第八章 穢れた叡智1「君はザトウクジラが歌うって、知っていたかね?」

文字数 2,436文字

「君はザトウクジラが歌うって、知っていたかね?」
 ベーコンレタスバーガーとコーラを注文すると、斉藤は対面に座ったアランに問い掛けた。コート・ダジュール行きのゲート通過までは暫く時間があり、同じ時刻のミラノやベルリン行きのフライトを待つ人々で店内は賑わっていた。
「長い間、それは雄が雌を惹き付ける求愛行為だと考えられていたんだが、最近の研究で、どうも違うんじゃないかって、話しになってね」
 橙色の照明がノートパソコンを拡げる女の顔を照らし、ドイツ語を口にする男女がバーカウンターでグラスを傾けている。そんな店内を見回すと、スーツの内ポケットからiPhoneを取り出し、アランは斉藤の話に耳を傾けながら電話を立ち上げた。
「というのも、ある海洋生物学者が雄の歌声を録音し、それを雌が聞き取れる場所で流したが、全く反応がなかったんだ。その結果から考えて、雄が歌うのは同性に対して威嚇や協調を申し出ているとか、そういう、なにかしらのコミュニケーションを取っているんじゃないかってね」
「確か別の海域や繁殖期間中にも、歌の周波数が変わったりするんじゃなかったかな?」
 電話を耳に押し当てると、アランが口走った。
「さすがだね、その通りだよ。まぁ、つまりだな、それだけのコミュニケーション能力を持ち、私達の数十倍もの脳を備えているザトウクジラの生態を解明すれば、何かしらの形で……」
 夢中になって斉藤が話していると、アランは口元に人差し指を立てた。電話が繋がり、視線を遠くに向けて話し始める。それを見かねた斉藤は、肩を落とし、鞄の中からネイチャーの雑誌を取り出した。
 席に近づいた若いウェイトレスが、ホットコーヒーとコーラをそれぞれどちらに受け渡せば良いのか迷っていた。それに気が付くと、コーラのグラスを奪い取るように、斉藤が掴んだ。その行動にウェイトレスが笑みを浮かべる。
「この国には、年寄りがコーラを飲んだらいけないって法律でもあるのかね?」
 斉藤が苛立ちを露わにそう吐き捨てる。それを耳にするとコーヒーを置き、斉藤に軽蔑を込めた視線を向けて、ウェイトレスは立ち去った。
 検問解除、メディア対策、帰化、空港内地図などの言葉がアランの口から発せられ、斉藤は誰と電話しているのか検討も付かなかったが、それで不信感を抱くこともなかった。なぜなら、数年前、横浜の自宅に国際電話が掛かってきたときから、アランには相当な情報と人脈があるのだろうと、斉藤は悟っていたからだった。フランスで細胞学を学んで医師として臨床に携わった後に帰国し、ES細胞の研究へと没頭していたが、新種の多能性幹細胞の登場によって資金難に陥っているという自分の情報を、そのとき、彼は既に知っていた。だから、電話の相手が中東の石油王や、アメリカの国防総省や、南米の革命家だろうと、驚きはしない。
 そう思いながら雑誌の見開きに目を通していると、視界の隅で妙な物体が動いているのを、斉藤は感じた。顔を上げて注意深く焦点を合わせると、そこにはカートを押す白人男性が佇んでいた。穴のあいたジーパンに襟のよれたポロシャツを着込み、航空会社のロゴが刺繍されたキャップを、彼は被っている。そして、毛布やトイレットペーパーや薄汚れたシャツなどを、カートに積み込んでいた。それらを一目見ると、彼が空港を拠点としたホームレスだろうと、斉藤は思った。すると男は、通りすがりの人々に金をせびり始めていた。
 96年以降、ES細胞の研究が進むにつれて、特にカトリックの人間から倫理面における批判が研究者に向けられた。それは、ES細胞=クローン人間という安易な発想から、神の領域である人の創造を人工的に作り出す事への不安が多くを占めていたが、中には優生思想を唱える人々もいた。高度の知能や身体的優位性を持つクローン人間を作り出しはしないか? それに伴い、人種排斥運動や差別が助長されないだろうか? というのが、彼らの主な主張だった。
 そんな事を思い出すと、当時の先時代的な批判に苛立ちを湧かせ、斉藤はストローを噛み潰しながら男を見つめていた。
 確かに30年代の優生思想は間違っていた。学者達の右寄りで主観的な判断が不十分な統計を生み出し、階級意識や差別を助長させ、不況や大戦という時代の中でそれが政治的に利用された背景がある。けれども、20世紀末にはあの悲惨なホロコーストの実態が明るみになり、例え優性遺伝子を寄せ集めたとしても、その後の生活環境で知能が左右されるという論文も出始めていた。つまり、科学者は歴史から学び、総括や反省や議論を繰り返して新たな時代を切り開こうとしていた。それにも拘わらず、倫理や宗教を楯に無知を晒していることすら気付かないような奴らによって、遺伝子分野の研究は停滞期を迎えてしまったのだ。
 住宅広告のような満面な笑みを浮かべて、ホームレスの男は金をせびっている。けれども、目を背けて通り過ぎる人々には、形相とした目付きで卑猥な言葉を吐き捨てていた。そうしてまた、新たな通行人が近づくと、形作られた笑みを浮かべる。それを延々と繰り返す様子を見て、彼が何かしらの精神疾患を抱えていると、斉藤は勘付いた。
 羊水検査、着床前診断、出生前診断、 胎児診断、遺伝子スクリーニングなどの技術によって胎児にある特定の精神疾患が見つかった場合、中絶を行う人々が増加している。まさにそれは消極的優生学の思想を踏襲していて、それが現代社会に根付きつつある。つまり、新たな優生思想は時代のニーズに答えているという証拠だ。それならば、病原菌に対して免疫の強い遺伝子の普及や、他の生物の優れた機能を人間へと還元するキメラの研究、それらを総合的に取り入れた万能遺伝子。そんな魅力溢れる研究の根底ともなるES細胞を更に推進するべきなのに、どうして至る所で規制を設け、それらの研究者達が不遇な目に遭わなければいけないのだろうか。
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