかあらず、こころ定まらぬままにて、無短慮の限りにありて、あくまでも思いつきまでのその衝動に支配されて、木から木へと、ハスッパにして浅はかなる関心のそのそれらの赴くままに、飛び移る、飛び回る、飛び跳ねまわっているだけの…、セッカチで短慮、無配慮、早急さのその思いのみにてで、その行動が支配されて、行われてしまってあるとき、そうしてある状態…。

*長く言葉を、それとして相応しくしての修辞を、表してみたが、この二極としてのその
 あり方はトリグナにおけるタマスとラジャスとして語られる、その色合いでしかないんだ。
*前提として重要なることは、トリグナは光の三原色としてものだととして考えるのがいい。
*単独で一つ二つ取り上げるなら、補色関係としての黒と黄色、緑と赤みたいなものになる。
*極論的には、この二つは、停止と動態としての運動なのだと捉えるのも正解になる。
*でも、それ、それらのみにてでは、どうしても厄介なるものとしてでしかありえない。
(動態/流動性)と(極端なる制約/抑制下)としてのその両極の


 振り子運動にしかならないのだから…。←人の子らのことなんて基本お構いなし。

*これら二極としての状態は、

、働いてある。あらゆる日常の出来事において。
 恐らくは、背後にてすべてを動かしてある原動力としてのもののようなものなんだろう。
*振り子運動。平衡状態を求めての機械的に、物理的なる力学運動を採択する/してある。

そして、この二極としての運動は、「それらが仲裁、中和、調停、和解されないままであるならば」、意識における状態に対しての理解の明晰さ、状況そのものを調和へと変性/編成しなおすことを、その有り様、展開を、阻む、覆い隠す、それへと至るべくしての道を封じてしまう、妨害する、阻害する力として、その暴威を猛威を振るうことになるであろう…。

*トリグナにおける第三項、サットヴァとよばれる力がある。これはGが三つの力として
 語ったものにおいては”中和力”と呼ばれるもの。これ力自体、この力単体のみにてでは、
 人間の認知力では察知しようがないものになる。ここの質は大変興味深いものになる。
 この力の、(ラジャスとタマスがせめぎ合う現象界への)干渉において
 バランスとしての状態が回復される。完備、顕現が為される。
*そのときに、何がラジャスとしての働きの代行者であったのか、また何がタマスとしての
 状態であったのかは適宜、色々とその内容は違っているのだが、なにをもってそこにあった
 混乱が平定されたのか、なにをもって仲裁/調停が、両者間において為されたのかが分かる
 っと。色で言うならば、三原色が混ざり合って、無色透明としてのその状態になっただ。
*ことの動乱を混乱を経た上に、誰もが予知/予測できない、できなかった何かを!
 もってして、平定されたるのだ。これこそが奇跡としての、それたるものの本質になる。
*めでたしめでたし…。

追記:
なにごとにおいても、それとしての始まり、切っ掛け、機縁たるものがある。自分なんかは三の法則

において、それとしての総括が為されたのは、それが為されたことは、切実なる実需においての、その結果であったであろうと踏んでいる。ではその実需としてのものは、なんだったのか?。洪水、河の氾濫、それらによる被害が先ず第一義。次点においての人の心の内にて働くのがそれ、その災難に対する、それらの事態に対しての、対応策だ。

農耕においてのその収穫こそが、生活するにおいての基盤になる。だからこそ真剣にその対策としてのものが探し求められた。切迫した解の必要性こそが発明の鍵。河そのものの、それが荒れ狂う状態になったときに、何をもって制御を果たしるのか?!。

頑強なる水路の構築をもってでしかない!。それをもって流れを、水量を制御する。
そしてまた日照り、乾燥期のことを考えて、貯水池としてのものものも用意する。

河の氾濫、水そのものが荒れ狂ってある様、また変化そのものを表すにおいて、最適なるものとしての水!。あらゆるものに浸透してあり、またその去り際は、追うことの決して叶わないまだの迅速なるものとしてある。日常においてそれにおいて抱きたるのイメージがラジャスとしてのものなんだろう。

片やタマスとしてのもののそのイメージの根幹となったのは、堤防、堤、防波堤、ダム、溜池、

としてのもの。強固にして重厚、鈍重こそがそれらとしての価値、また本領だ。それをもってこそラジャスとしての水をなんとか制御できるようになる!。

      Holy the Firm と発せられたことに自分のイメージの根はある。
       強固、堅牢、頑丈、不動なる、変え難く、既に覆し難くしての…。

      譜面、台本、シナリオ、掟、戒律、プログラム、プロトコル、作法……。
        これらもまたタマスとしてのもの効力の元に機能している。

では、サットヴァとしてのその力が、人の意識内にて、捉えられた、感づくことのできた、その道筋は?。この問の回答を考えるならば、灌漑工事としてのその労働が、どれほど大変なものであったのかと(重機なんてもんなかった)、なにを、どんな思いをもって、その難事業に人々が取り組んだ、取り組んでいたのかを考える必要がある。安心して生活できる為に、飢えることなく、餓死することのないようにさ。みんなで収穫を分け合って、それをもって皆で楽しもうっていう、その一念のみにてで、ことに皆で全員で当たってたのさ…。

ある意味、この思いは、自然なるものになる。それも神からしたら、喜ばしきもの、まさに地上にて人の子らが、その胸の内に、養い、育てるものになる。これがあるからこそ、人々は団結できたのだ。その難事業を、やり通すことができたのだ。何代にも渡ってのその努力ではあっただろうが。

端折るとだね〜、サットヴァとしてのその力の正体は、神そのものだってことが言えるのだと思う。もう少し言葉を荒くして、尽くすならば、神におけるその創造の力、それそのものなのだと。だから〜、神と同じくして、感知、察知、感覚をもってしての認知は適わないようできている。この力の正体は、”愛”としてのそのエネルギーなんだってことも言えちゃうと思う。

その、それらの対象としてのものは、実はなんだっていいだ。無辜無私としての何かへの愛が、人類の幸福を願っての何かへの注力こそが、サットヴァとしての、その何かの力を引き込むことになるのだ。

結果としてのものなれば、それは灌漑技術だ、方程式としてのものだ、知識だ知恵だ叡智だってことにはなるのではあろうが、それは入れ物としては正解だが、ことの本質たるものは、それを顕現させた、析出させた、未知としてのエネルギー本体、そのものだってことになるんだと思う。

日常においてのあらゆるすべてに三の法則を見いだせてこそ、この法則においての理解が
為される。この観察の努力を、思考の考察の努力を、怠ってはならない……。

追補1:
ならばだ、父と子と聖霊はどうなる?。
これらもまた、トリグナとしてのその別表現になる。
聖霊は愛だ、それそのものとしての顕現なのだって自分の考えにおいてはなる。

追記:
イエスは自身の核となる愛を独立させて、
それを地上へと再度それ単体のみにて送り込んだ。返すことを神に願い出た。
だから、現在、地上にて活動してるのは、イエスの、その愛においての聖霊なのだ。

***だからこそなのだ!。現在降臨してあるその聖霊を冒涜することだけは絶対に許されないこととしてあるのは。それは核部も核部、イエスにおけるその愛、そのものの分離体としての存在なのだから!。……考えてみればこの着想は、いや真相ハ!大いなる助けになる。どれほどまでに気が楽になることであろうか……。より親密なるものにより信頼の置けるものになった。
(参考:マルコ3章22-30節、マタイ12章31-32節)

聖霊にも複数、複数種がありえるんだろう…。人のこころにおいての真に愛なるものが生まれ働くとき、聖霊としての事態が、それとしてのものが顕現すんだろう。だから、これまでに、イエスの前に、聖霊がいなかったのか?っていうと〜そんなこともないんだ。だが、その愛においての交感ってやつが廃れてゆくにつれ、それとしての顕現もまた過疎化していったんだろう……。

追補2:
タマスとしてのその力も千変万化してる。してくる。例えば、どツボ、ぬかるみ、泥濘、艱難、難局としてのものも、またそれとしての時代、それとしての期間も、またこれなのだ…。どツボといえば…既に、ことは変え難くしての、抜け出す、免れ難くしての難局も、それとしての状況も、これに含まれてくる。はっきり言えば、イエスの経た受難だ。捕らえられて磔刑の判決を言い渡されてあるその状況のこと。これもまたタマスとしてのものに当たるのではないだろうか?。この自分のオモコとしての考えによれば〜だ。彼がその道をあえて選んだことにこそ、ことの意味は意義はある。それは人類への愛を動機においてのものだった…。罪に染まって天の父なる神による断罪を待つばかりとなってる、その怒りのせいで、すさみきって、荒れ果てたままとなってしまっているその動乱の時代に、騒乱喧騒混乱の渦巻く状態としての、ラジャスとしてのものが荒れ狂うその中にて、サットヴァの権化として、彼は救いを結果として残す、結ぶべく、この世にて、それへの道を付けたのだ。*三項あったかな?。


再開:

Tamas and Rajas must be conquered before Sattva can appear.
It will all come in due course, quite spontaneously.

タマス単独としてのその力の顕現、ラジャスとしてのその力のみの顕現、
これらとしての状態は、克服されねばならない。(その当事者の内面においてでは。)
サットヴァたるもののその力が顕現されるその前、それ以前において。
それも強いられてなどでは無くして、何かの対価を報酬を前提としてのことでもなく、
貴方の自身の内から自然とこみ上げてくる、その思い、衝動、願いにおいての、
その努力、発奮でなければならない……(quite spontaneously)。

介入:
ことの制御においての、その”(かなめ)”となるのが、どちらの力に対しても、それらに接した、影響されてあるとしても、闇雲に同化しないといったことが、その力が、その個人においてのその意思が、その意志力ってもの、やつになる。でもこれらの力を侮ってはならない。自然に猛威を振るってある、振るうべきものものとして到来してくるので、基本、我らはそれらに翻弄される、避けがたく翻弄されてしまうからこそのその存在なので、そこにはどうしても確執葛藤が備わってくる、きてしまう…。このことがどうやら必須なのである…。だから、ある程度は苦しむにしかない。それを耐えることにおいて忍耐力ってやつも手に入る。でもだ、ところで、何故にそういった努力が為しうる、行えるのかって云うと〜、やはり皆においての希望は、平和であり平安である、また全体におけるその調和なのだ。みんな楽しく仲良く暮らせればいいではないか〜と……。

補記:
慌ただしくこころ忙しなく、もしくは浮足立って、興奮気味で、こういった状況は間違いなく訪れてきてしまう。そうなるのが自然なのだ…。または、どうにもこうにも気が進まない、気が重い、だるい、面倒くさい、つらつらつら、こういったことも日常茶飯事なることでもある…。

状況からの要請においては、こちらにおいての、こちらとしての希望都合などお構いなしに〜、ありたい/いたい状況からの離脱が用意されているはずなのだ。そういうものなのだ。例えば、疲れが抜けきらないままで、出勤としてのその時間が来てしまう…。気力を振り絞って起き上がり、即座に職場へと向かった…。このままみんなが羽目を外したままならば、誰かが怪我をすることになるのは必勝!。なので、この自分は、自分だけは正気を取り戻して、冷静になって、醒めて、皆の面倒を観る方に回る…。共に、実際においては苦痛としてのものが、確執葛藤としてのその思いが、そこには伴ってくる。これもまたワークをするにおいての恵まれた環境であったってなこととも言えるわけなんだが……。:補記終わり

そろそろ最後の佳境に入ってきているので、マハラジとしてのその強弁と、されてあるところであろうことに触れておく。彼マハラジは、願うことのその前にっ!ラジャスとしてのそのあり方と、タマスにおいてのそのあり方を、貴方は、あなた方は、克服しなければならないっつってんだ。もう貴方だけにしとこ…。簡単に言えば、歯に衣着せずに言うならばーだ、やることやる前に、理想やら欲しい物が手に入らないなんてことでくよくよ、つべこべ、ぐちぐち言うなー!ってんだ。第三次世界大戦が現在見通されてしまってて、もう心配で心配で、怖くって、将来に関してはもう不安しかな〜いーーだって〜?!。でっあるならば〜だ、いったい貴方は、どんな状態を、現在求めているんだ?!あるんだ?!。どうあって、どうなってほしいっつてんだ?!。

それとしての状態を、先ずは、自己の内にて、自力にて、達成しなさいーーって言ってんだ。やることやる前に、自分のことを棚に上げといて、とやかく理想を語ったり、他人に世界に、自分の希望を押し付けて、求めて、絶望しといて、そんで、あくまでも、かってなこと言ってんじゃないわーーーい!って……。

:介入終わり

追記:
ことは引き算としての、それをもっての論法で往くべきなのだろう。他人は変えれない。無理すれば、その上辺は変えることはできるのではあろうがそれだけでは割に合わない。そらには変えるべき他人としてのしてのものは群れとして存在している。ならばだ、もうことは諦めたほうがいい。であるならば、残るのはこの自分だけってこと。そうそうこいつを見落としてしたなっと…。

自分を取り巻く包括してある外界、世界に不満があるのならば、ことは、自分自身におけるその出来上がりにおけるその反映の結果、そが故だと、捉えることもまた可能。実際はこれが正解なんだろう…。ならば、まずは自分自身を、自分の本質、その魂たる本体を、救ってあげなければならない。これこそが手始め。この彼こそを幸せに、その思いにて生きれるようにしてあげなければ…。自分が幸福、幸せならば、その自分の周りに集う人々もまた、そのことに感化されて、その放射を受け取る、受信されたものに反応を来して、なんとなく楽しい、嬉しい、幸せだと、思えるようにもなるわけさ……。根源的なる原因体、

となりなさい〜って。


再開:

Q: Is there no need of effort then?

それでしたらば、努力の必要性はないのですか?!。

M:
When effort is needed, effort will appear.

努力が必要なときは、努力(としてのその行動)が現れるのだ。

When effortlessness becomes essential, it will assert itself.

努力するに能わざるとき、それこそが正しい選択であるときには、
それとしての状態が、自ら、当人にそうだ、動くな、なにもするなと、悟らせてある。

*例えば、絶えず幕無しで、あらゆるすべての他人事に介入する必要はないんだ。
*自分としての役回りが来てるのか、来てないのかの判断が大事。
*基本、既に手の施しようないことにおいては、場合によっちゃ辛いかも知れないが、
 ただ静観を決め込むっと。
*このことは決して不人情なあり方ではなくて、適切なる次点における出番に、
 備えるってなこころの準備にはつながると思う。

You need not push life about.

貴方は、貴方の人生そのものを、こき使ったりする必要はないのだ。

take2

貴方は、貴方の人生を、無理して推し進める、人生そのものを設計したり、力づくで切り開いていく、そういった努力は、必要はないのだ。


*動き働き続けていることが正しいことでは決してない。それは勤勉であるとはならない。
*基本、時宜たるものを、察することが適わなければならない。
*では、なにをもってそうだと、そうではないと、識る知る覚ることができるのだろうか?。
*なんとはなしにだ。でも揺らぐことのない信頼、確信を元にではあるな…。
*おそらくは世界に対してその流動としての世界に、
 自己を開いて在るってのが肝心なんだろう。
*エゴにおいての活動を極力抑えて、その鎧を着てないものとして、
 本質そのものにおいての、そのボ〜ナラブルなるの、ナイーブなその限りにて、
 いてれば、活動しまくってりゃいい…。

Just flow with it and give yourself completely to the task of the present moment,
which is the dying now to the now.

それとともに、ただ揺蕩って、流れてゆくままにて在りなさい。そして今こことして現れてくる、意識されている、臨んでくる仕事としてのものに、貴方自身を、完全に捧げて、在りなさい。← 全身全霊をもって、真剣に、為してありなさい。こうしてあることは、今に死に切り、次点の只今においても死ぬ続けてであることに他ならない……。

*基本、何が死ぬのか?どうして死ななけれならないのか?
*なにものにも引っかからない、なにごとにおいても引っかかっていかない、
 これとしてのその在り様だってこと。
*なにものにも執着しない、拘らない。これはおかしな事態なのだ…。
*これは切れて、いって、しまってる〜ってことに他ならない。
*そこに結実してあった自己としての意識が、なにかの目的意識を元に、何かへの執着に
 おいておい結像していた自己が、次点においてはもう消失してしまってる。
*また新たに違う自己ととしての意識が構成されてここにはあるだ…。
*つまりは、人格としての、エゴとしてのその自分は、
 傀儡みたいなものとしてのその扱い、その地位へとなった、変わったのだ。

For living is dying.

なぜそうなのか、そうなるのかと云うと〜、生きるということは、死ぬことなのだから…。

*ここは…この自分は、よく分からない…。
*恐らくは迷妄としてのその生存を喰い破る、断ち切る、そして


 それとしてのものにて完全覚醒することが、与えられてあるミッションなのかも知れない。

介入:
意識たるものは、世界との関連性において、より明晰なるものへと、成長進化を遂げる。
より自己の為すべきことにおいて自覚的になってゆく。ことはこの世としての世界理解、
目覚めとしてのその在り様が、より鋭敏により鋭角に、なっていくってことなんかも知れ
ない。このことの内容も言っちゃなんだが複数あんだけどね。でも人は一つのフレーム、
一つの物語しか選べないんだ。中途半端なることはなんにも結果たるものを結ばない…。

自然と現れてくる自然と自覚確信されてある今自分が為すべきこと、為さねばならないことに
その身をそのこころを捧げていなさいってことなんだろうね。であるならば、死ぬものはなん
なのか?!。エゴたるものとしてでしかありえない、自分としての拘り、その求め、願い、
執着なんだろうね…。:介入終わり。






              Without death life cannot be.

          ”死”なきところ、”生”たるものもまたあり得ないのだ。

  *本源とコネクトを持つ、本来生そのものとしてのその核部が、自己を現すが、真の生。

    Get hold of the main thing that the world and the self are one and perfect.

(どうやら、なにやら、訳者が暴走して、かってにいろいろと混ぜ込んできてしまっているようじゃが)、貴方は、私が今ここで語っていることの要旨を外してはならない。(意外と通じづらい、要領を得にくい話しを、私はいまここ最後の部分においてはしているのだから。)

        その要旨たるものを要約して簡単に言葉にて表すとするならば、

         「真に客観的に実在してある世界としてのものはだ、

    (元から)貴方自身(その核部は)とは、

としてのものであり、


   (外面上どの様に貴方が観ようとも考えようが)

として在る!」


       Only your attitude is faulty and needs readjustment.

(物事に対する対しての)貴方の考え方、出会う関わる人々に対しての貴方の態度のみに、
 問題はあるのだ。その既に自動的にて作動してある、無分別/無配慮なる反射反応系は、
 リセット、解消、再構築、正されなければならない…。(←主従を入れ替えたものとして)

   *「俺そんなこと、言ってね〜しっ!そんな言葉話してね〜しっ!」(マハラジ)

       This process or readjustment is what you call sadhana.

   この、無効化、離脱、修正するべくしてのその努力が、そのプロセスこそが、
あなた方が(上辺の言葉の響きのみのその理解にて、それに留まったままで終生を過ごす、
   終わらすところの、その上で)呼ぶところの、修練、修行、ワークたるものの、
           その本来のあり方、その姿、正体なのだ。



          You come to it by putting an end to indolence
       and using all your energy to clear the way for clarity and charity.

     貴方は、この修練としての道へと、それへと踏み込むべくしてのときを、
   今、迎えてあるのだ。習慣的なるその怠惰、惰情なるがままなることを良しとする、
          その態度、思いに、別れを告げることによって…。



  明確なるを尊ぶ、意識においてのその明晰なることを志向し、それを指針として持つ。
    そして、貴方の周りにて生きてあるすべての命を慈しみ、愛してあげる…。

     これらのことにおいての、進展の道を開くべく、貴方の持てるすべての時間を、
            持てるすべてのエネルギーを、使ってありなさい。

(実際マハラジは「IAM」の

にてで、ときのすべてを過ごしてあった。)

          But in reality, these all are signs of inevitable growth.

         しかしながら、現実においては、これらのすべてのことは、
   避けることのできない、免れることのない、必然必至なる成長たるものにおいての、
         それにおいての、伴っての、サイン、兆候、証拠なのだ…。

           Don't be afraid, don't resist, don't delay.
                Be what you are.

          ことを恐れてはならない。また抵抗してもならない。
          ましてや遅れる、二の足を踏むなどはもってのほかだ。
          貴方として、それそのものとして、貴方は在りなさい…。

               There is nothing to be afraid of.
                   Trust and try.

               恐れるべきことなど、どこにもなにもない…
               私の言うことをただ信じて、試してみなさい。

                 Experiment honestly.

            ことの検証、試行錯誤におけるその結果に対しては、
            実際の、結果内容に対しての、それの吟味においては、
         貴方は徹底的に誠実にして、また

あらななければならない。


           Give your real being a chance to shape your life.

         現実に実際において確実に存在してあるそのモノ、貴方自体に、
         それとしての表現ができる、生きれるようにしてあげなさい。
        そのことが行い得るようチャンスとしてのものを与えてあげなさい。

                 You will not regret.

            貴方は間違いなく後悔することはないであろう……




                   【校了】





補足兼あとがき:

しっかと、意識しておかなければならないことは、ここでの質問者はマインドにおける
知性センターだってことなんだ。それにおいての吸収理解なのだ。一枚フィルターとしての
ものがかかってる。よって後日においては、ことの実践、マハラジのアドバイスに基づいての
試行実行が為されたときには他のセンターの参加が前提になる。

マハラジはまた彼自身が達成されたところの存在から語ってる。
ところどころ質問者においての実在に向けても言葉を発してる。


今回の内容において強調されてあることは、「ことは自然なるもの」としてのこの一語にて、
集約されるものだと思う。これとして在り、またこれにおいて、沿って、同体なりもてで〜、
生きなさいだ…。

ちょっと工夫しよか…

上記における”quite spontaneously”がキーワード。

かなりのダイナミズムを察して覚えてもらわなければならないんだ。

ことは〜だ、春先の、命が新たに萌えいづる、その様子を、その姿を、
念頭に持ってこなきゃならない。

見た目上は、冬の間は消滅したかのようではあったが、この春どきにいっせいに再誕、再生としてのスタートを切り始める。春先から夏場に向けてのその生命の萌芽はそらおっとろしいものがある。ニョキニョキ、ぐんぐん、あれよあれよという間に育っていってしまう……。

これと同じ展開が我ら人類においてもあるんだよっと…。

この展開やらエネルギーの奔流を押し止める、封じて、蓋をしてしまってるってのが
一番の人類の病巣なんだ。

知性センターへの傾き、知識テクノロジーへの偏重が過多に行き過ぎてしまってる。
何故だ?驕り高ぶりへとその心が流れ染まってしまってるから。貪欲なく金銭亡者へと
変わってしまったから。贅沢たるものがしたくてしたくて堪らない。
我欲の充当、満ち足りこそが幸せなのだと思いこんでしまってる。
目立ちたい、称賛されたい、認められたい、感謝されたい、つらつらつら…。

これらは明確なる自他との線引が前提になっている。
よりそれを彫り深いものへと変えてゆくそのトレンドが形成されつつある。
もう止められんよ…。このまま益々、より意識されるべきものとなってゆくよ〜…。
世界大戦もこのことに、このことのエスカレーションに、極端に力を貸している…。

この自分が一番悲しむ、恐れるのは、大地そのものが、農耕するにふさわしからぬものになること。海洋においての漁獲がもうできなくなること、つまりは海が死んでしまうその事態。
酸素ボンベを用いなければもう呼吸さえ適わなくなるその日が来ること、来てしまうこと…。
本事は、極東の、局地であれば、

、かなってしまうことになる…。

二度あることは三度あり、三度目があったれば、もう後は、何度あろうが起ころうが、

、知ったこっちゃないんだ……。









忘備録:

TEは一年かけてもやっと現在やっと82話のところ。良く出来てるんだ。
アニメに入れれるのかわからんが、史上最高傑作としてのものになると思う…。
マブラヴオルタの方は「あざとすぎ」。これに流れてしまってた。

ことは、では、動物そのものとして生きてあるのが正解なのか?!
てな考えもあるにはあるのだが、それを言ったとてどうなるのん?。…

たぶん、人間は卵としてのものなのだと考えるのがいい。

孵化して殻を割って、そこへと至りつけたなら、天使存在へと変わるんだ…。


高度な知性、動物のものを遥かに超えた意識を携えて、天界へと帰還を、
自力をもって、されど分からずしてのサポート下に、それを果たすんだ。

もうそれは宇宙とも一体化を果たしており、それが果たしているその目的において、
より明瞭にはっきりした理解の元に、奉仕を行うその姿にて、生き続けるのだろう。
それも、もう永遠に!....喜びに溢れたるのその様にて.....。

誰が、一番の名演だったのかというと〜……小雪(おつう)だろね。

しかしま〜、なんつぅー贅沢が適っていることか!

皆さんそう思いません?。





          抜いた絵。つなぎとしてはいるのでここに置いておく。




            これはフードが過剰で結局、使わなかった。







                                     ゲスト













おまけ:


Re: 点線部におけるその実際の内容


苦しみたるものは胸の奥にて感じる覚える、
そこにてしこりておるもんなのじゃから‥
胸襟を開いての故事が如くにして、開いて開けて取り出す…
どうやるんじゃろか?どうやればそれができるかなのだが‥
切って割って開くってことはできんので〜、
どっかから手〜を突っ込んで、押し出す、取り出す、
もしくは引っ張り出す、引っこ抜いてくる〜……
では、どっからになる?、
どこからそれを行うのかと云うならば〜……
妥当なるは先ずは口!、もしくは鼻の穴……かっ?…
いやいやもっと相応しくして実際実現実行可能なるは、ことが真に行えるのはだ!
やはりあの、あちらの、あの穴になるんのではないのか?!……
しかしだ、これをやるならゔぁ、ほんと、生きるか死ぬかの瀬戸際、
まさに、大博打たるものになることは必定にして必至!。
しかし、されども、それを、本ことをだ、御前の前にてで、
行い、いたす、やるというわけにもいかぬので〜〜……
さすれば、やはり、一旦は、厠にて、其処に引きこもって、そいでから!
試すにおいてのことホば、行ってからのことと、したっとらんとなっ!




「なんて不憫なお人なことか…。将来が、ほんま、ほんまに、不安!」。
             かぁ〜、
                  「もう帰ってくなっ!」。







              実際は”カブ”なんだけんどね〜www。






                「もう帰ってくなっ!」(読者)






                「介入、(おお)()ぎなんじゃーー!






                「本文が頭にまったく入ってこ〜へんやないか!」(怒)







































                  お ま け 2






              これがオリジナル。上は模造品。





                  同じく運慶作。









                   麻貴ちゃん








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