第四章 自覚6「それは、ミュシャの作品だよ」

文字数 1,869文字

 皿を洗いながら辺りを散歩してみたくなったレオは、由美子を誘おうと再びテラスへと向かった。ソファーでコミックスに齧り付いているブリュノの横を通り過ぎ、窓辺に近づいていくと、壁に掛けられた額縁に気が付く。足を止めて、レオはそれらを眺め始めた。骨格の穏やかな黄色人種の人間が快晴な空を仰いでいる姿や、茶褐色に濁った川で身体を休める牛達。幼少のブリュノがシモンに支えられながら馬に股がっている姿や、妻らしい女性がシモンと頬を合わせながらこちらを見つめている写真が、そこには飾られていた。それらを眺めながらゆっくりと窓辺へと歩んでいると、大きめの額縁に絵画のレプリカが飾られていて、それと向き合うように、再び立ち止まる。ブロンド髪を腰まで伸ばした色白の女が、瞳を閉じながら、風を受けるように上空を仰いでいる。吸いかけの煙草を指先に挟み、頬に薄く化粧を乗せた彼女の背後には、JOBという文字が綴られていた。
「それは、ミュシャの作品だよ」
 マグカップを手にリビングへと足を踏み入れると、シモンが呟いた。レオの隣に並び、懐かしむように口を開く。
「二十歳にも満たない頃、この絵と出会ったんだ。当時のうぶな頭でも、この世にはエロスという魅惑的な物が存在するんだって、なんだか、とんでもない発見をしたみたいにね。それからというもの、私は彼女のような女性と出会う為に、生き長らえてきたような気がするんだ。異国へ旅だったりしてね」
 玄関の扉が開かれる音が聞こえると、草花の爽やかな香りがリビングへと漂ってくる。
「けれども、遠くを見つめて初めて気が付いた。理想とやらは、あちらではなく、こちらにあるんだってね」
 頭に巻いたバンダナをほどきながら、一人の女性がリビングに現れる。レオにウインクを送ると、シモンが彼女のもとへと歩み寄る。マグカップを握り締めたまま両腕を開け拡げると、女はシモンの背中に腕を回して身体を抱き寄せた。そんな様子を見慣れているようで、ブリュノは表情も変えずにコミックスを読みふけっている。彼らの日常を穏やかな眼差しで眺めていると、部外者のような視線を感じて、レオはあご先をテラスへと傾けた。そこには、憂愁を滲ませて彼らを見つめる由美子の姿があった。それはまるで、昏睡状態の恋人に話し掛けるように、失われていく物を静かに受け止める様子を連想させる。視界から彼女を外す。そして、どうしてそんな表情を浮かべるのか思いを巡らしたが、レオは不穏な胸騒ぎを感じてそれをやめた。
「はじめまして、奥さん。昨夜は挨拶も出来ずに、すみませんでした」
 社交的な笑みに切り替えると、レオはシモンと抱き合う女性に声を掛けた。
「はじめまして、カリーナでいいわ。昨夜はゆっくり休めたかしら?」
 抱擁を離れながらカリーナが問い掛ける。レオが彼女のもとへと歩み寄った。
「はい。まるで棺桶で寝るように、ぐっすりと」
 微笑みを浮かべたカリーナが手を差し出した。
「それは良かったわ」
 その手をレオが握り締める。
「レオ・ユスターシュです」
 奥からクロードが姿を現すと、シモンが水道を捻ってマグカップを洗い始める。一時の静寂を切り開くように、再びカリーナが口を開いた。
「あなた達は、先を急いでいるのかしら?」
 レオがクロードと由美子に視線を送る。憂愁を滲ませた表情は、消えていた。
「いやっ、それほどでもないですよ」
「それなら、ねぇ。みなさんも連れて行ったらどう?」
 タオルで手を拭きながら、シモンが振り返った。
「そうだな。一緒にどうだろう?」
「どこにですか?」
「フルムーンフェスティバルだよ。小さな音楽祭みたいな物でね。山の麓に丁度いい広場があって、そこで音楽を奏でるんだ」
「それは、面白そうですね」
「あぁ、年に一度の祭りでね。それを楽しみに、帰ってきた節もあるぐらいだからさ」
「あなた。祭りがないと、帰ってこないつもり?」
 意地悪っぽくカリーナが囁く。
「おぉ、麗しき恋人よ。我が居なくて、さぞかし寂しい時間を、お過ごしなさっていたのかい?」
 古典役者のように戯けてみせたシモンが、カリーナの腕を引き寄せる。微笑みを浮かべると、彼女はシモンの腕の中へと包まれていった。その様子を眺めるレオの隣に、由美子が歩み寄る。
「いいの? 先もあることだし…」
「でも、ここでお別れってのも寂しいでしょ?」
「…でも、車には…」
「大丈夫だって。誰も気付きはしないよ」
 そう告げられると、小さな溜息を零して、由美子はそっと肩を降ろした。
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