第20-ア話 概説般若心経

文字数 10,830文字

このお経についてをなぜ語るのか?。

何でお前…そないな大層なことを…おまえ風情がか?…。

「幾多の…沢山の…呆れ顔が、目に浮かぶーーー!」

この仮想たるの羞恥の炎に炙られながらしてでも、
語りをせねばっと、思い至った次第なのでございます〜。


Re: その訳。

このお経は、誰ものが皆、どこかで否応なしに唱えざる得ないものである。

誰が/誰に、これを、唱え/語るのか?
あちら側で、語られてしまう立場の方は、さて内容をご理解できるのか?
また、語るものは何をいったい何を言っているのか、理解できているのであろうか?

両者ともに、いろんな意味で、あれやこれやの制約たるものが備わっているのが実際。
でだ、アジャパーたるのが、その両者における真の実態であったなれば、
あの厳かな時間としての意味は、いったいどうなってしまうのであろうか?!。

それはもう…ナンセンスの極みたるの…、それの全開の〜、
我が親族総出による、総協力の元での、途轍もない茶番劇のお披露目にしかなんなーい!。
形式のみ、上辺だけ、取り繕い、坊主の真似ごと…。

なんか賑やかそうだとばかりに、彼方より詰めかけてきた見えざる存在たちが
それを見たならば、腹を抱えてゲラゲラ笑いだしたくもなるの図にも等しい。
聞こえやしないだろうけど、それらみんな大声で大爆笑している。断。



ヒィー、お腹痛い、やめてくれー


「その場は名実共に厳粛にして真に意義深いものにしなくっちゃね!」


僭越ながら浅学の極みたるの私めが、
 その意味/(ことわり)についてのご説明をさせていただきます…。


なんやよう分からんけど、
そこまでの思いで書かれんなすったなら、
こちらも読んでやってさしあげましょうでいてやってくださ〜い!。


乞不有御期待。


注)
ちゃんと勉強を済まされている方は読んではいけません。
腹立つだけですから。
www。



Re:「いざ、開演!」


仏説摩訶般若波羅蜜多心経

  お釈迦さまが、
  ご自身の修行を完成されることによって、
  初めて、世にて、説かれることが可能となった悟りの内容。
  その精髄(心)を、簡潔にして、まとめたものになります。


観自在

  もう見るも聞くも感じるも、何もかもの一切が、
  なんの偏向も、恣意的な色付けもなく、
  ただ在るが儘に、純粋なその本性のままに、
  知り得るのみとなってしまった(菩薩さん)


菩薩

  その菩薩さんが、

現在も修行し続けている方による語りとしたかったので菩薩が使われるまで。
以下の悟りの内容は、誰ものが修行の過程において、正覚に/悟りに至るまでに、
間違いなく現れてくる真実ですよっと。


行深般若波羅蜜多

  真に智慧と呼ぶにふさわしい
  精神の作用についてを
  修行によって完全に悟るべくしていた時に、


照見

  はっきりと見切り、理解したことについて…。


五蘊皆空

  ヒトが意識に反映させる五種の情報処理係。
  蘊は、トゥリー構造が特徴である情報のグループ名称。
  これら(皆)みな” ”なるものである。





  1)目に止まった、耳に聞こえた、肌感覚で感じた。
   プライマリー・コネクト。(感覚器へのインプット)

  2)こころには印象/感覚/感触として結ばれる
   第一次展開 (後ろから聞こえてくるのは轟音。ガラガラ音)

  3)それらをヒントとして、記憶に基づく参照がなされイメージの喚起がなされる。
   第二次 ” (恐怖ー危険?危機?ー確認…)

  4)これに対して意識が働き、対象に関してのイメージが形成される
   第三次 ” (トラック?)

  5)このイメージにおいて意味づけ/考察が行われる。
    第四次 ” (後ろに迫りくるは、乱暴に走るが常なるトラックに間違いない。
         大至急、道路の際の際、キリキリまで寄って、
         対象との接触を避けるべく、距離を可能な限り確保。)

トラックの例では、ここでの展開に何の問題があるの?ってことにはなるな…。
では、実際は、このトラックは、実際は安全運転を心がける市営バスだったとしておこう。
弱いか?。ここでも同じだ。何かを取れば何かが失われてしまう。w。

ことは、こころの中とか、認識のプロセスそのものが問題なのだ。その過程において
実体/実際は見失われ、モニター越しでの情報確認になっちゃうみたいな?。そのモニター
情報ってのが、客観的に見ると、おそろしく偏った我見まみれの妄想としかならない…。

心との交流/干渉/影響において、意味合いの分解/区分け/再構成が意識内にてなされる。
「認識する」を表現としては使うが、「どの霊中枢と/どのように」認識するかは、
本人のタイプ次第になる。タイプ4なんかの場合だと、感情が知性を利用して、
主導して、の表現がぴったりになる。

「認識する」の過程では、二三の霊的中枢の参加において想念たるは湧き起こり、
結果、複雑な意味付けが構成においてなされる。
この経過としての道筋は、轍として以降個人内にパターンとして残る。
合理性の為、俊敏性の為に自動化がなされてゆく…。

結果、歳を経るに従い鮮度感はだんだんと失われてゆく。
実感が薄くなってゆく。弱なってゆく。
頭が固くなる。←ほとんど自動性しか残っていない。

とにかく、対象たるは、この間の作業によって、
最終的には、本来性を離れた独善的な解釈へと変わってしまう。
その核心は、記憶盤に刻まれている情報の再構成にすぎないのだ。

*これらの展開は、超高速で整うので、意識することは生中にはできない。

*正覚においてはもっと早い。いやもう時間は問題でなくなる。
 即時即応で知る

ことは完全に理解されてしまうようになる。
 たぶん認識の経路が全く違うんだよ。それは「在る」に基づいたものになる。
 すべて理解として起こり、マインドは/自己意識は、副次的なものとして
 背後で機能しているだけになる。多分、宇宙的なフィードバックが


 果たされてしまうんだろね…。

まあ、長くなったが、五蘊として捉えられる、このヒト心に引き起こる精神作用は、
全部、あるよなないよな、流れ移ろいゆくばかりの、確たる実体はないもんなのよって。
って表現されている。

これも「空たるものが在る」としか表現としてはならない。

ともかく、価値ある対象ってのは、あまり永続性のあるもの/実体性あるものだとして、
重きをおかない方がいいよって。咲く花の如きものだよーって…。

この【空】についての発見/言明は、ただ、お釈迦様、お一人だけだ。
この一事だけをもって仏教の特異性は、独立性は、確保されてしまう。
正直、仏教は、難しすぎて分からない…。

多分ね、外宇宙と繋がってて、
この世に反映を引き起こす、変化の原動力たるの魔法の穴なんかじゃないのかな~?。
五蘊でさえも、この空のせいで引き起こっている現象なのだと語られているような…。
アジャパー。


度一切苦厄

  一切は全部。 一切の苦厄、苦労、苦難、災厄と体験されるものは、
  そういった五蘊によるものなのだと、度された。説明された。

舎利子

  愛弟子たるの舎利子よっ、て呼びかけている。


色不異空

  色たるは、空たるに異らず(不)。

 あれやこれやのあなたが印象として捉えられる物事は、
 空なるものとしてあるのと全く異ならない。

 接触界面にて、永遠に続く刹那に引き起こった、自分勝手な、臆見まるだしの、
 ほぼエラーばかりの、自動的な情報処理、その結果に過ぎない。

 我たるのフレームは、それを「そうだ」として捉えるが、
 そんなことは「在るが儘の現実」としては、知ったこっちゃないんだ。
「我一切関せず」の「歯牙にも掛けず」のご様子のままだ!。

 大海原を前にして、氷のキューブを手に持って考えるのがいい。
 それは確かに手元にあるけれど、ほん一時だけの有り様/状態でしかない。
 これって…あっちなんかい!って驚愕するわけよ。

 あなたの、ほん一時の幸せの為にだけに、馳せ参じましたわよ〜んって。
 「カラ〜ン」って。(アイスコーヒーですわ)w。
 

空不異色

  空たるもまた、色たると異ならず。

 白地のキャンバスがあってこそなのだ。
 美しい絵がそこに描かれ現れてこれるのは。
 これは例えだ。
 そこに分断は元々ない。それらもまた同体たるに変わりなし…。

 映画で言えば、
 没入してしまえばスクリーンも映像であることも意識にはなくなる。
 また観客席にいる自己さえも…。


色即是空

  色とは即ち、これ空だ。


空即是色

  空もまた即ち、これ色なのだ。


受想行識

  さっきの五蘊の内での、2)3)4)5)に当たる受)想)行)識)は、

亦復如是

  また(亦)繰り返すが(復)、是(これ)とおんなじ話なんだ(如)
 

舎利子

  熱心に仏道の学びに励みたるの舎利氏よっ!。


是諸法空相

  諸法、もろもろの法則に従って現れている/くるものは、
  これは、空たるものの表に現れてきた様子(相)に過ぎない。


不生不滅

  生きる、生まれる、はないんだ。
  死んだ、滅んだ、なんてのは(本当には)ないんだ。

 真の全体としてのこの宇宙が、なくならないその限りにおいてでは…。
 あらゆるものに浸透し、またあらゆる全てにおいて循環してある水を…、
 その一滴として、今の自分はあるのだ考えればいい。

 夜になって眠りに落ちたなら、それは死に落ちたとこととなんら変わりはない。

 翌朝に目覚めるのか、それとも再誕を迎えるのか、その違いだけ。

 どっちらであったとしても、貴方には、そのことにおいての支配力、権威は、ない…。

 意外と意識してない、意識されないようなってしまっているのだが、
 生かされてあるってのが真実なんだ。
 では、それは誰によって?ってことに思いを馳せねばならない。

 それをなんて呼ぶのかってことはさして重要ではない。

 だが、自分を遥かに超えたなにかがそこにはあるんだってことは理解しなくてはならない。

 リアルなるものとして…。

 

不垢不浄

  汚れる汚されるなんてことは起こりえない。
  また清くなった/されたなんてことも…。

 糞が手についた!。石鹸使って水できれいに洗ったのならどうなる?。
 そんな悪印象を後生大事に抱え続けているのは如何なものだろうか?。
 汚れも清浄なるも人間のただの観念、思い込みだけ!。

 肉のその組成性質ののことを考えるのならばだ、完全に清くなど在り得ようはずがない。
 根絶することなどあり得ないし、またそんなことは絶対にしてはいけない。
 バイキン群らにおいてもそれらもまた共生が持たれるべくしての

がまたある。
 例えば大腸菌…。
 居場所を変えればそれは有益なるものとなり得る。ありがたい限りのものなのだ。
 また場合によっては、怖気を奮って急ぎ対処をすべきその有様とも化す。
 手のひらを、うんこまみれでほっとくわけにもいかんでしょ?。

 要はグラデーションとしてのそれらの具合、その話であるのが現実。
 だから「キレイだ」だとか「汚い」などと一概に二極化、割り切れる話でもな〜いっと。
 適宜としてのその状態に、その時においての最適として、また無難の有り様にするまで。
 バランスをとってありましょうねってのが、唯一の指針としてのものになる。
 

不増不減

  何も増えちゃいないし、
   減ってもいない。

 この世界の総体、この大宇宙からしたら、何の変化も起こっちゃいない。
 質的な変化、局部的な分散の具合、バランスは変わって行くけどね…。
 あんたの損は、誰かの得。
 方円の器(*)の如し。善行を当たり前として行っていなさい。w。
 我らヒトは、宇宙の仕組みたるの、その一環でしかないことを忘れてはいけない。


是故空中

  この故に、世界の本質の、本源たるの空の中においてのことだと考えれば、


無色無受想行識

  色と、形象の現れとして私たちが認知しているものは無いものと言える、
  よって、受想行識としての内容も、実体としては無いんだ。


無眼耳鼻舌身意、

  目と呼ぶ、外を写す器官
  耳と呼ぶ、音を聞き分ける器官
  鼻と呼ぶ、匂いを嗅ぎ分けたる器官
  舌と呼ぶ、味わい知る器官
  身と呼ぶ、感じを伝える器官
  意と呼ぶ、意識の敏感性たる器官

  このように(区分される)器官なんてものはないんだ…。


無色声香味触法

  眼に映りて認めたるも
  声として聞こえたるも
  香りとして嗅ぎ知りたるも
  味わいと舌に覚えらるるも
  触れた触れられたの感触であっても
  法たるものとして語られたるも

  すべて斯様なものは(向こう側には本当にはなにも存在して)無い…。


 これらは刹那の一瞬だけに、偶然か、
 はたまた宇宙の/神の、斡旋/ご意向においてなのか、
 縁として結ばれてでしか成り立たないものなのだ。

 無心に丁寧に味わって米を百回噛んでみんさい。
 その時にはまた知らない未知なる米の味わいがあるから。
 一瞬

だけどねー。



無眼界乃至無意識界

  視認されるこの世界。
  もしくは無自覚に無意識に捉えられているその世界。

  それらに(実体)は無い…。


無無明亦無無明尽

  ことが明かされぬままであることは無く。
  また(亦)
  無明たるのが尽きることも無い。

 何かが分かったと思った瞬間、新たな分からないが浮上してくる。
 分かったことも、ときが経てば、なぜかその根拠は曖昧になってしまってる。
 本当に知ること、理解(三つのセンターによる合意)は、そもそも苦しみを経ること
 なしには至れない。ならば誰が何の為に?…そんな苦労を背負い続けるような真似を
 するだろうか?。できるであろうか?。菩提心が故に。これが命の性分であるが故に…。
 愛しか湧かない。


乃至無老死亦無老死尽

  もしくは、
  老だの/死だのは、実は無い。
  宇宙の精髄たる心(神)と、ヒトの本質は、相似/同質/その子であるが故に。
  もともと

不滅と呼ぶが相応しい。これが実相である。

  また(亦)

 老いてゆくこと/死んでゆくことが、尽きて無くなるわけでもない。
 *肉体を構成する物質の変化/劣化は避けることはできない。エントロピーの法則。




  苦は人間が生きるにおいて味わう苦しみ
  集は煩悩によって(貪瞋痴をドライブとして)行為やら思念やらが積み重なって
  集まっている様子。要はややこしい限りの事態。
  滅は問題をやっつけようとすること、根本からの解決を計ろうとすること。
  道は修業するとか向上するとか研鑽を積むとか。
  こういった努力による向上過程を道程として捉えたもの。

  これらの言葉で表されることも、実体たるは、現実には無いだよと…。

  獣としての生存プログラムの延長線上に、
  マインドの機能が認識エラーの元に暴走してしまているのがすべての問題の根本。
  そのことの結果が、ヒトが「勝手に/自分で」苦なるものを作り出しているになる。
  自作自演で苦しみの芝居ってやつにはまり込んでいるだけ。
  そんな問題なんてもの本当には存在していない。
  ヒトのこころの/マインドの中だけでの、まったく個人的な話しなだけ。
  それに周りが巻き込まれた日には…ろくなことになんないだろさ。 

  道んところは:
  また、向上心はいいんだけれど、
  最初から『完全である』ってこと分かってる?気付いている?って。
  何やらまた勝手に勘違いして、それを成るべきもの、作り上げるもの、
  辿りつくべき状態だみたいにしてイメージ湧かしてない?。
  道たるものなんてのは無い。
  そんな観念は全くいらない不必要ななもんなんだって…。

  *方便としてはありだよな〜。w。イメージし易くなるから。

  必要なのは一度マインドを死滅させて本源性へと回帰して
  自然なる全体性を回復することだけ。

  穏やかに言うと、
  正常に機能させるために誰が主で誰が召使であるかを
  お互い腹の底から話しあい、直接両者間にて確認し合うだけのこと。

  その実際は、取っ組み合いの喧嘩になるだろうけどねーーー。

  そんでニルバーナに至るってのが片方が完全に滅尽してしまうの事態。

 

無智亦無得

  智るは無く
  また(亦)
  得るも無い


以無所得故

  得る所の無きに似たるが故に


菩提薩埵

 bodhi(梵) + sattva(こころを持って生きている衆生)= 悟った、正覚を得た、
 真に目覚めたヒト
 
 つまりはここでの講師役を勤められる菩薩さまは、


依 般若波羅蜜多 故

 訳の前に少し脱線:

 般若はパーリー語の「パンニャ」の音写。
 パンニャは、宇宙からダイレクトに受け取ることによって結ばれる
 完全にして過不足のない理解。智慧。悟りのことだって。

 如何なる思考操作、言語/観念に基づくプロセスなくして、
 自然と生まれる、または湧き出る/起こる知識。

 西洋の霊性ではグノーシス(霊智)と呼ばれているものと同じなんじゃないかな?。
 意識の中へと、一挙に、突然に、大量に、怒涛の如くに流れ込んでくる何か。閃き?
 学者泣かせの現象。古代の賢聖たちは、これによってあ~だこ~だ民衆に説いていた。
 準備不足であれば電波にしかならない。そういうのもいるから怖い!w。
 この辺に関しては、Gによる高次感情センターと高次知性センターの話が参考に
 なります。浅井版の邦訳ではp.305 からです。


 続く波羅蜜多は、パラミタで、
  その意味は『超越的な領域に至りきった』になる。

 beyond + has arrived
 

閑話休題:


 (菩薩は)この般若羅蜜多たるものに依るが故に、


心無罣礙

  こころには罣礙が無い。

 罣礙は物事の真実を見えなくしている”覆い”。
 罣は魚を捕まえる網のことで、礙は障害。
 簡単に言うと我見のことだ。

 こころに何かが引っかかったり拘ったり
 嫌ったり憎んだりして意地悪くなったり
 好んで執着したり陶酔したりに関わる個人的な想念現象。


無罣礙故

  罣礙が無いが故に、
  (迷妄からは)断絶された離れた(それ自体が)消え失せた状態にあるが故に、


無有恐怖

  恐怖の有るは無い。
  恐れるものはもう何も存在してない。


遠離一切顛倒夢想

  一切の(すべての)、
  顛倒した(ひっくり返った/あべこべの/倒錯した)夢想たるのものから、
  遠く離れて…

入力に対して加工操作/処理が加えられ行われる。
我見において、または過去の記憶データ、それか習慣に基づいて。
眼前の、そのものずばりを、意識としては見失い、真実はどっか行ってしまう。

問題の核心は、そのものずばりと入れ替わったものを

とみなすこと。
ことの移り変わりは刹那に起こり続けているのを忘れてはいけない。
何らやよう分からん想念/観念が、その真実としての対象と入れ替わったところで
 人間ドラマは展開されていってしまうのだ。

浅はかな人間による詭弁、小理屈、屁理屈、こじつけ。
人を欺く扇動せんとして繰り出されているだけの、ただ聞こえが良いだけのスローガン。
天地を逆に語ったものでしかないとするならば、
 その行末が現実的に実りをもたらす訳がない。

顛倒夢想の意味は生中に理解に到達し難い。
だが恐ろしい深度で、広範囲で、これはヒトにおいて引き起こっている。
  
サンスクリットでは viparyāsa と表記される:

4つの事柄に関する反転または認知の歪み。
この誤解のおかげで、ヒトは、
無常なるものを(anitya/アニトヤ)を、永続的なるものと(nitya/ニーチャ)。
苦しみでしかないものを(duḥkhaドゥッカ)を、幸せと(sukha/スカ)。
無我たるもの(anātman/アナートマン)を、真の自己(ātman/アートマン)だと。
不純、不浄、穢れ(aśubha/アシューバ)でしかないものを、
 幸運、美、高潔、善良(śubha/シュブハ)だと思い込んでしまう。  (Oxford)

簡単な例を一つ:

この世に生まれてくることは決しておめでたいことなんかじゃない。
むしろ最悪…。
むしろ、臨終を迎えるってことはこの世での務めが済んだわけだから、
  ご苦労さまでしたで、こっちが本当のおめでとうなんだ。

とある空想作家の説明においては:

ヒトの状況とは、獣の肉体の中に幽閉されている魂なのだよと…。
この魂は、獣の性分に無自覚に染まってしまってて、本来性としての自己を思い出せない。
肉体を自己とみなし、それの求めのままに認知を展開するしかできない。
どこまで行っても、起点とすべきが間違っているので、魂としての満足には到達できない。

すべての創造主である方を意識せずに、
 直接に、生命を生み、育み、養っている
  大地の方に感謝するみたいな…?。
もしくは、
生活環境を仲介している父たるヒトは軽んじて、
 実際のお金の出所である彼の母の方を重んじるみたいな?
生きている間は旦那さんを大切にしないで、ボロクソくそ味噌に扱っといて、 
 死んでから(何某かが残っていて初めて)涙流して拝むようになるみたいな…。w。

アベコベ、逆さま、顛倒、倒錯、逆転、etc が、ヒトの生存における露骨な実態なのだ。

あの唯物弁証法なぞ、神聖なるものへの道筋を、正に逆転してのビジョンでしかない。
まさに悪魔のいちびりそのもの。真実を逆転してみせたもの


返って質の悪い観念となった。恐るべき伝染性と洗脳力を持ってしまっている。
若く純であればあるほど、本当の苦を経てきていなければ経てない程、染まりやすい…。

これほどの喜劇的な展開は、宇宙広しと言えども地球以外、他にはない!。

苦たるものから離れたくば、顛倒にある状態から離れ、
   同じくその顛倒に無自覚であるヒトらからも離れよ!(こりゃ〜崇だ)



究竟涅槃

  竟たるの、ことを終えて、最後の最後に、とうとうついに、
  終わりとなる境へと至るを究めてみれば、
  そこは、それは、涅槃。w。


三世諸仏

  過去ー現在ー未来の三世に在しまする諸々の仏たちは、


依般若波羅蜜多故

 (同じく)この般若羅蜜多たるものに依るが故に、


阿耨多羅三藐三菩提

  anuttara-samyak-sambodhi の音写
  最高の/比類のないー真正の/完璧なー悟り
  を得たる。体得せり。


故知般若波羅蜜多

  般若波羅蜜多を知りたるが故に、(以下宣べん)

 つまりは、仏道の修練で目標とされる涅槃に至れたれば、悟りに至りたれば、
 霊智たるものが一人でに備わってしまう。理解されて、伝えられるのは…。


是大神呪

  これは、大神呪である。

是大明呪

  これは、大明呪である。

是無上呪

  これは、無上の(最高の)呪である。

是無等等呪

  これは、等しきもの、比ぶるべきもののない呪たるもの。


 ここで使われている『呪』は、マントラのこと。
 呪術呪法はバラモンの伝統の中に色濃くある。これは魔術のことなんです。
 O Mもこれにあたる。密教の核心は、この禁じ手としての行法なんだろね…。
 個人的な見解としては言葉を中立として奇跡たるを起こすことは可能だ。
 特殊な修行/修練/ワークを経てきたヒトなればの話しだが。 
 浮かばれない霊をあちら側へと送るなんて真言は確かに存在している。
 これは経験ずみ。あの水子供養でね。w


能除一切苦

  一切の苦しみを除く効能あり。


真実不虚

  真実の丸だしで、虚たる(嘘/偽り/まやかし)のあらず(不)。


故説般若波羅蜜多呪

  故に、この般若波羅蜜多マントラをば、
  (あなたへの(はなむけ)として)説いて聞かせましょうや!。


即説呪曰

  即ち、このマントラたるを説きて曰くハ、言葉にすれば、

羯諦羯諦波羅羯諦波羅僧羯諦

  ガテー ガテー パーラガテー パーラサムガテー 

菩提薩婆訶

  ボーディスヴァーハー


般若心経




〈了〉









あとがき:


たぶんですが…、
肝たるは、最後のギャ〜ティーの呪文なのです。

とらえ難き深淵なる意味をサウンドに託して表している。
そのサウンドは

のだ…。
その効果は

になる。

羯諦羯諦波羅羯諦波羅僧羯諦
ガテー ガテー パーラガテー パーラサムガテー
菩提薩婆訶
ボーディスヴァーハー


その意味たるを追う必要なし。
正しい発音と正しい使い方だけが肝要なのだ。
探したけど、お手本たるものはYouTubeにはなかった…。


日本の伝統としての発音は:

羯諦羯諦波羅羯諦波羅僧羯諦
ぎゃーてーぎゃーてー はーらーぎゃーてー はらそうぎゃーてー 
菩提薩婆訶
ぼーじーそわかー


たぶん…これ、効果ないよ〜。




付録:

Gaté, gaté, paragaté, parasamgaté.
Bodhi! Svaha!

gate
行けるときに行けるものよ至れり

Para向こうへ、彼岸へ+sam全く+gate至れり

Bodhi:梵、ブラフマー。(これとの一体化において初めて真実が体得される)

Svaha:末尾に使われる祈念符。アーメンみたいなもんかね?


言っとくぜ。こいつもあてにはなんないんだってことを。
無理やり、サンスクリットの

したの可能性もあるからさ。
なにぶん大昔のイエス以前の伝えだから…。

ならば…ぎゃ〜てぇ〜も正解の可能性あるわ…。


スヴァハ〜は、ガーヤトリーで馴染んでるから知ってる。
しかしYouTubeのものはどれもこれも皆商業ベースのものばかりで本物はない。
ガーヤトリーならば Hein Braat さんと サイババ のが二強。




次回は英語版を翻訳してみての様子。

そんで次次回は上記を整理したやつと子供向けに改稿したやつを載せます。

最後の子供向きでは、私自身への褒美として

やります。「ニヤッ」。



蛇足:

要はですな〜、無事完全に向こうに渡りきったなら自ずと知れることなんです。
でもこの世への未練や執着や心配やらで一杯でしょうから、なかなか成仏しきれない。
そんで、先ずは語って聞かせて、得心してもらおうって算段なのです。


*方円の器:

これは、世界ということに、この宇宙そのもの、ということになるんだけれど…、
それと相似となる、ミニマルで、かつミニマムな存在と化す可能性をヒトは持っている。
これになることが第二の河へと移行するの本当の意味であろうって勝手に思ってる。

努力の涯に、やがてチャンスが訪れる。
その時には、ある種の決断をする必要がでてくる。
ほどよい諦観と、やはり勇気こそが”鍵”となる…。

それは世を捨てること。諦めてしまうこと。 

楽しみ喜びの源泉たるのを、その一切合切を無効化してしまうこと。

「これができるか?」

これも自然と、かってに起こってゆくのものではある。
一つ消え、二つ消え、どんどん去って消えてゆく…。
あなたは抵抗しないで、ただ静かに受け入れてさえいればいい。
慌てて、恐れて、しがみついて、取り戻そうとしてはいけない…。

生存に関しては、不思議なことに(世界からのサポートなのか)自動的に整う。

なぜか、笑いだけは残るのかもしれない…。


敬具

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