第一章 宿命4「デッサンするなら、どんな鉛筆が好き?」

文字数 2,266文字

 ドアノブに手を掛けると鍵は開いていた。扉を開けると、黒いキャミソール姿のセレナが階段の隅に腰掛けていて、レオはやつれた彼女に目で挨拶を送った。煙草を咥えてこちらを見つめるセレナは、目を合わせても何も語ろうとはしなかった。
「アランはいる?」
 密閉された息苦しい空気を割くように声を掛けてみたが、セレナは彫刻を鑑賞するようにレオを見つめるだけで、それに答えようとはしなかった。煙草の縁を指先で叩き、灰を落とす。それを見兼ねて、彼女の横を通り過ぎようと、レオは階段を昇り始めた。
「…あなた、絵画を学んでたんでしょ?」
 擦れ声でセレナが呟く。足を止めて、レオは膝元にある彼女の顔を覗き込んだ。
「そうだよ。…もう、やめちゃったけどね」
 手摺にもたれながら、彼女に身体を向ける。
「ねぇ、デッサンするなら、どんな鉛筆が好き? 髪の毛のように細い線が描ける固いやつ? それとも、紙が真っ黒になっちゃうような柔らかいの?」
「君も絵を描くんだね」
 そう語り掛けても、セレナは視点を階段の手摺りに留めていた。
「私ね、ビニール傘とかに透けて見える、褐色のレンガを描くのが好きだった。…けど、難しいんだよね、あぁゆうの。レンガの色もちゃんと乗せないといけないから、3Bとかで描くんだけど、そうすると、ビニールの光が出てこないじゃない? だから、何度も消すように描いては、固い鉛筆で薄く線を加えたりしてね。それの繰り返し…」
 そこまで話すと、煙草を深く吸い込んだ。そして、肩を落としながら煙をゆっくりと吐き出していく。
「でもね、ずっとそんなことしていると、他に描かないといけない物に、全く手を付けてなかった事に気が付くの。…どうしてかな? いっつも忘れちゃっているの。光を乗せよう、乗せようって必死になると、周りが見えてこなくなっちゃうんだよね。するとね、…あなたもあるのかなぁ。現実とモチーフとの区別が、段々わからなくなってくる感じ。木製のテーブルや鏡やコーヒーポット。見るもの全てがアニメみたいに、本当は鉛筆か何かで誰かが描いたんじゃないのかなって。キッチンとか、バスルームとか、玄関も、こう手を伸ばして、指先で引きちぎろうとすると、紙のようにビリビリ音をたてて、破れちゃうんじゃないのかなって。…ねぇ、あなたも、そんな経験あるでしょ?」
 煙草の灰がみるみると長くなっていくが、セレナはそれを気にも止めなかった。
「それで、怖いのがね。そんなことを考えていると、私も本当は、ペラペラな紙に描かれた絵みたいに、腕とか、足とか、顔とか、破れたりするんじゃないのかなって。そこらへんに捨て去られた紙くずと、なんら変わらないようにね。…ビリビリと破れちゃうんじゃないのかなって」
 そこまで話し終えると、セレナは華奢な身体を気遣うように手摺を掴んで立ち上がった。瞳を覗き込むように、レオが視線を上げる。
「あなたに見せたい物があるの」
 振り返りもせずにそう呟くと、彼女は階段を降り始めた。
「見せたい物って?」
「…きっと驚くでしょうね」
 言葉が通じているのか分からないようなセレナは、客間や空き部屋が並ぶ通路へと曲がった。彼女の後ろ姿を目で追うと、キャミソールの肩紐が今にもずり落ちそうな様子で引っ掛かっていた。暫く迷ったあげく、レオは足先を変えて階段を降り始めた。
 二つの部屋を通り過ぎると、セレナは施錠された扉の前で立ち止まった。その横にある観葉植物の植木鉢を傾けて、鍵を拾い上げる。レオがその様子を見つめていると、彼女は南京錠に鍵を差し込んだ。カチャッと音が鳴らして、扉を開け放つ。
 そこは地下室に続く階段なんかではなかった。光の差し込まない薄暗い部屋があり、無造作に投げ捨てられた本や新聞の切り抜きが、ベッドを覆い尽くしていた。棚には雑誌やCDが乱雑に押し込まれ、菓子袋やハンバーガーの残骸が床に転がり、腐りかけた生魚のような匂いが部屋一帯に漂っていた。
「ねぇ、不思議の国のアリスみたいでしょ?」
 そういってレオに鍵を託すと、セレナは薄笑いを浮かべて廊下を歩き出し、階段の角へと姿を消した。鼻先に手を添えながら足を踏み入れると、奥からチラチラと青白い光が揺らめいていた。その光を追うように視線を向けていくと、フィルムが焼き切れる瞬間を繰り返し映し出す実験映像が小型テレビに流されていた。その光を浴びるように、男がソファーに腰掛けている。彼はボサボサの髪に無精髭を生やし、肩には小麦粉のような白いふけを落としていた。
「…クロード?」
 半信半疑でレオが問い掛けた。画面全体が真っ白になり、男の顔が浮かび上がる。
「クロードだよな?」
 再び声を掛けると、彼は立ち上がってレオのもとへ歩み寄る。頭一つ抜けた身長に、皺の寄った薄水色のシャツ。どこを見ているのか釈然としない瞳でレオの横を通り過ぎると、彼は扉を開けて部屋から出て行った。
 テレビ画面の映像が切り替わり、曇天空の砂浜に燃え盛るピアノが映し出された。風に煽られて炎は揺らめき、規則的な周期で波が押し寄せる。樹脂を重ね塗りしたような灰色の雲は空を隠して、画面全体は靄のような霞に覆われていた。そんな映像を見つめていると、レオは扉の軋む音で我に返った。すぐさま振り返り、部屋を出る。すると、玄関の扉が閉じられていくのを目にした。そこへ向かっていくと、視線を感じてキッチンを一瞥する。そこには、いたずらを眺める子どものように、セレナが薄笑いを浮かべて佇んでいた。
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