第十一章 美しい時間2「なんか、晴れてないね」

文字数 2,491文字

「わぁ、すごい。ねぇ、あそこ、このホテルのプライベートビーチじゃない?」
 半円形のリビングには四つの窓があり、至る所から陽光が差し込んでいた。すぐさまベランダへと向かった由美子が、砂浜から突き出たパラソルを指差して声を挙げる。ティーセットの置かれた丸いローテーブルの横にベルボーイが荷物を降ろすと、レオはチップを受け渡す。
「こちらのミニバーは、全てサービスとなっております。それでは、良い休暇を」
 そう言って儀礼的な笑みを見せると、ベルボーイは部屋から出て行った。由美子の声に惹かれるようにレオがベランダに出てみると、そこにはタオルを敷いた寝椅子と小さな温水プールが設備され、地平線まで伸びる地中海や、メイン会場へと続くカンヌの街並みが一望できた。
「後で、浜辺を散歩してみようか」
 レオがそう呟くと、少女のように顔を綻ばせた由美子が頬にキスをした。そんな彼女の様子に、レオはどこか無理をしているようにも感じたが、それを咎めるべきでないと悟った。レオが微笑みを返すと、由美子は部屋に戻ってバスルームの扉を開ける。
「ねぇ、お風呂も凄いよ。私、先にシャワー浴びてもいいかな。ずっと、座り続けて、身体がクタクタなの」
 そう声を挙げながらミニバーへと向かう由美子を尻目に、クロードがソファーに腰掛ける。あの一件から沈黙を続ける彼を気に掛け、ベランダの窓を閉じると、レオは煙草を差し出した。
「なんか、晴れてないね」
 クロードは煙草を受け取ろうとしなかった。それを見かねて、隣に腰掛ける。
「また、電波かなにか? と、いってレオは煙草に火を付けた」
 文語調に呟いて、ライターを仕舞う。煙を吐き捨てると、レオはその揺らめきを眺めていた。
「…人の記憶なんて、断片的で不確かな物でしかない」
 独り言のように呟くクロードのもとに、エビアンを口に含みながら由美子が歩み寄る。
「もう、そういう話し、やめにしない? 堂々巡りで、結局何も変わらないんだし。…ねぇ、レオ。あなたもそう思うでしょ?」
 小さく首を傾げると、レオは灰皿の縁で煙草を軽く叩いた。
「もうね、そういうこと考えたいんなら、山に籠もって、瞑想してればいいのよ。彼の言葉に耳を澄ますんだ。とか、いってね」
 そういうと、由美子はティーセットのクッキーを摘まんだ。彼女の素振りを気にも掛けずに、クロードが口を開く。
「私が私だと認識するには、不確かな記憶を寄せ集め、そこからこぼれ落ちた記憶を周囲の人間が補うことで、辛うじて私は、私であると認識することが出来る。だから、私を囲む存在が一人失われる事で、私の記憶も同じように失われていく。なぜなら、その記憶が存在していたのだと、確かめる術を失ったから。だとしたら、仮に、誰一人として私を知る人がいなくなったとき、私は如何に、私という存在を抱き続けることが出来るのだろうか?」
「はぁ、もう、ダメ…」
 クロードの言葉を遮るように、由美子が溜息を零した。
「ねぇ、レオ。早く、散歩に行かない? 折角のリゾート気分が台無しになっちゃうよ」
 そういうと、苛立たしそうな由美子は、レオの肩に手を置いた。
「そんな、誰にもわかりっこないこと考えて、一体、何になるの? ねぇ、そうでしょ? だから、散歩にでも行って、何か飲もうよ」
「…母親に会いに行く」
 クロードが小さく呟いた。
「なに?」
 驚いた口調でレオが聞き返す。腰を浮かせると、後ろのポケットから厚紙を取り出し、クロードはそれをレオに差し出した。
「明日、イタリアに発つ。母親に会う為に、イタリアに行く」
 四つ折りの色あせた厚紙をレオが拡げると、それはバロック様式の街並みを描いた絵はがきだった。その隅には、フィレンツェという文字が筆記体で記されている。
「あなた達のお母さんって、イタリアに住んでいるの?」
 そういって由美子が絵はがきを覗き込むと、インクの滲んだ文字にレオは気が付いた。
“三人の天使達へ 私はここにいます もう一度会えることを信じて”
「施設にいた頃、それを受け取った。始めは憤りを抱いたのを覚えている。捨てたくせに、会えることを信じてだなんて。ただ、今になって時々思う。母親も母親であるという記憶を失い欠けているんじゃないかと。…だから、会って話しをしたい。母親にとって俺達の存在はなんだったのか? 逃げ出した先の生活はどんな物だったのか? …どうして俺達を捨てたのか? 一つずつ、記憶の埋め合わせをしていきたいと思っている」
 不穏な胸の高鳴りを抱きながら、レオは注意深くクロードの言葉に耳を傾けていた。その手元から、由美子が絵はがきを抜き取った。
「あなた達が、どんな家庭環境か知らないけど、会いに行けば? 久しぶりの親子の再会なんて、感動的じゃない。そんな、ぶつぶつ考えを巡らすより、ずっと健康的だよ」
 そう言いながら、絵はがきを何度も裏返す。
「ねぇ。でも、住所は? ここに書いてなさそうだし、消印も相当古いし…」
「それは良い考えだよ、クロード。羽を伸ばせる、良い機会だしね」
 由美子の言葉を遮るように、レオが声を挙げた。煙草を揉み消し、すっと立ち上がる。
「…ただ、俺にはちょっと、イタリアは近すぎるなぁ。どこだって場所は、特に思い浮かばないけど、俺はもっと、遠くの国を見てみたい気がするんだよね。だから、それは明日、空港で決めることにして、今日はここで、ちょっとしたパーティーを開こうよ。カンヌに到着したお祝いと、クロードの送別会を込めてさ。…なぁ、いいだろ?」
 突如と陽気に喋るレオを、由美子は不思議そうに眺めていた。そして、彼は扉へと歩み寄る。
「だから、買い物に行って来るよ。…ゆっくりしてて」
 そう呟いて扉を開けるレオの背中が、別れを惜しむ少年のように由美子には思えた。
「待って、私も行く」
 絵はがきをテーブルに置くと、由美子は小走りに部屋から出て行った。取り残されたクロードは、皺の寄った絵はがきを手にすると、そこに綴られている文字を暫く見つめ続けていた。
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