第四章 自覚7「どうしたの? それ」

文字数 2,662文字

 細長い小花が十字に開かれるように白い花を咲かせている。早朝カリーナが受け渡してくれた花だった。その花びらに由美子はそっと触れた。すると、成長の邪魔を押しのけるかのように、その花びらは咲き誇っていた。羨望と苛立ちを混ぜ合わせたような感覚が息吹くと、ふと我に返って、由美子は電話口に語り掛けた。
「…だから、ここを出るのも遅くなりそう。そっちの到着予定は?」
 窓際に近づくと、テントの骨組みを抱えるブリュノが目に止まる。二、三歩進むと転がっていた薪に足を取られ、彼は転びそうになる。それをシモンが抱え上げると、骨組みを受け取ってブリュノの頭を撫でていた。
「空港で待ち受けるつもりでしょ? それなら、私が立ち会わなくても大丈夫だよね?」
 頭を振り払うと、照れくさそうにブリュノは馬小屋へと戻っていった。
「そんなんじゃない。一緒にいたら、後々何されるかわかんないし」
 ベッドに腰掛けると、枯れた薔薇の花びらが埃に塗れて床に転がっているのに気が付いた。
「…あれでも、あなたの弟なんだから」
 通話が途切れかけ、由美子は耳もとから電話を離した。電波を確かめようとそれを眺めると、階段を昇る足音が聞こえた。
「…掛け直す」
 返事も聞かずに電話を切る。すぐさま袖元のボタンを外し、由美子は電話をポケットに入れた。足音は階段を昇りきり、一旦立ち止まると、再び歩き始めた。扉に背を向けると、腕からシャツを抜き取り、足音に注意深く耳を傾ける。…千人の女性がいる。昨夜告げられた言葉が脳裏に過ぎった。足音が止まると、二度ノックが鳴る。
「どうぞ。開いているから」
 吊されていたシャツに手を伸ばしていると、軋む音を立てながら扉が開かれた。
「ごめん。着替え中?」
 シャツを羽織いながら視線を送ると、白い花束を握り締め、レオが立ち尽くしていた。
「ううん、着替え終わった。入って」
 胸元のボタンを閉めながら声を掛けると、レオが居心地悪そうに扉を閉める。
「どうしたの? それ」
 振り返って袖を捲し上げ、由美子は花束を目で示した。
「散歩していたら、綺麗だなって。ブバルディアって言うんだ。カリーナが教えてくれた」
 そう呟くレオは、どこか不安気な表情を浮かべていた。
「もしかして、私に?」
「…うん。でも、必要なさそうだね」
 ブバルディアが活けてある花瓶を見つけると、レオは俯きながら呟いた。
「そんなことないよ。ありがとう」
 優しく語り掛けても、レオは視線を合わそうとしなかった。…電話に気付かれたのだろうか? そう勘づいた由美子は、弁解を思い浮かべながらショルダーバックを漁る。
「どうしたの?」
「なにが?」
「…なんか、緊張しているようだけど」
 欠勤を続けていた薬局から。電話の相手をそう決めつけると、取り出した煙草に火を付けた。煙を吹かして、煙草をショルダーバックに入れる。静寂が訪れ、話題を変えようと由美子は窓際を見つめた。
「ほんと、こんな生活していたら、どっかで戦争があっても気付かないんだろうね」
 レオが語り出すのを暫く待ってみたが、彼は口を噤んだまま俯いていた。
「…まぁ、知らない方が、幸せなのかもね」
 窓外に灰を落とすと、しびれを切らして問い質す。
「ねぇ、どうしたの? 何か言いたくて、この部屋に来たんじゃないの?」
 そう吐き捨てると、レオは身体を強ばらせた。
「…いやっ…、…その…」
 花束を膝元へと降ろすと、いたずらを見つけられた少年のように萎縮する。
「…怒っているのかなって」
 それを聞いて、由美子は目を見開いた。
「怒っているって、私が?」
「…うん。だって、…こんな旅に誘っちゃったし。それに、…さっきも散歩を断ったから…」
「それだけで、怒っているって?」
「…うん。」
 口実を考えていたのが滑稽に思えて笑い声を挙げる。それを耳にしたレオが顔を上げた。
「あなたの、そういう子供っぽさが好き」
 煙草を窓辺に立て掛け、由美子が囁いた。
「こっちにおいで、レオ坊や」
 そう告げられると、レオの表情はみるみると晴れ渡っていった。由美子が右腕を差し出す。
「大人の態度だってできるよ」
 そう呟くと、ベルボーイが客を迎え入れるように、左腕を腹部の前で折りたたみ、花束を握り締めた右腕を後に回して、レオは姿勢を正した。
「なら、私をエスコートしてくれないかしら? サー・ユスターシュ」
 姿勢を崩して由美子の隣に腰掛けると、レオは花束を差し出した。
「迷える少女の為なら、なんなりと」
 受け渡そうと手を傾ける。由美子が腕を伸ばすと、二人の指先が花束を介して触れ合い、レオがそれを絡ませていく。そんな様子を由美子はじっと見つめていた。
「ねぇ、君は宗教を信じる?」
 由美子の瞳を覗き込みながら、レオが囁く。
「哲学には興味あるけど…宗教はね…」
「…なら、良かった」
「どうして?」
 由美子がレオの瞳を見返した。それを待っていたかのように、レオが口を開く。
「それなら、天国も地獄も存在しない。君を純粋に愛せそうだよ」
 花束を握り締める手を降ろしていくと、レオは左腕を由美子の背中に回した。彼の視線が瞳から浸食し、毛細血管に蔓延るように由美子を濡らしていく。指先が背中に触れると、由美子は小さな喘ぎ声をあげた。そっと微笑んで、レオが瞳を近づける。引力のように彼の視線に引き寄せられ、目をそらすことができなかった。…千人の女性がいる。唇が触れ合うと、頭上から足先まで寒風が浸透していくかのように力を失い、弾性を帯びたゴム人形のように身体が解かれていくのを、由美子は感じた。再び、唇が近づく。抵抗も拒絶も忘れたゴム人形と、それを犯していく彼の瞳。そんな時間を愛おしく思う。鼻先が触れ合いそうな距離で彼が止まる。その距離が息苦しさを催し、ブバルディアの花束が指の間をすり抜けていく。湿った唇から震えた吐息が漏れていくと、彼の瞳孔を取り巻く水晶体に、一人の女性が映り込んでいるのに気が付いた。その女性は夢遊病のように遊離していて、無防備な表情をしている。彼女の唇が微かに動く。それを読み取ろうと、由美子は目を凝らした。…あなたは。唇の動きを言葉に落とし込もうとすると、すぐさま視界が液状に滲んで、光が収束していく。真っ白な灯りに包まれ、彼女を見失った。蜃気楼に落胆する旅人のように、彼女が一体何を語り掛けようとしたのか疑問に思いながら、由美子はレオの腕の中へと包まれていった。
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