第十一章 美しい時間4「…ねぇ、レオ」

文字数 2,280文字

「うわ、うわ、うわ、うわ、うわー 大変だ 大変だ 大変だ 大変だー」
 キッチンから飛び出したレオが、そう叫びながら由美子に駆け寄った。その手にはステンレスの串にいくつものマシュマロが突き刺さり、それが炎をあげて燃えている。由美子はすぐさま涙を拭った。
「消して、消して、消して、消して、消して」
 レオはそれを、由美子の口先にかざした。言われるままに、息を吹き掛ける。
「ふぅー、これでシカゴ大火並に燃え上がらずに済んだよ」
 そう笑いながら、レオは焦げ目のついたマシュマロをかざし続けていた。細長い煙から香ばしく甘い香りが放たれて辺りに充満する。由美子がそれを頬張ると、口の中でとろけるように香りが広がり、それは頬や舌の熱ですぐさま溶けてしまった。優しく口を動かす由美子を見つめると、レオもマシュマロを頬張った。目を見開き、美味しいとでも言いたげに微笑む。そして、親指と人差し指を掲げて由美子のえくぼに優しく触れた。頬を吊り上げ、微笑む形に整えると、そっと指を離す。…なんとか、やっていこう。そう呟いてキッチンに戻ろうとすると、ローテーブルを覆うウィスキー・コークに、レオは気が付いた。
「ウーララー、ダム・ラフランスが決壊したようだね。あっちに、フキンあったかなぁ」
 マシュマロを頬張りながら、レオがキッチンへと向かう。彼の後ろ姿を眺めながら一瞬の出来事に困惑していた由美子は、頬をゆっくりと降ろしていった。そして、微笑みと吊り上げられた頬に、一体どんな違いがあるのだろうか? と、しばらく考えてみたが、そんなのを区分けすること自体バカバカしく思えてくると、クッキーの生地にチョコレートを混ぜ込むように、解離していた身体と感覚が融和していった。…演じ続けよう。私とそれを見ている誰かの視点。けれども、そんなことを考えているのも私の頭の中のことであって、そこに明確な境界なんて存在しないのではないだろうか。…だから、私は演じ続けよう。演じるように促すその視点を私が支配して、私が私のなりたいように演じ続けさえすれば、あんな漠然とした不安に襲われることもないに違いない。そう思えてくると、フキンを手にして歩み寄る男のことを、由美子は愛おしく感じた。それと同時に、彼にだけは嘘を付きたくないと思った。演じることと嘘は全くの別物。それなのに、今までの私はその二つを混同していた。だから、演じるという名目で誰かに嘘を付こうが、罪悪感なんて微塵も抱くことはなかったが、今は違う。目の前の男に嘘を付いていると思うと、胸の中を絞り取られるように息苦しく感じる。演じるのは私の勝手。だけど、…嘘は誰かを傷付けてしまう。
「…ねぇ、レオ」
 腰を降ろして瓶をどかしているレオの背中に、由美子が語り掛けた。
「あなたに、伝えなきゃいけないことがあるの」
 そう呟くと、ローテーブルに両手をついた不格好な姿でレオは振り返った。一度息を飲み込み、震わせながら唇を開く。
「…私ね、…実は、アラ…」
 その時、扉が開かれた。クロードが浮かない表情を浮かべて歩み寄る。
「さぁ、主役の登場だ!! 赤ワインでも開けようか」
 声を挙げると、そこに置いてあったボトルを手にして、レオがキッチンへと向かおうとする。
「ねぇ、聞いてよ!!」
 そういって彼の腕を掴むと、レオは振り返った。けれども、何から話せば良いのか分からず、由美子は暫く口を開けずにいた。
「…君は、あの日のホテルで、どこかに連れて行って。といった」
 その間を埋めるように、視線を俯かせてレオが呟く。
「だから、そうした。そうしたかったんだ。俺が君を、この旅に巻き込んじゃった。…ねぇ、そうでしょ?」
 そう言い切ると、レオは顔を上げて微笑んだ。由美子が彼の瞳を見つめると、そこには事実を羅列することの虚無感に捕らわれた、自分の姿が映し出されていた。釈然としない不安や、誰かの埋め合わせを求める孤独も、そこには存在していなかった。…そんな自分を見たのは初めてだった。もちろん、そんな自分を見つめてくれる人も初めてだった。
「さぁ、パーティーを始めよう!!」
 駆け出してキッチンから栓抜きとワイングラスを持ってくると、レオはグラスを二人に受け渡した。コルクが崩れないように栓を抜き、赤ワインを注いでいく。
「お別れと、これからの旅に」
 照れくさそうに呟くと、レオは赤ワインを満たした自分のグラスを胸の前にかざした。夕暮れ時の陽光が鮮血に似た赤ワインに反射して、ゆらゆらと煌めいている。そんな光を綺麗だと感じると、由美子は蝋燭の炎を包み込むように胸の内に温かい物を感じた。そっとグラスをかざして、赤ワインを口にする。レオとクロードもそれを口に含めると、リビング一帯に穏やかな沈黙が流れた。けれども、誰もその沈黙を破ることもせず、静かに赤ワインを口にしていく。そんな時間が胸の温もりを拡張していき、頭上から足先を包み込んでいくようだと、由美子は思った。誰かと共に時間を過ごすというのは、嘘を付いて相手の気を惹いたり、言葉を並べて思想を展開し合うのとは、どこか違う。生暖かい物がその空間に流れていて、それに身を寄せ合うことが出来るようなときに、誰かと時間を過ごしていると、感じられるのではないだろうか。そう思うと、由美子はこの空間を失いたくないと感じた。もし仮に、そんな意志を抱くのが演じている姿だとしても、この生暖かい空間を保てるのなら、いくらでも、私は演じ続けてみせる。そう思いながら、再び由美子は赤ワインを口にした。
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