第10話  Cocoon 繭 3。 終。

文字数 39,403文字

おことわり

このCocoon3、完結部は。長らく手を付けずに放置してきたものになります。
なぜなら”識別知”なるものの実際を記さずにはおれなかったから。
また、繭を切り裂くに足りる(やいば)なるものの、その正体を明かす必要があったから。

共に表現する対象としては至難のものになる…。

まあ、自分だから、短文にての、もはや暗号みたいなものにしかなんないんだろうけどねっ。
ポエトリーの範疇のものとしてでしかやれない…。
きれいな Luna moth (ヤママユガ)の写真展にしかなんないかも?。

でも、そろそろ、もうやってしまわなきゃ〜と思うので、”えいや”で、やっちゃいます。

空き番が一つしかないので、二部構成といたしたく思います。

本編と解説編。

今回は解説編としての”前部のみ”になります。

これはフラグメンツにおけるA氏訳文を自分なりに改稿したもの。

要はGによる解説たるものを添えずにはおれないってな〜てな感じ…。



解説編が完了する前の前座として少しおしゃべりしましょう。
これは自分としての気晴らしであると同時に、補助的なものとなるであろう…。

先に1.と2.を読んでみて、あなたはどう思ったのだろうか?。

あれらは理論理屈、ことのイメージたるものを与えるにおいては格好の内容になる。

それなりに、なにか妙なインパクトを読後にはあなたは覚えられたことであろう…。

そうなんだって、真実が一番インパクトたるものを備えているものなのだ。

そして、さらに、本当に理解をもった人間がそれを使う、語るとなるならば期待値は100%と
なるであろう。いや、もし彼がときの情勢たるものその時代に則したものとして変換が巧み
に行いえたらな、場合によってはそれは100%を越えたもとともなり得るであろう…。

そうなんだ100%では足りないんだ。今の世に根付かせることが本当にできないのであれば、
これをやることには意味がない。創意工夫が同じ内容を語るにおいても、やはり必要となって
しまう。だからなのだ。自分が用意されたのは…。

さて、ことの現実においては、そこにある内容を、どう活かせばいいのだろうか?。どうこころに収めればいいのだろうか?。はたして、この陳列者たるものは、やはり以前の賢者らとと同じくして、ただ”座れ”とでも言うのだろうか?…。

実際的にはまさにその通りだ。それしか手はないのだから。だが、この観想の観察の方法は、座るに留まらない。たしかに最初は、一人、締め切った部屋で、静かに座るが課題となる。こころになんの思いも考えも感情も持たないように、それらによっての波風がいっさいたたないよう努力する。静まりきった状態を目指す。その極点においては自分さえもが消え失せしまっているように。眠りに似てあれどこれはまったくまた違う状態なのだ。なにか意識が、それが自ずから立ち現れてきて定まってしまってる。私はそれでありまたそれではない。だが私よりきっとリアルな存在なのであろう…。私は彼に居場所を譲るべく静かに消えゆくままにを努力する。きっとこれには時間が驚くべきほどにいるのであろう…。

またある何かの問いを、その対象をただひたすらに考え続けるってのもある。これは座禅というより瞑想と呼ぶべきの業法。これもそれなりに至り着くべきの境地においては情報の還流がダイレクトにて起こりうる。あのパンニャたるものによって宇宙が直々に解答をよこしてくれる。

この二種において、自分なりに理解を実践において果たす必要がある。
そのときの対象は、両者ともに、自分そのもの。自分たるもののその正体。
後者においてとなれば、全能力をあげて、自分たるものが何者なのかを問うてみるのがいい。

ここで果たされるのは完全に自力での探査になる。誰も助けてくれない。教えてくれない。参考文書もまったく役にたたない。マインド、知性の次元ではもうないんだから。理屈は後回し。ことの改善も必要ない。まずは実相の確認/認知のみにて。疑い得ない某らかを自己の内にて得心する。

ここで重要になのは、すべては、この努力の元に、初めてその姿を顕すってこと。
要は”炙り出し”によって両者は初めてお互いを認識するってこと。
*直接的にでは、ほとんどのものが対象化することが不可能な、そんな様態になってる。
*行こうと努力して初めて後ろで引き止めるものが存在していることが分かるみたいな感じ。
*後頭野の奥深くにて、密かにそれの存在を直感において確信してあるみたいな感じ。
この両者ってのは認知の主体としてあるべきの自分と、その対象のことになる。
対象は多岐に渡ることとなる。それも外のみならず内にても多数。

例えば自分たるものとして疑い得ない存在があって、また人格として保たれてある思考やら感情やらの反射反応として理解されるべきものがある。それらから距離をとってただ眺めるに務める。簡単にはできない。自己同一化するが常習になっているんでね。でもここが面白い不思議なところで長くに取り組むのならば、それに習熟したならば、スペースが保てるようになる。ある種の自由が効くようなる。

まあ〜、ここは二種類の「座る」があるってお話し。

そんで、この座るの世界が第三の世界として育ってきたならば、馴染んできたならば、今度は動きの中においても、つまりは日常の生活においても、同じ色合いにて自己を保つことができるようになる。おっと先のその第三ってのは、第一第二は単に外界と内面のことだから、これらは単に習慣化された反射反応として自己同一化を前提としての世界ってことになる。第三ってのはこの機械的反射においてニュートラの状態を持てるようになるの意味。更にはそのニュートラルにおいての閃きを、連続的に実行に移すことが可能にもなるんだ。ちょっと不自然な発現ではあるのだが…。場合によっては、ことの修羅場なる状況を、治めるのにお役に立つこともある。


さてっと、大体のイメージを語り終えたので、ここからは大切なことを確認しておこう。

何故に貴方は覚醒しようと、目覚めることを目標とするのか?。

この問の解答として正解となるものは、実は限られている。

要はエゴの求めと出立点とする限りにおいては、その努力の果に待つのは精神病院行きでしかないからね〜。そのキチガイをよりこじらせるだけの話しにしかなんない。虚妄としての迷宮に囚われて、そのエゴの要塞たるものをより強固にするだけの話しさ。ことの結果はハスナムとならんとしての第一等の優等候補生となるでしかない。あれだよあれ、引き寄せだの、成功法則だの、幸せになる為だの、より進化するためだとか、いろいろあるよね〜。あれらにいたく関心をお持ちの方々がこの課題たるものを意識されておいでになる…。

「このエゴの求めにおいてであるのなら、もうやってはならない!」。

もし某らかの社会的成功を前提としたものであるならば、ことは背理の極みになってしまうのだらか。戦って征服すべきの、その相手たるものが、主体たるものになってしまう。背理矛盾が引き寄せるのは、それによってなさえることはと言えば、結果、辿り着くが必然となるのが精神異常者としての存在だ。これがあなたの望みなのであろうか?…。

ではどういったヒトがこれにアプローチすべきなのか?。

絶望していること。この世の一切合切に。もう何もかもが嫌になってしまっているひと。

本当の生存としての生き甲斐がなくって、なくなっちゃって、妙な魂の飢えを覚えているヒト。

そのことは金じゃないんだ、女でもないんだ、ましてや名誉たるものでもまったくないんだ…。

だけど、なにか、未だ本当のことが見落とされてしまっているようなって覚えているヒト。

某らか未だ、希望を託するものがきっとこの世にはあるに違いないと信じることができるヒト。

そのことは、きっと老齢になってからではもう始めるには遅いんだろうなっ…。

静中の、そして動中においての観想が、絶対に、必要になる。

その両方あってこその訓練なんだ…。



実は構想としては、エメラルド・タブレットからの引用も持ってるんだ。そんで参考と確認を目的としてこのYou Tubeを見たのさ。そんで思ったのは正しいことを構成としては語っているのだけれども、この女性の解説者たる方がなにも本当には理解してないんだってことがはっきりと分かってしまってたんだ。それで心配になったのさ。彼女の理解は完全に頭においてのみのものになる。だが、その解説の対象たるものは、ヒトの全存在をもってして初めて理解できるってな代物ばかり…。その存在感のなさ、軽きに、すべては虚妄と成り果てているのを感じてしまってた。

それで、少し先持って、警鐘を鳴らせておかねばと思った次第なんです。
これです。
https://www.youtube.com/watch?v=o50AcoWn3mk

内容的には真実を語っているのだが、その意味の解説が余りにも皮相的に過ぎる。結果、嘘を語るに落ちてしまってて、そのことに彼女はまったく気づかれていない…自覚していない…。
三の法則。オクターブの法則。複雑系等の理解を連想として背景にもって観るのがいいと思います。新たなる整理には大変役立つものではあるとは思います。

このことにおいても同じことが言える。実践なくして、災禍たるものの渦中をくぐり抜けることなくして、理解なし。

虎穴に入らずんば虎子を得ず。

ミイラ取りがミイラになる!。…ん〜


え〜っと、いまだ解説編の作成中にありまして、これは本論ではありませんので。

お間違えなさらぬように。

でわ、一旦さいなら~…。崇



Re: 自由、解放、これが人間の目的でなくてはならない!。

自由になる」「何事においても自在に振る舞えるようなる」。その奴隷状態から…「何かに/誰かに依存してある状態に足りる」から解放される/脱出する/離脱する/自立するー。人間が自己の立ち位置たるものの真の状態たるものに少しでも気づけば…、厳然たる意味においての理解たるものがものがそこにおいて及ぶならば、これらこそが、彼が獲得すべきと自覚される魂においおての目標となるであろう!!!。

内面的に、そして対外的にも、奴隷状態たるものに留まっている限りに、
その彼にとっては、隷属を成立させるべくしての環境/世界以外に何もなく、
また、そこに甘んじている限りにおいては、何の可能性もないのだ!。

更に、自己の内面において、人格としてのエゴ達の奴隷である限りにおいては、
外部たる外界においても、何某らかの影響力の奴隷となることからは避けられない。
だから、自由になるためには、人間は先ず内的なる自由を獲得しなければならない。

人間が内的に奴隷状態となっていることの第一の理由は、彼が無知たることにある。
中でも特に、自分自身に関して無知であるが故にだ。

自分自身を知らずして…つまりは、自己の内部にて機能している、諸々の機械群の働きたるものを理解せずにして、人は自由になることも、自分を統御することもできはしないだ。そのことは常に奴隷状態にいるにしかず…。もしくは、彼に働きかける/働きかけ続けている、諸所の影響力の遊び道具としてあるにしかいないのだ。

介入:
ここの文脈おいては、自分が生活するにおいて関わる、世界スケールたるものを思わなければ
ならない。小さな世界、例えばあくまでもプライベートな世界においてとなれば、そりゃ~それなりに、自由自在に物事はこなせているわいさ…。でもある領域(スケール)から一歩踏み出したならば、もうその範囲においては全く思い通りにはいかなくなる。自由はまったく効かなくなってしまっている。もう向こうの影響力に支配力に染まって沿ってあるだけになってしまっている。怖いのはさ~、この事態たるものに気づけやしないってことにある… 。本人はあくまでいつも通りのいつもと変わらぬ俺が俺してるとしか感じていないんだ。ここの簡単な例は雨の日は気が滅入るだとか、警官に職質されたらやっぱめちゃ緊張するわとかでいいと思う。介入終。


これが、あらゆる古代の教えの中で、解放の道を歩み始める者に与えられる第一の要求が、
汝自身を知れ〉であることの理由なのだ!。


Re: 汝自身を知れ。

今から、この言葉において、秘められたるの、背後に横たわってある意味たるものを説明してみよう…。この言葉は普通ソクラテスのものとされている。だが、実際は、それよりずっと古いものになる。かって、多くの古代宗教においての教義大系や秘教スクールにての一般教養として定められていた教えなのだ。しかし、現代のアカデミー達にとっては、この言葉の背後には、なんらかの重要な真理が存在しているであろうことに気がつきはしているのだが、そこにある本当の意味たるもの、そこに秘められたいる真の重要性に関しては、非常に漠とした形としてでしか理解ってはいない。

現代の普通の人間、いや哲学的あるいは科学的な関心をもっている者さえも、〈汝自身を知れ〉というガイダンス(示唆)が、自己の内にある機械群、〈人間機械〉たるものを知ること理解することの必要性を説いているのだということに気づいているものはいないだ。

この機械たるものは、あらゆるすべての人間において、多かれ少なかれ、ほぼ同様となってるのだ。だから何よりもまず、自分たるものの、有機構造体としての各構成要素、各機能、相互の関連性とそこに働く法則性たるものを研究しなければならないのだ。人間機械の中ではすべては緊密につながっており、相互に強く依存しあっている。であるがゆえに、ある1つの機能だけをとりだして、それを研究するのはもともと無理な話なのだ。一つを知るためには、すべてを知らなくてはならない。人間の内のあって働いている、それらすべてを知ることは理解することは可能は可能だが、それには多くの時間と労力が必要となる。(←数十年掛かりでの関心と執念深き努力たるものが、どうしても必要になってくる。←やっぱ選ばれたヒトしかやれんって…。)また何よりも、厳正にして厳密にしてなる観察たるものを行うにおいての方法の適用と、それと同じくして、こと観察されたるものを、如何に、どう解釈すればいいのかにおいても、外部からの適正なる指導が必要になってくる…。

介入:
ここにおいて、エニアグラムにおいての人格タイプ論が前知識として必須になってくる。でも言っといてあげる。禅もしくは瞑想/観想に十分精通しているもの以外が書いた解説は訳にたたないってことを…。もうペテン師クズばっかし…。オスカーイチャーゾはかなり良いのだけれど、彼は自身がおこなった解釈の轍を一切残してくれていない。彼が直覚知を用いて知り得た結論たるものを残してくれているまで。だからあの入門だけで足りるをもって、後は自分自身で努力して理解を深められていくのがいいと思います。必要にしてもう十分。ps.内観は、瞑想、座禅は避けられません。これ抜かすんだったらもうやらないほうがまし…。介入終。

〈汝自身を知れ〉という原理は非常に豊かな内容をもっている。これは第一に、自己を知りたいと思う人は、この求めが何をいったい意味をしているのか、それは自己たるものが何と何に関連しており、いったいどんな外部環境に必然的に依拠しているのか、これらの実際たるものを理解することをその当人おいて要求する。

自己を知ることは非常に大きな、そしてまた非常に曖昧にして遠い目標となる。

介入:
後半の「

…」においては、この行為事態が「直接的に明確なるものとしてありえない」が常なることを意味している。観察がなされるべきの状態、その渦中にあって、その自己の様子を厳密に観察することにはとんでもない努力が必要とされてきてしまうのだ。例えば夢見において、そこに起こっている進展に、「論理的もしくは実際的に不合理である」、もしくは「あり得ないことだ」と疑いをもって夢であることを喝破することには、知性単独、つまりは分離をもってのそれ単体の覚醒たる事態が必要になる。これはなかなかに一般的には為し得ない為し難いことになる。苦しみが間違いなくそこには伴ってくる。特に初期の段階においては!。夢のままに翻弄されて、それを不思議とリアルと覚えてしまっているのがほとんどあろう。要は一種の洞察もしくは直感によってでしか全景の把握たるものはできない。そこにおいてもガイドとしての知性、感情、感覚、本能、運動、性においての区分けをもって、これを全体のフレームとして、アプローチする事以外に確たる成果を上げることは絶対にありえない。要は、言葉や観念等によっての戯言としての理解なんかではないんだ。直接的にではなく、あくまでそれら機能の働きにおける反響や反映に、こちらは特殊な触手を伸ばすにおいてでしか、それらに関しての探査はできない。繰り返しておく、直接的に、それらを対象化して吟味することはできない…。介入終


現状における人間は、自己知から非常にかけ離れている。だから厳密に言えば、彼の目的は自己を知ることであると定義することさえも状況できない…。

よって、自己研究たるものは彼にとって非常に大きな目的であると自覚されなければならない。まずは「自分自身を研究し理解しなければならない」ということが自覚されたならば、もうそれだけで十分だ。正しい方法で自分自身を研究すること、自分たる人間存在を知り始めること、理解を深めていくことが彼の生存においての目的とならなくてはならない。自己研究こそが「自己知」へと至るワーク、あるいは道なのだ…。

人間は夢にひたりきっていきている。その事実を認識しているかどうかは問題ではない。夢見の最中において、もし何らかの現実における印象、音とか声、暖かさ、冷たさ、自分の身体の感覚などが入ってきたとしても、それらの刺激は単に幻想的、主観的イメージを夢の構成においてもたらすだけだ。そして、彼は眠りから覚めて、目を覚ます。それから、いつもの日常の生活へと入る…。

一見すると、この状態にある彼はは全く違った意識状態にあるように見える。たしかに彼は動いたり、他の人と話したり、先のことを予想したり、危険を見てそれを避けたりすることができるようなっている。彼が眠っているときよりも、よい位置にあるのは理の当然だ。しかしだ、もし我々がもう少し深くものごとの中に入ってみて、そしえ真実に基づいて判断することができるならば、もし彼の内的世界を思考や行動の動機を覗きこんでハッキリと判別することができるならば、彼は眠っている時とほとんど同じ状態にいることがわかるだろう。そして、それどころか、もっと始末が悪いことになってしまっているのだ。というのは、眠っているときは受動的で、つまり何もできない、何も実際のいてはしないのだが、もう目覚めて起きている状態ともなれば、彼はいつでも何かを実際にすることができ、また、すべての悪しきもしくは間違った行為の結果は、彼自身に、また、まわりの人々に実際的なる影響を及ぼすことになるからなのだ。

しかもだ、それでも…目覚めの状態にあるとはいっても、彼は自分自身を、彼としての自己たるものを、本当にはなにも覚えてはいない、持ってはいないのだ…。

介入:
既に眠りにあるのではなく、完全に目覚めた日常生活を送るに足りる状態にあったとしても、
彼は未だ夢の中にあるのだと言っている。ここでの自己を覚える、自己想起、真に自分たるものを自覚しているがいったい何をどんな状態を言っているのかが大事になる。とはいっても、真にそれが出来ているヒトなどまずいないのだから、なにか大切な求めるべき状態があるんだよ〜だけでよい。介入終

彼としての発現はあくまで機械的な反射としてのものであり、彼に関するすべてのことは実際は起こっているだけの話でしかないのだ。彼は、まず思考や連想の流れがいったん起こったならばもうこれを止めることができまい。想像力、感情、注意力をコントロールすることもできない。

介入;
ここはなにかの心配事、憂慮すべき事態に臨んでのことを思うのが良い。延々と思考を巡らすこととなる。またそこにはあり得ない想像として展開までもが付け加えられてしまい、結果、よけい心配としての恐怖としての感情が増大することになる。注意は、それは、未だまだあくまでも想像としての事態でしかないのだといった冷静な判断力を持ち込むことでしかない。それらはまた、その時になってから対処すべきことになる。不確かな未来において、あれやこれやの不吉なることにイタズラに気を病むのはバカげた愚かな行いでしかない。注意力は物事を考える上においての極端なる逸脱に対してのブレーキになる。今に確かに現存する障害にのみに、全力をもって、また祈りを携えて奮闘してりゃいいだけって話し。介入終

〈私はAを愛する〉〈私はBを愛さない〉〈私はこれを好む〉〈私はこれを好まない〉〈私はあれを欲する〉〈私はこれを欲しない〉というような主観的なる世界、つまり自分で自分は好むと思っている、自分は好まないと思っている、自分は欲すると思っている、自分は欲しないと思っている、そういった世界に我々人類は住んでいる。

だが、彼は真実の世界を見ていない。知りもしない。真実の世界たるものは、彼の空想の壁によって隠されたままになっている。つまりはだ、彼は眠りの中で生きているだけなのだ。たしかに彼は眠っている。彼にとっての〈明晰な意識〉と呼ばれている状態は実際は眠りとしてのものでしかなく、しかも、それは夜にベッドの中で行う眠りよりもずっとずっと危険な眠りなのだ!。


人類の歴史上におけるいくつかの出来事をとりあげてみよう。例えば戦争だ。
現在も地球上においては戦争にあたる事態たるものが進行している。
このことは何を意味しているのだろう? 
それは、何百万もの眠れる人々が、他の、何百万もの眠りにある人々を殺そうと
しているだけのことなのだ。もし彼らが目覚めてさえいれば、もちろんそんなことは
しはしないであろう。

すべての出来事は、この眠りの状態にあることによるせいなのだ。

意識の2つの状態、すなわち眠りと覚醒状態は共に等しく主観的なものになる。
自己想起たるものが果たされることによって、初めて、人は、真にヒトとして目覚めることが
できるのだ。そのとき、彼にとって、彼を取り巻く一切、森羅万象のすべては、また以前とは違った様相と意味をもちはじめる。彼は、これまでの生が、眠っている状態にあってのものであり、眠りの中の生活でしかなかったことを知る。

人々は言うこと為すこと、それらすべてを、眠りの中で行っているだ。この状態おいてなされることなどには、これっぽっちの価値もない。現実の中では、覚醒と、覚醒に導くものだけが価値をもつのだ。
何度、私はここで、戦争を止めることができるかどうかを聞かれたことだろうか。もちろんそれはできる。だが、そのことの為には、人々が目覚めることだけが必要なのだ。これはなにやらささいなことのようにしか思えんだろう。だが、ことのことは、実際は、ヒトが為しうることの中で、最も難しい行いたるのだ。というのも、この眠りたるものは、この全人類規模にて揃っておちいっている眠りたるものの正体は、地球環境たるものにおけるその全体、社会環境としての全般、ヒトの生存を取り巻くあらゆる条件によって引き起こされ、また維持されているものになるからだ。

   
いかにして目覚めることができるのか? 

   いかにして人はこの眠りから逃れることができるのか? 

これらは、これまでに人間が直面した最も重要な、死活に関わる問題だ。しかし、その前に、
眠りの状態にあるという事実そのものをまず認識する必要がある。しかしこれは、目覚めようと努力することによってでしか、認識することはできないのだ。自分は自己を想起していないこと、また自己を想起するということは、ある程度の目覚めたるものの達成をまず要求してくるものであることを理解し、また同時に、自己を想起することが、いかに困難であるかを経験によって了解するとき、人は単に欲求をもつだけでは目覚めることはできないのだということを悟ることとなる…。

より正確に言えば、「人は一人では目覚めることはできないのだ」と言うことができる。
しかし、もし、例えばだが、20人の人間が、最初に目覚めた者が、他の者を起こすといった取り決めをしておくならば、彼らは既にいくらかの可能性を手にしているわけだ。しかしこれさえも、20人のその全員が同時に眠りに落ちてしまい、それでいて〈自分たちは目覚めているのだ〉などという夢をみんなで見ることもありうるために、十分であるとはいえない。だから、それ以上のものが必要となる。すなわち、眠っていない者、彼らほどたやすく眠りに落ちこまない者、あるいは意識的に(そうすることができ、しかもそれが彼自身にもまわりの者にも害を及ぼさないときに)眠ることのできる者に、自分の世話をしてもらう必要がある。彼らはそんな人間を見つけてきて、そして自らを目覚めさせてもらい、そして再び眠りに落ちこまないようにするために、その彼たるものを雇わなければなるまい。これ以外の方法で目覚めたるものを達成することはできない。これこそヒトはまず理解しなければならない点なのだ…。

介入:
イエスの導きに、聖霊の導きの元にあるならば、その状況たるものは自動的に準備される。すべては眠りから目覚めさせる為に、その目的において整えられてくることとなる。まあ、碌なもんではないのはたしか。でもまあ、それにはそれの意義役割があるって話し。間違ってもグル探しに走らないように。そんな存在は一人たりとて今の日本にはいないだろうからね。老婆心。介入終


一千年の間考え続けること、図書館を満たすほどの本を書くことも、百万の理論を編みだすことも人においては可能だ。しかも、これらはすべて、眠りの中においてで、目覚めたるものの可能性が全くないままのその状態においてでも十分に可能なことになるのだ。それどころか、眠りの中で書かれたり、編み出されした、それらの本や理論は、ただ周りの赤の他人までもを眠りに誘うだけの代物としかならないのだ。

*マルクスの「資本論」とか、昔流行った「なんとなくクリスタル」がいい例。
*昨今で言えば「ファイアー」かな?。読んでないけど風聞でだいたい分かる。
*なんにおいても、より深き眠りに誘い込もうとするものばかりとなってきてる。
*本人らは自覚できたないだろうが、

の奏者ばかり…。


この「眠り」という考えそのものには、目新しいものは何もない。人々はほぼ天地開闢(てんちかいにゃく)以来この方、「お前たちは眠っており、目を覚まさなくてはならない」と言われ続けている。何度この事態においての警告たるものが、例えば福音書等の中で、述べ伝えられてきいることだろうか…。〈目覚めよ〉〈見よ〉〈眠るな〉等々。あのキリストの弟子たちでさえ、キリストにとって生前におけるその最後の時になる、彼がゲッセマネの庭にて祈りを行っているその最中において、眠りへと落ちてしまっていたのだ…。すべてがこの話の中にて表わされてしまっている…。

しかし、人間はこのことを真に理解しているのだろうか? 
「目覚めていてさえ、人はいつも眠りにも等しい状態にある」。

人々は、これを単に言葉の一形式、1つの表現、1つの隠喩と考えてしまう。この事実をその語の十全なる表現通り、文字通りに、受けとらなければならないことを、その必要性たるものを、人々は全く理解していないのだ。

そして事態がそうなってしまうこと、そうなってしまっていること自体の、
その理由も、その原因たるものがなんであるのかもすぐわかる。

つまりはだ…、その事態たるものを、文字通りに理解するには、できるようなるためには!、
少しでもいいいから目覚めているか、もしくは、少なくとも目覚めようとしている、
その努力を積み重ねてきていることこそが必要になるのだ。

これは真面目な話としてなのだが、私は何度か、「なぜ福音書は眠りについて何も語っていないのか?」と聞かれたことがある。ほとんどのページごとに、このことについての言及たるものが為されているにもかかわらずになのだ。

介入:
自分としての考えや思い感情への絶え間ない自己同一化がまさしくそれ。なにか気に入らないことがあって、それがおこったらならば即時即応にて怒りを露わにして表わす。これなんかまさしく眠りの状態にあるヒトの特徴になる。「そうでないヒトなんて一人もこの世にてはいないんだけどねーっ!」。「こころの頑なるが故に…」等、イエスが人の世において糾弾されるそのすべての様子はヒトが恒常的に落ちている眠りたるものに起因しているのが実相。「見ても見ず、聞いても理解せず、また悟りたる事態を迎えることもできない」「あなたがたは聞くには聞くが、決して悟らない。見るには見るが、決して認めない。 この民の心は鈍くなり、その耳は聞えにくく、その目は閉じている。それは、彼らが目で見ず、耳で聞かず、心で悟らず、悔い改めていやされる癒やされることがないためである」「…御言を聞くには聞くが、

その御言を塞いでしまうのだ。」マタイ14章より
介入終。

この事態たるやは、人々が福音書を眠りながらにして読んでいることをはっきりと指し示している。深く眠りながらに、夢にひたりきっている、その限りにおいては、自分が眠っているのだという事実には思い及ぶことはまずできない。もし自分が眠っているのだということを自覚できたなら、きっと人間は目覚めることとなろう…。これがヒトにおける、今の現状なのだ。

人間は、この眠りたるものの為に、自分がいかほどのものを失ってしまっているか?、
そのことが全然わかっていない…。

すでに言ったように、人間は現在の身体のままで、つまりは自然につくられたそのままの状態にて、

な存在でありうる。人間はそのようにしてつくられ、またそのようにてで生まれてくるのだ。ところがだ!、人間は

生まれ落ちてきてしまっており、そこで、その環境においては、当然、自分自身を意識し始めるべくしての、まさにその重要な季節おいて、彼らの間にて、彼らと同じくして、眠り込んでしまうようなるのだ。

介入:
自己意識的な存在:真の自己たる本質をしっかりとまだ意識できている。要は未だ健全なる良心たるものが声を発することができている。天真爛漫なるがそれの特徴。ところがだ、この社会にて生きてゆくためには?!ということで親とか学校で下手な教育がなされてしまうことになる。自分なんかの幼き頃は。とにかくいい大学に入れるよう勉強しなさいだったな。今もそうか。ところがだ、やがてには自分の関心は受験勉強とはまったく関係のない領域に向かっていってしまうこととなった。これがよかったことなのか、過ちであったのかは、簡単には判断はつけられないと思う。もしそうしていたならば、こんな創作活動は絶対にやっていなかったと思う。場合によってはクリスチャンにもなっていなかったかもしれない...。介入終。

例えば、子供の年上の人たちに対する無意識的模倣、意識的・無意識的暗示、〈教育〉と呼ばれているものなど、すべてがこれに手をかしている。目覚めようとする子供のあらゆる試みはたちまち中断される。それは当然な話なのだ。そして眠りを誘う無数の習癖や習慣が蓄積されてしまったその後では、目覚めるためには莫大な努力と多大の援助が必要となってしまっている。なので、大人と呼べる年齢に至ったあとともなれば、目覚めは、めったにもう実現することはありえないようなってしまっているのだ。ほとんどの場合、人間は子供のときすでに、既に目覚める可能性を失い、そしてその後は眠ったままに生を送り、そして最後には眠ったままで死ぬのだ。しかも、多くの人が、肉体における生理的な死を迎えるそのはるか以前に死んでしまうのだ。しかし、それはまた後で話そう…。*(本質としての、良心が保たれてある領域がもう不活性になってしまうようなるのだ。)

さて、以前に君たちに指摘したあることを思い出して欲しい…。

私が、その語の十全な意味において、ある人物のことを、「人間である」と認める場合には、その人間は、完全に発達したることの証しとして、4つの意識の状態を所有していることになる。普通の人間、つまり人間第一番、第二番、第三番においては、2つの意識の状態の中で生きているにすぎない…。

介入:
自分において拠点となっているセンター(頭/腹/感情のいずれか)と、それにとって相性がいい残り二つの内のどちらか。これは何において決定されるのかは分からない。あと残りのセンターは何故にか

にされて、ほったらかしにされた状態に留まってしまってる。発達の遅れた子を子供は嫌うじゃんそれとよくにた構図。。もしくは「三人いれば一人はあぶれる」ってのも広く遍く世間いおては散見されること。どうしてもこうなってしまうってことには意識をおくべきことかと…。ことはなにかの転写によっての偏向なのかもしれない。その見捨てられているネグレクトにあっているセンターもこれはこれで、条件が整えばその発現を行うこともあるので、そのときには絶対に見逃さないよう。それとしての自分もしっかりと生きなくちゃならない。それも愛情かけて育てれば見違えるようになるのだから…。例えば、タイプ4なんかの場合は、本能的反射の領域がおろそかにされている。要は、低俗低級他愛もない会話も他人と仲良くなるためには出来なくちゃならない。楽しめなきゃならない。必要なんだ。それが単なる定形的にして単純な言葉のやりとりでしかなかったって…。原始的なコミュニケーションってのも大切なんだ。介入終。

彼は意識の第四の状態が存在するということをもう体験において既に知っているか、
少なくとも知ることはできる。

よく〈神秘的状態〉等々として語られる、その個人においての体験は、大概はこの語をもって表現するのは誤りとなるのだが、もし、その体験が嘘偽りごまかし迷妄勘違いでないとするならば、ことは我々が「意識の客観状態」と呼ぶものにおいての、その状態においての”閃き”のことになる。

介入:
この閃きの語の選択は正解だ。彼がGがその体験をもっていることの証になる。その状態において認識は一瞬なのだ。稲妻の如き速さで認知は整ってしまう。あ〜たらこ〜たら思念を巡らせる必要は一切ない。直覚知にて対象に関しての認識を即時即応にて手に入れることとなる。介入終。


しかし人間はこの意識の第三の状態を知らず、想像だにもしない。もしくは想像すること事態ができないのだ。というのも、もし彼に意識の第三の状態とは何か、それがいかなるものであるかを説明できたとしても、彼はそれは自分の普通の状態だと言うであろうからだ…。

介入:
意識の第三の状態とは理論的には「三つのセンターが協調的にてまた調和的に機能していてこそ初めて出現することができる私としての意識の状態」となる。でもこれはあくまでも理論としての説明であり実際は違う。…でも道筋としては誰一人欠けることなく、すべてが調和的に発達する、協調的に関与を互いに適宜果たす、果たせるようになる中で、何かを成し遂げることが実際的に必要になるのでこうした説明になっているまで。なんにおいても「百聞は一見にしかず」なのだ。経験の最中に色々学ぶことができるし、実際に試すこともまたできるのだから。いろいろ面倒くさいことがあって、その軋轢の吹き溜まりみたいな場たるものにおて、その渦中においての必死の努力の結果として、なにか自分として未知なる自分が、立ち現れてくるんだ。この存在が鍵。これが霊知の源泉と接続できるみたいなんだ。そのラインにおいてどうしたものか認知たるものが立ち現れてくることになるんあ。あのパンニャ般若のことでもある。源泉とはこの宇宙そのものなんだろね。介入終。

彼は自分を、自己の人生を統御している「意識的人間」だと考えているのだ。これに反する事実たるものは、みな偶発的なもの、もしくは偶然としてのものでしかなく、ことは一時的なことにて、またイレギュラーな事態だと見做すのが常の有様だ。そういった不都合としての内容は、ひとりでに、勝手に、やがてには然るべくの状態へと、じきに変わって、落ち着いていくであろうなどと考えている。そう思って、さしたる注意を持つこともない…。*(あのマハラジとの会話、No.49「マインドが原因」その②における質問者のことが思い起こされる。)自分は「自己意識」たるものを確実に所有しているだと考えているのであれば、当然のことながら、それに近づこうとか、手に入れようとかの思いに至ることはないであろう。

介入:
この「自己意識」という概念そのものが誤解を呼ぶものなのだ。Self-Consciousness とか self-awareness を和訳したしたものになる。ここでの Self には二種類の意味がある。一つは人格としての私。そしてもう一つは本質としての私になる。ほぼ100%明確なる私としての意識は人格においてのものになる。でもこれは別名エゴと呼ばれるもので、また群体として幾つもの顔を持つものになる。外界との自己を利するの目的においての反応性の洗練にのみ特化してできてきている。要はそれにおいては本質は考慮の思慮の対象にはならない。本質における感受における反応を、なにやら曖昧なるままにエコーみたいなものとして受けとるまで。端的に言えば、良心たるものの働きは社会生活においては邪魔なものでしかない。でもここでの「自己意識」とは、この人格よってはネグレクトに会いやすい「良心たるものを宿す本質」としての自己のことになる。それはそれで独立したものとして、真に自分たるものとしての意識を持つことは可能は可能なのだ。*先走って一つの重要なる真実をここで語っておくならば、人格としての自己を冷徹に対象化する、つまりは座禅においてになるのだが、これとの絶え間ない自己同一化から逃れる努力を行うことによってでしかこの「真に私なるもの」を見出すことはできない。そう。これは不思議なことなのだ…。それを対象化して絶対に相手にしないを徹底することによって、結果として何かが姿を顕すこととなる。とある「こころのステート」たるものに至ることが可能になる。大事なことはそれを手に入れようとしてはいけないんだ…。それは既に最初からあるのだから。座ったならば、雑念煩悩としての念がほっといても湧いて出てくることになる。これらと同一化しないでおれるよう努力するだけでいい。ことはそれなりの特殊な力量たるものが必要とされてくる。これもまた実践において培うしかないものなのだ。やがてには距離をおくことができるようになる。これも誤った表現になるのだけれど…。簡単には染まらなくなる。ならばだ、ではこちらは今何であるのか?。人格としてのエゴとしての想念たるものを他人の如くにして眺めて感じて抵抗してしているこちらとしての今の自分とは何なのであろうか?。それこそが真の私としてのものになる。間違っても戦いたるものもない眠りに落ち込んで一切を無駄にされないように!。介入終。

しかもこの「自己意識」、すなわち第三の状態なしでは、まれなひらめきを除いて、第四の状態を得ることはまず不可能だ。しかしながら、知識、つまり人間がそれに向かって奮闘していると自ら主張する真の客観的なる知識とは、意識の第四の状態においてでしか得られないものになる。つまり、それは、意識の第四の状態の完全な所有を条件としているのだ。

通常の意識の状態で、獲得された知識においては、夢と現実が、見当違いの思い込みと真実が、こちゃまぜの状態になってしまっているのだ。この事実において君たちは人間第一番、第二番、第三番の生存においてのありようの完全なイメージを持つことができるであろう。

*現象学のタームでいけば、意味沈殿のことになる。
 これによって真実への道は閉ざされてしまっているのだ。
*個人的な志向/嗜好によって、そのエゴとしての主観において、
 ことは大いなる偏向をもって消化されてしまうまで。
*結果、共有化の道も当然な話し、閉ざされてしまうし、
 そこにある貴重な真実の意味までもが取り残されたままにされてしまうこととなる。

G:人間の可能性は非常に大きなものなのだ。君たちは人間が何を得ることができるのか、その影さえも掴むことはできない。いずれにせよ、眠っていては何も手に入れることはできない。眠っている人間の意識の中では、彼自身に関しての幻想や〈夢〉これは外に向けての投影でしかないのだが、客観的な意味においての現実と混ざりあってしまっている。彼は主観的な世界にのみ住んでおり、そこから逃れることは絶対にできない。そのために自分の所有している力を全部出しきることができず、またそれゆえに自分の全体のごく一部でしか生きられないのだ。

介入:
人間の可能性とは、生存期間中における然るべくしてのその修練の賜物ってことになる。一番二番三番とは生来的に定められてある基本の状態。始まりの状態としてかってに自然に収まってある状態。成長においてこのフォーメーションにおける強みを社会を生きる中で強化してゆく。だが、ある時点からは、このフォーメーションにおいての優位性が祟ってくることになる。それは人生のドラマとして自然とその窮地となるべくの状況は準備される。行き詰まりや、得体のしれない焦燥感、喪失感みたいなものとして現れてくる場合もある。とにかく物事がうまくいかなくってしまっていると、以前の様にではまったくなくなっていると、覚える時節が間違いなく訪れるようになる。そこに求められているのは、自身の内にて捨て置かれている領域を、その霊的中枢を、自己の生存において導入することに他ならない。それはまだ幼いただただみすぼらしいだけの精神薄弱児たるものを引き取らざる得ないみたいなシチュエーションだ。あなたはどうしても彼を好みことはできない。ずっと以前にそう思って長年かけて嫌ってきているのだから。そう簡単に良好な関係を結ぶなんてことできっこない。最初はいたく素朴にして簡単なコミュニケーションしかできないさ。それはまるで野生の中で育った自然児みたいなものなのだから…。もしかしたら、まずはそいつを育てることから始めなければならないのかもしれない。あなたが男性であった場合は、どうして育てれば良いのか皆目検討がつかないかもしれない。それは好意を思いやりを愛をもって接すべきの感情になるのかもしれない。もしくはハツラツとした動きを運動性をもって意識すべきの反射性運動神経肉体の躍動としての総体なのかもしれない、そしてもしくは物事の由来、その原因と結果を認識するをもって事態を把握するに務める知的労働になるのかもしれない。例えば、あなたは、水道の蛇口から水が出て、それをグラスに注いて飲めることをどう思うだろうか?。雨が降って水が溜まって川となって、浄水場にて浄化されて、水道管を圧力をもって走らせて、そんで蛇口っていうバルブをもって初めてことは成り立つのだ。そこには幾つの人によっての考案があることだろう?。すべては一足飛びにて生まれてきて備わったわけではない。やはりそこには誰かの血の滲むような努力があったればこそなのだ。場合によっては金儲けが動機ではなかった場合もある。また水源地から水を引くパイプを土中に敷設するのに、どれほどまでの人力とエネルギーが費やされたことだろうか?。そうした出来事があったればこそ、今我々は水を求めたらならばいつでも飲むことができるのだ。ただ神に感謝するだけではまったく全然たりないのだ。洗濯機や冷蔵庫、テレビ・ラジオにも同じくして思いを馳せてみるべきだ。この作業には三つのセンターを関与させることができる。そうしてこそ先人に対しての感謝の念も湧くことになろう。物理的な運動に関してては運動センターにおいてのイメージ提供も大切になる。閑話休題。三つのセンターの協働的にして調和的な発現が人間が獲得すべき機能なのだ。不思議なことにこれは勝手に自然にでは整うことはない。その個人においての自主的な努力の結果として初めて手に入るよう設計されている。更に不思議なことになるのは、これこそが真の目的になるのだが、♪「三つのこころが一つになれ~へばー、一つの正義は~、百万パワーだーーー」(ゲッターロボ歌詞)介入終。




以前に、自己研究と自己観察を正しく行えば、普通の状態における自分の機械と、その機能は「どこかおかしい」との認識をせずにはおれないであろうと言った。

介入:
端的には、不合理である、理性的な行為ではない選択を、正しい賢明なるものとして行ってしまっている。後で、このことは結果においてハッキリするのだが、このことをなかなかに認められない。なにかイレギュラーなことであるとして片付けてしまっている。結果、この習慣は変わらないままに以降も残る。これは各領域における綿密なる連携がとれていないから。また、真の主としての「司令官」が不在であるがためかも?!。外界からの移り変わりの激しい各個の要性に対して、柔軟なる対応を、適切なる受け答えを、自分ができないであることに尽きる。各領域においての適宜適用な関与というものが実は欠けている。為されていない。バランスがとれていない調和が欠けていることの実態を表している。場合によっては、実際の、現場のニーズには答えられないほどまでに、とある領域が、未発達、幼稚、非力のままにあるのかもしれない…。自分の思い通りに、体が/こころが頭が/働いてくれない…。結局、とどのつまりは、物事が自分が思うどおりに、まったく期待通りにいってくれないことに落ち着くばかり。そこに過剰な怒りとしての反応を起こしてしまって、誰かなにかにその責任をなすりつけるべくの想念が紡がれる。←これはまったくのお門違いとしての妄想とでしかありえない。介入終。

人は、自分の全体のごく一部でしか生きられず、生きておらず、また全体として働けないのは、まさにこの「眠りにあるが」ためだということを自覚する(悟る。直感理解する)。彼の可能性の大部分が開発されないままに取り残されてしまっており、彼の力の大部分が使われないままであるのは、この「起きて尚、未だ眠りの状態にしかあらずにも関わらず、このことに気づいていないがため」なのだ。人は、人生が与えてくれるもの、その全部を受けとってはいない。つまりは、彼の機械の受信装置における、明らかな機能的なる欠陥、もしくは誤作動が常であるのために、そうあることできない、そうできていないのだと感じている…。

介入:
某らかの制約が働いているために〜、ヒトとしての十全なる発現が為されていないといった考えは常なるものだ。「ヒトは脳のほん一部しか使っていない」だとかの言葉も聞いたことがあるはずだ。そして、某らかの制約があるせいで、人類は不幸なのだと…。このことは根本から間違っている!。大体がだ「誰がこんなややこしい七面倒臭い思いを考えを持つのだ?」。たぶん大人になってしまった誰か頭の良いやつなのだろうな〜…。もしくは、誰かのこの手の発信を読むか聞くかして洗脳されてだ、影響されて、「たしかにたしかに…」などと妙に納得してしまっているか…。ことの現実、その原因の実際を語るならば本源的なる状態から、つまりは自然な成長としての有り姿から大人になる過程において”いたく”外れてしまうことになってしまうからだ。繭化/蛹化に至ったまま、そこで停滞してしまっているからだ!。ヒトの社会は人工的なるものだ。たとえそこで覇者と強者となり得たとしても、それはヒトの世においての尺度に限っての、その内においての話しでしかない。そのヒトの世をも包含する宇宙の理として観るならば、そこには「

」としての認識しかありえないのだ。我々ヒトも自然の大宇宙のその構成要素の一つともなれば、そちら側、より大いなるものにおいての目的/理/方針に従う、奉仕するものでなくばフードバックは間違いなく途絶えることとなる。先細ることになるのは火を見るより明らかなこと。当然でしょう?!。

*昨今のオワコンのオンパレードに関しては気づくべきことが絶対にあるはずだ...。

十全なる成長、調和的な発展は、人工的なヒトの主観的な価値観においてでは絶対に為し得ない。はっきりヒトのエゴにおいての求めにおいては為し得ないといってしまおう。その努力は「鎧たるもの」を更に厚く分厚くするまでのこと。そのことの結果としていろんな感性が失われてゆくのだ。こころ頑ななるままにで硬直してしまうのだ。そして終末期には、つまりは老人と成り果てたその暁には、もう自動的な反射としての総体、それの巣窟としかありえなくなってしまうようなる…。介入終。

「自己を」「自分自身を」研究するという考えは彼の心の中で新しい意味を獲得する。今のままの自分を研究しても無意味かもしれないとも感じる。彼は自己の内にて働くすべての機能を、今あるがままに、そして起こりゆくままに、またありうる姿として、あるいは、あるべき姿として見ることとなる。自己観察という行為は、それを行う人間に、自己変革/改革の必要性、その自覚へと導くこととなる。そして、自己を観察する間に、自己観察という行為そのものが、既に彼の内的プロセスにおいて一定の変化をもたらしていることに気づく。そうして、そうあってこそ、自己観察は、自己を厳密に知ると言う行為は、自己変革の為の業法であり、覚醒への唯一の手段であることを理解し始めるのだ…。

介入:*ここの介入は長い。
ヒトとしての大人とは、成人とは、それは既に習慣としての塊としてのものしかない…。長きに渡って無自覚に慣れ親しんできた情報に対しての自動反射。積み重ねてきたるの、そして習熟してしまっている決まりごとと成り果てたる行動の選択。既知として、自らが好むところのその情動の反復を志向しての行動パターンの総計。大人になったれば、それはもう単一にして平板なる発現ではないんだ。自己の内にて存在する幾層ものあれやこれやの連携において、それらの相互関係においてこそ初めて機能する複雑な発現となっているのだから…。

少し話しは外れるかもしれないが、私達が大人になる過程において身につける知識や常識といったものには、それらには実は根拠がないんだ。

このことのおいての例を上げるならば、かっての常識としては天動説が当たり前だったのだ。これに異を唱えることは死罪にあたいしてた。また、学校で習う世界最古としての四大文明においては、トルコのギョベクリ・テペや日本の縄文文化における遺跡の年代測定をもってすれば、それらは決して最古ではないことははっきりしている。もっと身近な例を持ち出すならば、”国”っていう概念そのものがもう既にそうなんだ。あなたご自身で考えてみればいい。「私が生きて暮らしているこの日本って国はいったいなに?」。たぶん、雰囲気、感覚としてでしかこの語の意味は把握されていないであろう…。また現代においてはならば、いくつかの日本の大企業にとっては、既に国境なんてものに縛られないまでのものとして、その組織は巨大化してしまってる…。上位存在としての地位を獲得してしまっている!。もっと身近な卑近な例をあげるなら、愛とは?宗教とは?神とは?結婚とは?サインコサインタンジェントとは?微分積分とは?。学校で習ったこと、受験勉強で必死に記憶したこと、それらは所詮は耳学問にすぎない。そうしたものにおいては本当は何一つ真に理解はできてはいないんだ。その時代/その時節において、社会一般にて共有される流通する分化コードたるものに沿って、なんとなしに順応して身に付けてきたものに過ぎない。まあ~言いたいことはだ、何一つとして確かな理解ってやつを持っているやつなんて一人もいないってことなんだ。み~んな、なんとなしに分かっている、分かった気になっているだけの話でしかない!。

愛、男女同権、差別のない社会、エコな経済、持続可能な社会、経済格差のない社会、戦争のない世界。これらは言葉で謳われている理念になる。だが言葉をもって語られるもの、唱えられるものは所詮は観念に過ぎない。この観念たるものが抱かれる為には、本来的には、某らかの実体験があってこそ。その体験の渦中において、もしくはその事後の感慨として、何か大切なことがが把握されているからであってこそ!。このことだけは、絶対に忘れてはならない。

『愛』を知らないもの、行ったことがないものが、これについてを語ってはならないんだ。だってそれについてを本当のところは知らないのだから。だから歌詞にして歌っているいるヤツは夢うつつにてそれを喚いているだけのことなんだ。白痴の精神異常者、よくてピエロにしか思えないんだ…。

その実体たるものを同じくして知ることのない限り、その観念たるものを知ったとてなんの意味もない。ここで先の国だとか愛とか宗教とか神とか結婚だとかを思う出して欲しい。あなたは日本と言う国を真に理解しているだろうか?。もしくはキリストについてを、彼が真実居たのか?そしていったい何をしたのか?についてをちゃんと確信と理解を持っているのだろうか?。すべてが雰囲気、ムード、なんとなしに、それとなく、世間一般において語られている程度には…。常識程度にはちゃんと知っているのオンパレード。思い込みとしての、その風聞を通して知ったるのことまで。それらにおいての理解だけ。

すべての認識が、頭の中における知識が、こういった形のみで、出来上がっているのが現代の人間。それの特徴になる。記号としての観念がすべてなんだ。そのことの結果として実体としての世界たるものを誰もが皆、遠に見失ってしまっているんだってことが分からないでいる。その存在は既に容赦できぬまでの軽さ、軽薄さとなっている…。訳わからないままにああやこうや言ってるまで。
これはそのことのいい例になる。彼は国民のことをあくまでムードとして理解しているまで。自身が所属する自民党が安定政権であること、彼が総理大臣であり続けることにしか頭はない。*ここに関しては2Fにおける第27話「対外的処世プログラム人格」ってやつを改めて参照してやってもらいたい…。

ここに一つの脱出の手段がある。それは個人においてのみ適う方法となる。だから、もし脱出が本当にあなたにおいて適ったとしても、そのことは社会的には、あたな以外の誰からも評価はされない。されることはない。なんにも得られやしない。いや、むしろ、何故か、厭わしく思われるようになるのが関の山!。だって既にあたなはこの社会の平均からすれば、異分子としてのその立ち位置になってしまったのだから。もう誰からも理解されることはない。特異なる感化を周囲に与える存在となったとしても。そうなってしまったことの原因をその理由をその正体を隠して秘匿して生きなければならなくなる。

閑話休題。お話しを本文において戻そう…。
もし、あなたがここまでの内容を読んで、まっとうに、まともにそこにある真実に衝撃を受けたなら、このことが起こらない、起こるはずのないことは百も承知なのだが、万が一にもそういった純粋にして純朴なる認知を抱くことが適ったならば、一つの道があることを教えておこう。それは真実たるものに、改めて、一から、アプローチを行うこと。自己の十全なる認識において、こればっかしは絶対に疑うことにできないってことを積み重ねてゆくんだ。

いやいや、そうして今自分が持つ知識は積み重ねてきたものだって言うかも知れない。でもそれらは環境からの要請において獲得したものに過ぎないんだ。無自覚にして無意識的な模倣ってやつでしかない。だから一旦それらは棚上げしておくの。そんで、別ポケットに、新たに慎重な吟味をもて選り分けて獲得した認知/知見を収納してゆくのさ。

そして、ここからが肝心な話しになるのだが、その知識/知見たるものを獲得するその対象たるのが自分自身になる。意外なことにこれに関しての理解はあまり為されてきてはいないはずなんだ。あるがままの、自然な反応としてのその様子は知ってはいるさ。でも、それらは外部からのなんらかの刺激において機械的な反応として起こっているに過ぎない。もしくは動物としての本能領域からのコマンドにおいて”Urge(アージ)”されてのことでしかない。だから、そこにある起こっている反応の反映として、いろんな感情や感覚を興奮を持つことがあったとて、それらの背景に関しては天で知らぬままなさ。自制心やら理性ってやつだって社会的な制裁を暗に恐れての、それらにおいての回避行動が習慣になっているからでしかない。それも多くは無意識に。だから理性やら良心ってやつは仄かな反映としてでしかその役割を担っていはいないんだ。ならばだ、自分の存在たるもの、その価値たるものがどうもなにやら不確かになってきてしまうようには感じないだろうか?。このことはしかと確かめられなければならない。

なにせ自分のことなのだから真剣にもなるわいさ。そしてことここにおいては誤魔化しはしずらくなる。やるやつぁ〜やるけどね…。

方法はいたって簡単だ。ただ静かに座るだけ。ただし、その頭の中も静かにしなきゃならない。一旦、これに取り組んだならば、決してそうはならないことを骨身に染みて知ることになる。だって思念思考が止むことがないからさ。次から次へと立ち現れて湧いて出てくる。止めようとしても、止まるのはただの一瞬だけのこと。ものの数秒もすればまた他のことを考え出している。

考えるの中身は、なになにが気になる、嫌気が既に差し始めている、じっとしているのがキツイとかかも知れない。結局、全然静まらない。延々と想念が駆け巡る。そしてやがてには何やら眠くもなってきたぞと。この努力おけるその渦中においての眠りへの誘いは(こば)みがたき側面がある。本質が目覚めていない限りにおいては、もうどうしようもないんだ…。

真実なる確実なるをもって、これを核として、結晶化を果たすんだ。
ことはそのまま本質と人格の分離となって現れてくることになる。
その結晶が大きくなったればね。介入終。

By observing himself he throws, as it were, a ray of light onto his inner processes
which have hitherto worked in complete darkness.
自己を観察することによって、彼はそれまで完全に暗闇の中で進行していた
彼の内的プロセスにおいて、いわば光を投げかけることになる。
And under the influence of this chemical processes that
can take place only in the absence of light.
そして、この化学的プロセスによる然るべくしての結果は、
光が不在の場合においてのみ起こりうるものなのだ。
Exactly in the same way many psychic processes can take place only in the dark.
それとまさしく同様にして、暗黒の中においてでしか生じない、
多くの心因性のプロセスもあるのだ。
Even feeble light of consciousness is enough to change completely the character of a process,
while it makes many of them altogether impossible.
意識による本僅かな光でさえ、プロセスの性質を完全に変えてしまうのに十分で、
同時に、多くのプロセス(の進行)を完全に不可能としてしまうのだ。
Our inner psychic processes (our inner alchemy) have much in common with those chemical process in which light changes the character of the process and they are subject to analogous laws.
我々の内面における心因的なるプロセス(我々の内的錬金術)は、光がプロセスそのものの性質を変えてしまう、あれらの化学的プロセスと多くの共通点をもっており、
そしてまた、類似した法則に従っているのだ。





介入:
さて、ここなのだ…。この部分を抜粋して、今回の稿において”導入”として使いたかったまで。でもできるだけ全部サービスとしてやっちゃえってことになったのだ!。

ここでの化学反応のプロセスは写真の現像のことを念頭においているのだと思う。

ことは似ているんだってー!。

何がだ?。

写真は暗室におけるフィルムのケミカル処理を経て画像を出現させる。
要は記憶であり記録の喩えとして念頭におかれている。
この記憶に基づいて自分の行動原理たるものはかって形作られた。
良きものもあったであろうし、悪しきもの、余り感心しないものもあったであろう…。
要は習慣の奴隷と成り果てている状態から離脱せねばならないのだ。

今のままの暗闇にて進む記憶の堆積蓄積のままでは、そこにある習慣はより強固なものとしてなってゆくばかりとしかならない。(その行動によって得られる満足たるものには遠に飽いてしまっているのにね!)

ここに”光”たる現像プロセスのすべてを台無しにしてしまう要素があえてをもって登場してくる。これって何の喩え?。意識の光もて、自身の内部においてのことの起こりの一切を見つめること…。自分の中のことだから自分にしか認識できない。観えない。感じられない。

このことによって何が起こるのかと言うと、内部における自動性が阻害されしまうようなる。
そこにある習慣性に対しての異化作用として働くこととなる。
このことにおいての特異なることは…。

距離をおける。場合によってはついぞ行ったことなどないブレーキを踏むことができるようなる。そこにある機械的なる、仕組みたるものに対しての認識が働く。そしてこれもまた別種の記憶としてデータとして蓄積が適うようなる。この視座における情報の収集蓄積は長きにわたるこれまでの人生においてはやってきてはいないものなのだ。坐法におてのみ、瞑想においてのみ入手することがかのうになのだから。そして最期にこれが最も重要なことになるのだが、内部内面におけるあれやこれやを認識する主体たるものが、この行為によって初めて屹立してくることになる。これこそがあなたの本体と呼ぶべきものになる。これは努力としての観察行為によってでしか浮かび上がってくることはないんだ。ことの渦中の奮闘において逆照射としてその存在を顕してくるものになる。自分なんだから自分がそのまま対象として観れない感知できないってことは分かってもらえるだろうか?…。

この業法のありがたいところは、この本体たるものとして在るに留まるならば、本当には自分ではないものたちが分離をしていってくれるってところにある。段々と距離が持てるようになる。そして、おいそれとはそれらが好き放題できなくなってゆくんだ。ブレーキが効くようになるのだから。元は渾然一体となっていたものが、明確なる対象化の眼差しにおいての線引が適うようなる。時間をかければ、それは嫌んなるほどの長きの奮闘を積み重ねてゆくならばになるのだが、いろんなことが同時進行として分かるようなってゆく。

手に入るのは、真に自己たるものとしての存在。それを良からぬ方向へと引っ張ってゆこうとする人格を構成するところの習慣としてのエゴ達に関して。それはまさしく「粘着縛着するもの」との形容がふさわしい憑依体なのだ。自分が背負う罪深さたるものの現実をそこに観ることになるであろう…。

もう一つメリットたるものを最期にお伝えしておこう。自分に対しての理解の深まりは、そのまま周りの関係する人々に対しての理解力の増強ともなってゆく…。介入終。

人が自己研究や自己観察の必要性だけでなく、自己を変革するという目的をもって、自己に働きかける必要性を自覚するようになると、自己観察の性質は、それまでのものとは変わらずにはいられない。彼はそれまでに、あれこれの現象を心に留めて、公平な目撃者であろうとしながら、各センターの働きの詳細を研究しただけだ。彼は機械の働きを研究してきただけなのだ。
だが今や彼は自分自身を、そのものを見始めなければならならない。
つまりは、個々の細部ではなく、また、小さな歯車や、てこの働きではなく、
他人があなたを見るように、自分の全体を総体的に、また客観的に見なければならないのだ。

*バラバラのピースを集める。
*それら一つ一つも興味深いものであった意外なるものであったはず。
*それらを忘れずに記憶に保持しておかなければならない。
*ある程度、集められてくると、集まってくると、
 それらのピースの全部が、また一枚の大きな絵を描き出してくれることに気づく。


そのためには、一生涯における、様々な時点や、異なった感情状態における自分自身の、いわゆる〈心理的写真〉を、しかも細部の写真ではなく、今言ったような全体の写真を撮れるようにならなければいけない。つまり、この写真は、ある瞬間に人が、自分自身の中に見る/観る/診ることのできるすべてを、同時に写しとっていなければならないのだ。すなわち感情、気分、思考、感覚、姿勢、動作、声の調子、顔の表情等々を…。

写真を撮る絶好の瞬間をつかめるようになりさえすれば、すぐにも、自己の輪郭全体を映しだすアルバムができ、これを総合的に見れば自分が何者であるのか、どんな人間として周りには観られているのかが、はっきりとわかることだろう。

しかし、最も興味深くて独自の瞬間をいかにして写すか、独特な姿勢や顔の表情、あるいは独特な感情や思考をいかにしてとらえるかは、簡単には習得できない。写真がうまく撮れ、十分な数になれば、周りの人々が、自分を普通どんなふうに自分自身を見ているか、つまりは何年何十年となじんできた自分自身が自分に対して考えてきたその見方が、いかに現実とはかけ離れているのかを納得することだろう…。

*ことの本質、真実が如実に表出されてくるのは、

としてのもの。
 火事場におけるその渦中が、最高にして絶対の観察すべき機会になる。
*このときに自分を客観的に観察できるか、ことを写し取れるかは難事になる。
*やはり目覚めをある程度達成していないと無理...。

介入:ここは本当の写真、絵、第三者から見るビジュアルとしての自分の姿ではない。そんなもんは鏡の前で確認すればいい。内において、何と何が、何の要素と何の反応が関連しているかの具体的な確認作業になる。すべては連結して外部に向けての発現となっている。端折ってアドバイスしておくと、エニアグラムにおける人格論を自分に関してのみを手がかりとして持っておくのがいい。時間を節約してくれるのと、見方の学習にもなるので。人格論はこの言葉の通り、人格としての外界への対応パターン、もしくは外界の認識パターンになる。人格たるものにおいては事前に型たるものによる制約が定めとなっているのだ。本質の表出においてはこれには型はない。また洗練もありえない。それは最初から天然なのだから。w。まっとにかく意外なことにヒトのマインドたるものには生来的に型に嵌った形でしか外界とのやり取りはできないんだ。詳細は先の本に譲るとして、結果、自分の反応がその生存戦略が何に基づいているのか?この知識において実地にこれまれの人生の記憶で印象に残っているものを検分するのさ。っと同時に、自己の内において感情や知性や本能肉体の個別の活動を分別しておくんだ。これって意外と分かってないから…。いまここで自分がアドバイスしたことは、まず教本において自分の人格タイプの傾向性、その型たるものを知性において確認しておく。そして、日常生活において自分の三つのセンターの具体的な感触を確認しておく。これは対象とはまた別のセンターからである必要があるのだが、とりあえずは頭で感情だ、肉体だ、本能的なる欲求だとかやってればいい。頭の融通の効かなさ平板さに関しては感情センターからの憤懣侮蔑突出において観る必要があるのだが…。まっ、とにかく、自分に関してをよく知るようなるならば、自分の習慣、気性、その癖を知るならば、そこに蓄積されてある情報から絵として統合することも可能になる。まっ言ってしまえば、えらく生々しい写真、生きている三次元映像として察知することもできるようになる。終。


彼は、自分はこうだと思っていた人間のかわりに、全く別の人間を見いだす。この〈別の〉人間は彼であって、同時に彼ではない。それは他人にとっての彼、自己イメージとしての彼であり、行動や言葉に現れる彼ではあるが、現実の彼ではない。なぜかと言えば、他人や彼自身が自分だと思っているこの人間の中には、多くの非現実的な、人工的なものがあることを彼自身自覚しているからだ。本体をつくりだされたものから識別するようにならなければならない。そして自己観察と自己研究を始めるには、自己を分割することが必要だ。

のだ…。

*人格としての自分と、本質としての自分。
*人格の正体は外部から取り入れた模倣品。転写物。世に染まっただけのもの。



一人は、自分では〈私〉と呼び、他人からは〈天村〉〈崇〉〈アマ〜ン〉〈タカシン〉と呼ばれている人間だ。そして、もう一人は、真の彼自身であり、真の〈私〉と呼ぶべき存在となるのだが、それは、ほんの一瞬、稀にしか現れない。だから、それを、堅固で永続的なものにしようと思えば、長い長い努力がいるのだ。

介入:
それを表わすにおいて、可能な限り正確な言葉を探すのならば、【本質】になる。真我やら魂やら分霊やら他に呼び名は色々あるがその正体は不明だ。完全にまったくもって解からない。自分にしかそれを知れる存在はなく、一旦それが知れたなら、もう言葉にする必要はない。「それとして在り続ける」に留まるが課題になる。だから他人に何かそれに関わることを言葉にして話す必要はないんだ。だって分からん、分かるわけがないんだから…。終。


自分を一人として考えている限りにおいては、一歩たりとも(ことの理解に向けて)進むことはできない。自己修練は、自分の中に、二人の人間を感じた、認識したときから真に、やっとこさ始まることとなる。

*一人は人格と呼ぶべきもの。それは一人とは呼べず/ならず。
 とんでもない数の習慣、型、パターン、ペルソナとして備わって/根付いてしまっている。
*人格の別名はエゴであり、またレギオン。
 それの志向/嗜好が肉の欲に色濃く染まっている場合に限定されはするのだが…。
*無数、数千数万が実は潜在的には待機している。各人において。すべて。全員。
 その内のかなりを自身が生存においてアクティベイしてしまうのだ。
*仏教においては業とか煩悩として呼ばれている。

その内の一人は受動的で、せいぜい自分に起こることを記録し観察することくらいしかできない。自分のことを〈私〉と呼んでいるもう一人は、能動的で、第一人称で自分を語るが、実際は〈天村〉〈崇〉〈タカッスン〉にすぎない。


これは人間がもちうる第一の認識だ。こうして、日常の自分の有り様を、客観的にまた注意深く、同時進行においてトレースする、つまりはしっかりとした自己の観察において、そこに気づきの主体としてのなにかとして絶えずおれる、在れるようになれたらば、そして、そこに観察された情報を元に、厳正無私に思考できるようになれたならば、すぐに、自分は、完全に〈天村〉〈崇〉〈アママ〜ン〉としてのフォーメーション、そのものの支配下にいることがわかるであろう…。

介入:
解説なので簡単に説明しているが、それが可能になるようなるまでには、至難の道たるものがある。何より時間も、観察がなされるべくしての、然るべき機会たるもいる。たくさんいる。だから、このことの達成に向けても、神の導きを、補助を、適宜適切なる展開を、祈らなければならない!。これはお伝えしておこう…。

ことの核心、奥義としての事実は、「観る/観察する」その眼差しとしての主体こそが、

なのだ。それは気づきを通してこそ、初めて顕現するものになる。ここは大切なのでくどくいく…。客観的に観る知る。この行為はなんにおいてもそうなのだが、特にその対象が自分になった場合には、思わぬ異常なるまでの抵抗に会うこととなる。おぞましい、情けない、醜い、こういった印象を何故かもたらす、そんな要素を自分の中に確認するのは大変な苦痛としての努力/行為/作業になるのだから。厳正なる区分け区分をする前に、それができるようなる前に、こころがくじけてしまう。やはり、ここでも、勇気や真の誠実さといったものが、その資質が、必要になるのだろう。この苦痛苦難困難としての努力が、またその主体たるものを呼び起こすことになるのだから不思議だ。ほんとよく出来ている…。

それはやはり最初は閃きのような感じとして現れるしかないのだが、長くしての努力格闘試練を経た暁には、その存在は明確なるものとして自覚は深まってゆく。ことは分離が果たされて共犯関係たるものが崩れてゆくのだ。本質は臆病だからね…。勇気をもって行動するがそれにとっての課題。話しを元に戻そう…。本質においての「気付き」は、また格別なるものなのだ…。

ここからは一つの仮説としてきいといてもらいたいのだが…。
それによっての気付きは多分『十全なるもの』なんだと思う…。その折に知られるべきことはすべて即座に全部知られてしまっている。そしてだ、ここからが説明が難しいのだが、この本質は感受したその内容を(情報を)、そによって持たれた印象に関してを、各センターにも横流し的に伝えてはいるのだが、今度は各センターがその受信に失敗してしまっているのだ。

つまりはそのルートにおける、そのフォーメーションにおいて、情報を受け取り消化するのに慣れていないんだ。情報の丸ごと完璧にの意味においてね。この辺においてもやはり訓練習熟熟達熟練の必要性が、その過程が、各センターにおいても必要になっているのだろう。特にだ、上記における観察の内容において分析としての思考がなされるためには、知性センターの関与、それによっての消化が絶対になる。本質の感受したものを知性が

理解できなければならないんだ。これって、意外と、たくさんの障壁障害制約があるかもしれないってことだけは意識しといてもらいたい…。ここにおいての理論的なるは、あの振動数を上げる、そしてそれについて行けるよう、伝達された情報を滞りなく消化できるよう、こちらの振動数も上げるになるんだが、ことの具体的なるは、【忍耐力】を養う培うがその実際の内容になる。ことの結果は”素直さ”の獲得に尽きるのかもしれない…。終。

何を計画しようと、また何をやったり、言ったりしようとも、それを実行するのは〈彼〉や〈私〉ではなく、彼においての〈天村〉〈崇〉〈アマ〜ン〉なのだ。そして、もちろん、彼らはそれを〈私〉のやり方でではなく、彼らのやり方で、彼らの流儀においての意味の色づけをしてやってしまう…。しかもだ、多くの場合、その色づけたるものが、〈私〉がやりたかったことを完全に変えてしまうのだ。

介入:
初動としての、その動機は純粋なる思いからのものなのかもしれない。だが、いざ実行においては、それらは何故か逆説的な態度として表されてきてしまうこととなる。もしくは、頭においては高き理想を掲げるが、いざ現実の生活の中においてのその態度は俗物強欲我執、その権化。博愛の精神もて与えようとしながら、いざ実際のこととなると、誰かから強引に巧みに奪って、ただで手に入れたものしか与える気にはならない。結局は性分と成り果てている「ケチ臭さ」が最も強力に介在してしまっているまでのこと。愛するもそう、好意を寄せるもそう、協力する協調するにおいてもそう。気持ち的には本当にそう思い願い努力したいのだが、実際はそうはならない。そうはできない。エゴのしての人格、その習慣としてのフォーマットに則するとなった途端、ことは自分の思い意志を離れて行われてしまっている…。「好む気になる愛する愛している」、その対象を、苛めるに虐める傷つけるに走ってしまうが最も汎用的なる実例だと思うよ…。終。


この観点から見れば、明らかな危険が、自己観察の最初の「瞬間から」もちあがってくるのがわかる。つまりはだ、自己観察を始めるのは、行うべきなのは、〈私〉なのに、実際にはその行為の開始の直後には、〈天村〉〈崇〉〈タカシン〉がとってかわってしまっている。それが観察を行い続けているといった事態だ。

介入:
自由になりたい。自分の真の主になりたい。こういった動機、願望は本質によってのものだ。だから自己観察たるものにまず取り組むのだ。だがその努力の実際は、旧来の自分の人格らによって奪われて執り行われてしまうこととなる。これはこれで、意義はないこともないのだけれど、そうなってしまうと自己観察においてのそれが本来持つ効力たるものが完全に失われてしまうことになる。対象に対しての覚知において「真に自己たるものを結ぶ」がこの行為においての肝なのだ。観るとしてのその行為の主体は「真の自己」であらなければならない。

においての気づきが必須の要素であるに尽きる。だから”分離”がまずは為されて果たされなければならない。人格への切り替え切り替わりにおいて、どうしてもソレなってしまうことから開放されなければならない。…これは初期においてはまず不可能なことになる。ここに分離の為の闘争が必要になってくる。方法は色々あるさ。座禅がその一つ。雑念煩悩としてのそちら側と距離をおけるよう、ほっぽいておける様にならなければならない。呼吸への意識のみにて自己を留めておく。呼吸はアンカーとなってくれる最適なるものになる。唯一の頼り、自分を留め置くにおいて…。また、別の方法論はもっと一般的だ。何か目標をもってそれを達成する。これはなんだっていいんだ。自分にとって「為されるべき」と意識されるものでありさえすれば。なんだっていい。こころに抵抗が覚えられるのなら、多分それがあなたが取り組むべきミッションになる。これを最後まで完全にやり通す。ようはあれさ、「為す」って行為のことだ。この二領域においての闘争をやり通していくことによって、自然と分離は為されてしまうことになる。怠惰にして受け身に過ぎざる旧来の自分、習慣の塊としての自分との間に、確執葛藤を敢えてをもって持つんだ。そこに起こる火が分離を果たすことになる。精錬と一緒の話し。終。

このことは、最初の段階から、この自己観察にほんのわずかな変化を、一見とるにたりないように見えるが実際には全体を根本的に変えてしまうような変化をもたらす。例えば天村という男が、この自己観察の方法の説明を聞いたとしよう。彼は、人間は自分自身を2つに、つまり彼あるいは〈私〉を一方に、〈天村〉〈崇〉〈アマ~ン〉を他方に分割しなければならないと説明される。そこで彼は、自分自身を文字通り聞いた通りに分割し、「こっちが〈私〉で、こっちが〈天村〉〈崇〉〈アマ~ン〉だ。」とつぶやく。絶対に〈○○〉だとは言おうとしない。そう言うのは嫌なので、必然的に他人の名前、なにかの名称を使うのだ。

*人格はたくさんいて、それらがお互いを嫌ったり好んだりもしているのも真実。

さらに、彼は、自分の中で気に入っている、あるいはともかく強いと、他人と比べて優れていると思っている側面を〈私〉と呼び、気に入らない側面、弱いと劣っていると思っている側面を〈天村〉〈崇〉〈アマ~ン〉と呼ぶ。そして、その上で、自分のことをあれこれ考え始める、もちろん最初から全く誤ったやり方で。

*自己イメージたるものがどういった色づけて形成されているかがここにある。他人と比べて、某らか優れている特別であると思える特徴において、それに向けて、自己たるものの定義付けを行ってしまっている。「ぼんやりと…」だけどね。単に、”可愛い”とかの感じで終わっているかもしれない。

すなわち、彼は、すでに最も重要な点で自分を欺き、真の自己を、つまり○○を使わずに、想像上の〈天村〉〈崇〉〈タカシン〉を使っているのだ。
人間が自分のことを第三人称で語るとき、自分の名前を使うのをどれほど嫌がるかは想像を絶するものがある。彼はあらゆる手を使って、それをもってして、その事態たるものを避けようとする。上述したような場合には自分を別の名で呼ぶ。
すなわち誰も口にしないような名前をでっちあげたり、単に自分のことを、〈彼〉と呼んだりするのだ。

介入:
”崇”は糟屋先生に改名するならば〜のお遊びで付けてもらった名前。完全表記としてはは○村崇になる。つまりは名字は旧来のままで、名前だけの変更をもっての帳尻合わせだったのだ。画数的に現行よりは運勢が円満になる…。そんで自分としては、名字の一文字だけを変えて天村とし、崇と合わせてペンネームとして使ってる。

ここでは、自分についてを「○村○治」として語るにおいての抵抗のことになる…。これは各自が自分の名字にて自分についてを語るをやってみるのがいい。おかしな違和感を覚えるのと妙に言葉数が少なくなるから。極端に語るべくの内容が表面的なものしかならない。なぜにか見当たらない。見失ってしまっているんだ…。そこには恥ずかしさ、気恥ずかしさが、絡んできてしまうんだ。自己についてを、三人称で語るにおいて、そこに働く自動性によって、何がまず最初に思いとして浮上してくるのか?。気にかけてること、わだかまりとなっていること、心配不安、他人には明かしたくない知られたくない欲望願望執着…。または、自分にいて有利となっている強み、その側面に関しても、他人に話すのには抵抗がある。それは伝家の宝刀であるが故に。できれば隠しておきたい。

とにもかくにも、自分を三人称にて語るにおいて、プレーキが、何故にか強力にかかる、働くといった事実を確認するのが先決だ。人前での自己紹介においては、ホント、極端に上辺なることに終始したってな経験はないだろうか?。もっと色々と、自分をさらけ出せればよかったと後で後悔したことはないだろうか?。

これは後に、自我からの開放においての、その存在の確かなることの、

になる。自己についてを、淡々と、何の恐れもなく、あるがままを、これまでに行ってきたことを、そこにある拘り/執着/嗜好としての内容を、罪として為したることのそのすべてを、誰か他人に、信頼のおける誰かに、語れるようにならなければならない。守るべきものは、もう何もないかの如くにして。終。


こと、これに関しては、心理的な会話の中で自分を、名前やニックネームなどで呼ぶことに慣れている人々も例外ではない。自己観察の段になると、まるで彼らの中に〈天村〉が存在しうるかのように自分を〈天村〉と呼んだり、〈私の中の天村が〉などと言ったりする方を好むのだ。〈天村〉は、天村その人にとってだけで十分だ。

介入:
少しこちらの思惑に反して読者の皆さんに、構成を読むことにおいての混乱が起こっているかもしれないので言っておくと、原文では〈ウスペンスキー〉〈イワノフ〉〈ニコライ〉となっている。

    ここでの話しを理解するために、舞台たるものを明確にしておこう…。
    三項が必須の絶対条件となっている。
    この条件を欠くところ、例えばあなたの頭の中だけの想像では、
    語られていることの核心は曖昧になっていってしまう…。

    まずは、語りを行うべくのあなた。これはあなたにとってのマインドだ。
    そして、次に、話しを行うべくしてのその相手。他者、他人のこと。
    これは理想的には複数の観客としてあったほうがいい。
    そして、最期にもうひとり。一番あなたが関心をもつべき相手であり、
    理解しておくべきもの、理解していて然りのもの。
    あなたの本質、本体のこと。
    あなたは、今、他人に、その理解を求めたい相手に、
    これについてをできるだけたくさん正確に正直に語らなければならない。

    ここにハッキリすることになるのは本質と人格(マインド)との疎通の実状なのだ。
    これは成人後においては、各人各様、

…。


要は、自分のことを真の名前としての三人称で呼んで、彼についてを関してを想起する場合には…、総体としての核事まで含まれてきてしまうのだろう。自分においてでさ曖昧模糊としているその姿を。ここには良心においての疼き、うしろめたさ、恥辱の思いが関連してる。自分でさえ、敢えて見て見ぬふりをする、忘却の淵に即座に投げ込んできている、極力意識しないように心がけている、そんな自分に関しての現実がある。弱さ、醜さ、臆病な、卑劣卑怯なるの、その性質、その本性、その現実のこと。本人は意外と分かっている。本質、実体、本性たるものが良心にあることを。それが奥深くに身を潜めたままにあることを。大人となってからの恒常的なる態度は、全面に出すべくは、仮面としての人格の方なのだ。自分が、世界との関わりにおいて、非難批判咎めを受けない為には?との動機/目的において、幼少期において周りの大人達、仲間から真似て盗んで取り込んできたフォーマット/様式/手順の数々。

前に、どっかで、大竹しのぶと山口智子を例にあげて、敢えて、「自分のつく嘘に溺れてそれのことを恥じない」最低の役者だと言ったことがある。ことはこれと同じ構図になってる。自覚的に嘘をつくのはまだいいのだ。窮地を逃れる、危機を避ける為にも。また方便として使うこともできるであろうし、余興としてならば嘘はとてもおもしろい。だが、偽に嘘に幻想に、個人的な思惑において、それを真実なるものとして、自らそれに嵌ってしまうのならば、信じ込んでしまうのならば、それは罪だ!。恐ろしく危険な態度になる…。子供の、それのやることで、まったくことの事実に自覚的でない場合においては未だ許せる。だが、成人としての大人になってからともなれば、ましてや役者という職業人がやることともなるならば、それ相応の結果は覚悟しておかなければならない…。そういった彼ら彼女らは現実を踏み外したことになる…。悪いが私の意識がその瞬間をちゃんと認識してしまっているので。世界からの反映は然るべく起こってしまうことになる…。起こっている…。

閑話休題。ことはある存在の立場からすれば、こどもやることでしかないのだ。嘘と仮面と人格と完全同一化してしまっていて、そのことをまったく自覚していない。それ、つまりは、三人称単体としての自分の名前が、それを口にする、その語におて呼び起こされる、想起される対象とはなりえない。意識においては正しくそのもの自体が射程に入れられている。だがそれを素直に正直に語る表現することは、その身に染み込んだ習慣としてのフォーマットによって、そのアウトプットは邪魔をされてしまう/封じられてしまう。禁忌の恐怖の恥辱の思いが、意識の背後にて作用することによって阻まれてしまうこととなる。

だからここにおいてのその身に培ってきた世界との関わるにおいての様式をフォーマットを無効化する、それからの制約を拘束を支配を解除できるようならなければならないのさ…。

ことは先ず分離が為されて、やや程まれなれど分離できて、そして長期に渡っての力比べのステージがあって、「

、やがてにおいて、とうとう、やっとこさ、自分としての態度決定、そのすべてにおける”首座”を占めるようならなければならない。

ここに、真の意味における聖戦たるものの、幕が上がる。
それを經らざるば、それらからの支配を脱することは叶わない。終。


しかし、いったん〈天村〉に対する自分の無力さを自覚すると、*(つまりは自分の人格面におけるその習慣性に対して無力なることを自覚すると)、
自分自身と自分の中の〈天村〉に対する態度は、無頓着でも無関心でもありえなくなる。*(平素は自分が願えば求めれば、自分の有り様は、如何様にでも選択できると思っているが、いざ平素にはやらないことをしようとすると、そこに障壁やら制約やら逆らうものがいることが分かる。)

自己観察は〈天村〉に向けての観察になる。それはすなわち、自分は〈天村〉ではないということ、また〈天村〉は、自分の被っている仮面でしかあらず、無意識のうちに演技している役、しかも不幸なことにその演技を行うこと選択すること嵌ることをやめられない役(型、フォーマット、パターン)であり、それらが実質は自分を支配しており、自分の本心においては、本来ならば絶対にやらないようなことを、無数のばかげた/おろかな/恥知らずな/軽挙妄動としての行いを、やらせる/とらせる役(癖)以外の何ものでもないのだということを理解するのだ。

介入:
ことは、面白い、興奮した、そんで”快”と感じた、”好”と覚えた過去体験の再現が人格におけるその”呪い”なのだ。
基本、生存の有利さを学ぶにおいて、あれやこれやの”型”を習得するのだが、その実際は快楽原理に基づいている。それに「おもきし」傾いている。
キチガイの真似事をして受けたならば、そんでバラエティーの世界で成功したならば、それを思慮分別なくして取り込みを行う。行ってしまってるー。
そんで何度も何度もそれを繰り返してしまうこととなる。これはザコシとかその他諸々の芸人さん達。
ヒトの動物性とマインドの結託においてはいろんな罪深い恥知らずなおぞましい行いが[好/快/満]として印象に刻まれ得る。
それを轍として再現が自動的に志向されてしまうのだ。最終的には、そこには良心に基づいての行動は「意外と」皆無と成り果ててしまっている。
だが、本質としての自分としての発現は、それが取り得るべくの轍こそを、真実としては、必要としているのだ。終。

もし自分自身に対して試実であれば、自分は〈天村〉の支配下にあり、同時に〈天村〉ではないことを感じるだろう。それらではないことを、疑うことなく知ることとなるであろう。*(←これが識別知の獲得において果たされる効能。)

彼は〈天村〉を恐れ始め、自分の〈敵〉であると感じ始める。彼が何かをしたいと思っても、すべて〈天村〉に横どりされ、変えられてしまうからだ。〈天村〉は彼の敵だ。〈天村〉の欲望、好み、共感、反感、思想、意見は、彼自身の見解、感情、気分に反するか、でなければ何の共通点ももっていない。同時に〈天村〉は彼の支配者でもある。彼は奴隷なのだ。彼は自分の意志を全然もっていない。つまり自分の欲望を表すその手段を何も持っていない。というのも、何かをしたい、言いたいと思っても全部〈天村〉が代わってやってしまうからなのだ。

自己観察のこの段階では、全目的は自分を〈天村〉から解放することにあるのだということを理解しなければならない。
しかし実際には、〈天村〉が彼自身となっているために、自分を解放することなどできない以上、逆に〈天村〉を支配し、〈天村〉がやりたいことではなく自分自身がやりたいことを自分にやらせなくてはならない。〈天村〉を支配者から召し使いにしなくてはならないのだ。

*ここでの表現は、かなり極端に厳しくして残酷で激しいものとなっている。
*でもこれこそ現実においての課題なのだ。
*そう思って、この言葉をそのまま、心に刻んで、覚悟を持たれることをお勧めします。

自己修練の第一段階は、自分自身を、精神的に、〈天村〉から分離させること。
現実に彼から分離し、しかも離れ続けていること。
しかし、全注意は〈天村〉に集中されておかねばならないということだけは銘記しておかなければなるまい。
なぜなら、彼は、自分自身が現実にはいったい何者なのかを説明することができないからだ。

*言葉の選択としては本質が妥当だ。これしかない。
*でもそれは実際に、自分で自分自身によって、それの存在を知ること、悟る必要がある。
*この行為においては完全にプライベートな世界になるので、言葉はかえって邪魔になる。
*少し学びを推し進めることができれば、真我なるタームも考察においては取り入れられることとなろう…。

しかし〈天村〉が何者であるかの説明ならできる。なので、まずそこから、自分は〈天村〉ではないということを心に留めつつ始めなければならない。
この場合、最も危険なことは、自分自身の判断に頼ることだ。もし運がよければ、この時期に、自分はどこにいて〈天村〉はどこにいるかを教えることのできる人物を知己として側に持つことだ。

*そんな人間はいない。Gは敢えてをもって、これを語ることにおいて、
 自分(G)との関係を大事にしなさい、自分(G)の存在を、
 ありがたく思いなさいと発信しているのだ。

彼は何よりまず、この人物(G自身を暗示)を信じなければならない。というのは、彼はまちがいなく、「俺は自分自身を完全に理解しているし、自分はどこにいて〈天村〉はどこにいるかを知っている。」と思っているからだ。自分のことばかりか、他人の〈天村〉も見知っているとまで考えるだろう。もちろん全部自己欺瞞だ。この段階においてでは、自分に関しても、他人に関しても、何一つ見ることはできない。自分はできると確信すればするほど、その間違いは大きくなる。

*つまりは初動の段階。Gのここでの話しを聞いて、自負心としての思いがプライドが、
 不遜にも反応してこのように思ってしまってるのだ。
*オレのほうが、ワタシの方が、お前より知ってる理解してるってのが、
 Gの専門家らと接しての、その相手の反応の殆どだった。
*謙虚に、誰に対してであっても、こころ静かに、開いて、在れるように…。
*自然界にはどれほどまでの、たくさんのノイズが存在していることか!。
 聞いて聞いてないようあれるように…。いちいち反応してはいけない…。

においてならば、

にとってならば、自分に関係のないものは、
 やがてには、ただ過ぎゆくばかりものとなるのだから…。成り果てるのだから…。






残りはでき次第アップします。

未だ大部ある。


つづく


忘れん内にこれ載っけておこう。



これが本稿において、冒頭におくべくの、引用文にしようとしてたもの。これが私の頭のなかにあった要旨になります。上記にあるオリジナルとはちょっと違ってますよね。そうなんだ。違ってたんだ。そんで、念の為にと原文まで引っ張り出してきたのだから。そんで、念には念をの意味で、英文のも引っ張り出して来て確認したまで。

訳に問題はない。また記録者たるウスペンスキーにおいても記憶間違いはなさそうだ。
要は自分の頭の中で要約化がなされたまでのことだったのだ。
だが、その要約は間違ってはいないと思う!。

ここでの”光”の意味は、言わずもがな「純粋なる自己意識においての認識をもって、自己に関わるその構成要素のすべてを明るみにだす」ことに他ならない。このほん些細な努力が、起こるべくしての反応の、そのすべてを、その質を、変えてしまうことが可能なのだ。膨大なる未知がそこにはある。真実がやはりなんにおいてであろうとも一番強力なのだと言っておこう…。気づくことべきことがたくさんある…。

その行為において獲得される認識は、蓄積されるべきものになる。パズルのピースは少しづつとしてでしか手に入らない。根気と情熱と忍耐力と関心/興味と、なによりも年数がいる。やがてに、ピースがある程度の数そろってきたならば、何やら絵たるものがうかがい知れるようなってくる。全体としてのものではないが、なにやら薄っすらと不思議な絵がそこにあることが分かるようにはなる。なにやらけったいな、馴染まぬ視座たるものを、この努力の結果として手に入れることとなる。その対象たるものは”自分自身”そのものなのだ。よって自分との関係そのものが変わってゆくこととなる…。

転載を打ち切ろうかと思ったのですが、もう少し妥当なる区切りの部分に至るまで続けたく思います。今回の部分は転載の完結、それの後に後日移動させます。

草々



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