第七章 歪んだ現実1「ところで、なんて声を掛けるつもりなの?」

文字数 1,808文字

 山の麓から離れた場所に車を停めて、そこで夜を明かした。朝露を照らすように日が昇り始めた頃に移動を始め、マコン、リヨン、バランス、アヴィニョンを通り過ぎる。周囲は森林とも牧草地ともいえない雑木に囲まれ、まるで人生ゲームで何度も振り出しに戻るかのように、道路には同じ色のアスファルトが続いていた。密やかな寝息を滲ませて由美子は瞳を落とし、時折クロードも瞼を降ろしていた。
 バランスを過ぎた頃から、ラジオではステッペンウルフの曲が繰り返し流されていた。けれども、大地を感じさせる雄大な岩山や、小鳥のさえずりが聞こえる渓流地を通過することもなく、寂れたバーで流れる曲のように、彼らは歌い続けていた。
 太陽の作り出す影が右から左へと移り変わろうとする頃、潮の香りを漂わせるマルセイユに辿り着いた。その頃には、由美子は黒縁のサングラスを掛けて遠くの景色を眺め、クロードも瞼を擦りながら煙草を吹かしていた。
 入り江には何隻もの船が肩を寄せ合うように停泊し、付近にはロブスターやアンコウなどを並べた市場で賑わっている。車を停めて、レオが黒革の手帳で住所を確認していると、金髪で半袖姿の少年がメカジキの鋭利に伸びた吻を目にして立ち止まった。彼が驚いた様子でそれに触れると、市場の男が近づいて、…こいつで串焼きができるかもな。と、黄色い歯を見せて笑った。メカジキよりもその男に怖れた少年は、蒼白な顔を浮かべて遠くへと駆けて行った。
 携帯の地図を確認しながら、弧を描くようにして海岸沿いに車を走らせる。暫くして海越しに先程の市場が見えてくると、レオは再度住所を確認した。辺りにはプライベートボートが停泊する小さな入り江があり、それらを囲むように大邸宅やテラスを構えたレストランが並んでいる。そこから更に車を走らせ、岩肌を露出した小高い丘を登り、地平線を一望できる見晴らしに出ると、そこに目的の邸宅が建っていた。
 塀のない庭園では、海岸から吹き上げた潮風が木々をなびかせていた。それらを横目に車を玄関ポーチまで着けると、レオはエンジンを切った。今年のカンヌ映画祭のトレンドやパルムドールの候補を挙げていたラジオが消えると、車内には異様な静けさが流れ出す。
「ところで、なんて声を掛けるつもりなの?」
 レオが口を閉ざしてハンドルを握り締めていると、由美子が邸宅を眺めながら語り掛けた。
「パリでくすねた薬ですけど、お一ついかがでしょうか。って?」
 意地悪っぽく由美子が呟く。退屈そうな表情を浮かべてクロードが車を降りた。ショルダーバックを手にすると、車を降りて、由美子も玄関へと向かった。取り残されたレオは、彼らの後ろ姿を眺め、バックミラーを傾ける。それを覗き込むと、指先をえくぼに持ってきて頬を吊り上げた。作り出された笑顔を見つめると、グローブボックスからGlock18を抜き取る。それを腰元に忍ばせ、シャツで覆ってから、ドアノブに手を掛けた。
 玄関横の手摺に寄り掛かって、由美子は眩しそうに遠くの地平線を眺めていた。車のキーをポケットに入れたレオが玄関ポーチを駆け登ると、躊躇なくインターホンを押した。
「大丈夫?」
「なにが?」
 肩口の埃を叩きながら、レオが由美子の問い掛けに答えた。
「…いやっ、なんでもない」
 由美子の言葉が消え入ると、受話器を取り上げる音がインターホンから聞こえた。
「ジャック・シャブロルさんのお宅でしょうか?」
 口元を近づけて、レオが問い掛ける。
「…そうですが。どちらさまでしょうか?」
「…あの、…アラン・ユスターシュの代理で訪れた者ですが…」
 そう答えると、インターホン越しに沈黙が流れる。レオが由美子とクロードの顔を交互に見合ったが、不安を浮かべる素振りもなく、彼らは返される言葉に耳を傾けていた。
「…わかりました。鍵は空いています。中にミニバーがありますので、ご自由にお使い下さい。申し訳ないのですが、少し作業が残っていまして、暫くしたら私達もそちらに向かいます」
 そう告げられると、受話器を置く音と共に回線は途切れた。レオは私達という言葉を気掛かりに思ったが、そんなことを気に掛けることもなく、由美子がドアノブを引き、クロードもそれに続いた。閉まり掛けた扉を肩で支えると、レオが立ち止まる。腰に据えたGlock18を確かめるように二度叩いてから、玄関に足を踏み入れた。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み