第一章 宿命1「…どのくらい経つ?」

文字数 2,219文字

我々は探求をやめてはならない。そして、すべての探求の最後は初めにいた場所に戻るということであり、その場所を初めて知ることである。             
                            — トーマス・エリオット —


 肛門から胸部にかけてパックリと切り裂かれた豚が、後ろ足を締め付けられて何体もぶら下がっている。内蔵は綺麗に剥ぎ取られ、胸骨や背骨が丸出しの胴体には血一つ付いていなかったが、鉄棒で殴られた捕虜のように、顔の表面には幾筋もの薄汚れた血痕が付着していた。
 黒いスーツ姿のレオは、扉や窓を見渡せるよう壁にもたれていた。透明の液体を吸い取った注射針を、アランは小皿に取り分けた白い粉に差し向けた。注射器を軽く押し込むと、液体に触れた白い粉は、みるみると踏みつぶされた芋虫のような色味に変色していった。
「…98%。締まりの良いブツだろ?」
 腹を膨らませた男が中南米訛の英語でアランに語り掛ける。その男はスーツのボタンを締めきれず、ホルダーに差し込んだ銃を覗かせていた。アランが注射針や試薬をトラベルバックに仕舞い始める。
「そっちの現状は、どうかな?」
 その中から分厚い封筒を取り出すと、それを男に差し出した。
「相変わらず、エスコバル一家が幅を利かせているよ」
 封筒を受け取ると、男は呆れた表情でそう呟いた。レオが彼らのもとに歩み寄り、覚醒剤の詰まった三つのバッテリーボックスを紙袋に入れていく。
「仕掛けるような組織は?」
「…全くダメだね。疑いを掛けられた奴らは、半月も経てば誰も見掛けなくなるんだ。パブロが築いた人脈と、貧困層からの支持は脈々と受け継がれているよ。未だにそこらのチビ達は、彼らのステッカーを空き缶なんかに隠し持っている位だからね」
 喉元が贅肉に埋もれて息苦しそうに言葉を区切りながら、男は封筒から100ユーロ紙幣を一枚抜き取った。
「これから数年、もしかしたら数十年。彼らが衰えることはないだろうね」
 それを白熱灯の光に透かせると、男は満足げに微笑んだ。
「…いやっ、確実に時代は変わるよ」
 そういってアランが微笑み掛ける。
「スポーツの世界にも、ジャイアントキリングが付き物だからね」
 その言葉を聞き入れながら、男は封筒を内ポケットに押し込んだ。
「…けど、ワールドカップじゃ、南米と欧州しか優勝してないだろ?」
 愛想良くアランの腕を叩く。
「そう頻繁に、革命が起こっても困るしね」
 そう言い残すと、男は振り返って豚を吊るしたベルトコンベアーの横を歩き始めた。レオが紙袋を持ち上げると、アランは男と反対方向に歩み出す。革靴の甲高い足音が、倉庫内に鳴り響く。その後ろをついて行きながら、レオは頸椎を締め付けられた豚の表情を見つめた。…ここに吊される運命とも知らずに、肥え続けていったのだろう。そんなことを思い浮かべていると、ガタンッと音が鳴り響き、冷蔵装置から白い煙が漂い始める。肌寒い冷気を抜けながら、二人は屠殺された豚達の横を通り過ぎていった。

 テールランプを光らせながら前方の車が減速すると、アランはブレーキに足を掛けた。モニター画面のスロットル数値が落ち込んでいき、背中に張り付くようにチェアーが振動を包み込む。そんな様子を感じ取りながら、レオはブラックダイヤモンドの光沢に包まれたメガーヌ・ルノー・スポールというこの車を初めて見たときのことを思い出した。児童養護施設から里親に引き取られた後に、奨学金とアルバイトを積み重ねてどうにか入学した美術学校。その二年後に施設で別れた長男のアランと再会し、連れてこられた屋敷にこの車は置かれていた。その時、この車を売ったら中退した美術学校の学費を全て賄えただろうなと思っていた。
 交差点で停車すると、アランは煙草を取り出して火を付けた。
「…どのくらい経つ?」
 煙を吐き出すと、視線をフロントガラスに向けたままそう呟く。
「なにが?」
「この仕事を始めて」
 窓を少しだけ開けて、レオも煙草に火を付ける。
「どうだろう。一年位は経つのかなぁ」
 信号が変わると、アランは再びアクセルを踏み込んだ。レオの吐き出した煙が窓の隙間に吸い取られ、それはすぐさま消えていった。
「一つ聞いてもいい?」
 煙草を外に捨てると、アランは話しを促すようにレオを一瞥した。
「施設を出てから、クロードには会った?」
 交差点を曲がると、街灯の灯るセーヌ川沿いに車を走らせる。建物の隙間からエッフェル塔の先が僅かに突き出ていたが、周囲を街路樹に囲まれると、それは見えなくなった。風を切る音が車内に流れ込み、レオは肌寒さを感じて窓を閉めた。次男の事を問い掛けてからアランは暫く黙り込んでいたが、それは運転に気を払っているというよりも、何か言葉を選んでいるように、レオには思えていた。
「移された施設の近くに、今でも住んでいるんじゃないか? 確かヴァルドワーズの方だったと思うけど」
「じゃぁ、連絡取り合っていたの?」
「…いやっ、施設から聞いた話だから、俺も連絡先は知らない」
 その言葉を聞くと、レオは腰を深くチェアーに埋めた。助手席の窓に視線を移して、パリの夜景を眺め始める。橙色の優しい照明がセーヌ川の水面に反射して、光を中心に景色が彩られている。車が住宅街の脇道に入るまで、レオはその光景を暫く眺め続けていた。
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