第七章 歪んだ現実2「ジャック・シャブロルです」

文字数 1,872文字

 窓から差し込む自然光がフローリングに反射し、リビング一体が柔らかい明かりに包まれていた。その窓からは入り江の隅でワインを口にする女達の姿が見えて、部屋の西側にはキッチンを兼ねたミニバーが設けられていた。それらの先には、階段が三階の部屋まで続き、その下にはガラス扉のバスルームがあった。
「なにか飲む?」
 ミニバーへと歩み寄った由美子が、砕いた氷をグラスに入れながら二人に尋ねた。クロードが冷蔵庫からコロナを取り出し、由美子がジンを注いでいく。壁掛けの中世都市を切り刻んだ様な抽象画を眺めながら、レオは窓横の白いソファーへと歩み寄る。
「あなたは?」
 マドラーでジントニックを優しくかき混ぜながら、由美子が問い掛けた。ペパーミントがチークダンスを踊るように結露したグラスの中で回っている。
「後で、勝手にやるよ」
「…そう。じゃぁ、ご勝手に」
 ソファーの横に置かれたガラスのショーケースを、レオは覗き込んだ。そこにはトリコロールの紋章を記した戦闘機の模型が飾られていた。コックピットを備えた胴体はシャープな曲線を描き、水平な翼がブーメランのように左右へと伸びていた。ヘッドアップディスプレイや操縦桿など緻密に模された機体全体を、初めて雪を目にした子どものように、レオは眺めていた。
「お待たせして、すみませんでした」
 階段から声が聞こえて、レオは振り返った。そこにはジーンズに白いシャツを着込み、首元に藍色と薄い黄色のストールを巻いた男と、ワニ肌の様に陰影の掛かった赤いパンツに、胸元を開けた白シャツ姿の男が階段を降りていた。
「それは、ダッソ−社製のミラージュF1という戦闘機です」
  ストールを巻いた男が階段を降り立つと、レオに語り掛ける。
「フランスでの運用は中止されていますが、中東やアフリカでは、現在も実戦に参加しているんですよ」
 レオに歩み寄ると、その男は左手を差し出した。
「ジャック・シャブロルです」
 研ぎすまされた爪とシルバーの指輪に、レオの視線が惹かれる。
「レオ・ユスターシュです」
「あなたが、レオさん?」
「…えぇ」
「噂は聞いていました」
 目を見開いて、レオは握手を解いた。
「アランからですか?」
「はい、大切な弟さんだと。美術を学んでいるとか」
「…えぇ。まぁ、そうですね」
 赤いパンツ姿の男が、ジャックの横に並ぶ。
「ピエール・シャブロル」
 彼らの名前を反芻しながら、差し出されたピエールの指元に、レオは視線を向けた。
「…もしかして、同性愛者が珍しくて?」
 指輪を見つめるレオに気が付くと、ピエールは微笑みながら呟いた。
「どうぞ、こちらにお座り下さい」
 ジャックが、ミニバーにいる由美子とクロードに声を掛けた。
「いえっ、クラスメートにも何人か居ましたので」
 そういうと、細長い指先を備えたピエールと、レオは握手を交わした。鋭くも穏やかな瞳でウインクを送ると、ピエールはミニバーへと向かっていく。
「アランには、とても感謝しているんですよ」
 そう言いながらレオの背中に手を回して、ジャックがソファーへと誘導する。
「彼とは三年程の付き合いでして。本当、時の速さには驚かされますよ。ついこの間と思っていたことが、もう、三年も経っているんですからね」
 ドリンクを片手に由美子とクロードがソファーに腰掛ける。ジャックと向き合うように座ると、レオが徐に口を開いた。
「アランとは、どこで知り合ったのですか?」
 腰元にあるストールを掃けると、ジャックは足を組んだ。
「毎年6月に、パリでプライド・パレードが開催されているのはご存知ですか?」
 そう問い掛けられると、性的マイノリティーの祭典と称してメディアに紹介されるパレードを、レオは思い出した。
「…あの、レインボーカラーの旗を掲げている……」
「確かに、あれがシンボルとなっていますね。けれども、パレードの本来の目的はストーンウォールの反乱という記念日を祝っているんですよ。…まぁ、つまり、同性愛者と警官が初めて衝突した日のことです。それを記念して、世界各地で私達のような人間が、思い思いに変装して街を練り歩くようになったのです」
 ライム味のペリエを持ってきたピエールが、ジャックとレオにそれを受け渡した。
「そのパレードとアランに、何か関係があるのでしょうか?」
 礼を込めてピエールに微笑みを見せると、レオは生真面目な学生のように質問した。
「三年前、私達もパレードに参加したの。もちろん、ドラッグクイーンの格好をしてね」
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