第三章 秘密1「…本当に、一度で済むんだよね?」

文字数 1,456文字

—— 十日前 ——

 黒革のブーツや花柄のローヒールがショーウィンドーに飾られている。頭に緑のバンダナを巻いた女が棚にはたきを掛け、その店先でミアと名乗った白人女性が子ども用の靴を眺めていた。
 イエローブラウンのレインコートを着込み黒縁の大きなサングラスを掛けた東洋女性は、振り返ってミアを見つめた。店員がガラス越しに彼女に気付いたが、外見を眺め回すと他の棚をはたき始めた。
 デンマークで教師をしていたというミアの脚は細くしなやかな曲線を描いているが、薄いピンク色の吹き出物が所々に点在していた。袖元にファーを施した黒のジャケットには乳白色の染みが目立ち、履き古されたラコステのスニーカーは黒くくすんでいた。そんな外見から決して余裕ある生活を送れていないと、誰が見ても明らかだった。それに教師というのも、ミアという名前も、本当かどうかわからない。けれども、今回の仕事にはその方が好都合だと東洋女性は思っていた。
「来月で娘が4歳になるの。そろそろ、新しい靴でも買ってあげようかなって」
 待たせているのに気付いたミアは、東洋女性に歩み寄りながら英語で話し掛けた。
「この仕事が終わったら、買ってあげるといいんじゃない?」
「…うん。そうだね」
 俯くと、不安げな声でミアが呟く。
「どうしたの?」
 躊躇しながら顔を挙げると、ミアはサングラスを覗き込んだ。シャドーの掛かったレンズ越しに映るその姿は、どこか少女の面影が残っていると東洋女性は思った。
「…ねぇ。疑う訳ではないけど、…本当に、一度で済むんだよね?」
「悪く思わないで欲しいけど、この仕事、案外やりたい人が多くてね。だから、人手には困ってないの」
 そう語り掛けると、東洋女性は笑顔を振りまいた。それを見てミアが微笑みを浮かべる。
「それなら、ワンピースも買ってあげようかな。肩口にフリフリの着いた、かわいいの」
 そういって覗かせた純白な歯を見つめると、東洋女性は彼女を無事引き継ぐことができるだろうと確信した。
 コーヒーショップの角を曲がり、白熱灯の灯る薄暗い路地裏へと向かう。突き当たりまで行くとボウリングと書かれた赤いネオン看板が置かれ、その横に狭いコンクリートの階段が続いている。東洋女性がその階段に足を踏み入れ、ミアは心配そうに後をついて行く。螺旋状に曲がる壁には、あくびをする金髪のレディーや飛行船から降り立った男女がボウリング場へと向かうグラフィックスが貼られていたが、所々剥がれ落ちて白の裏地を覗かせていた。歩調を変えずに階段を降り立つと、東洋女性は角を曲がった。彼女が視界から消えると、ミアは急いで階段を駆け下り、角から顔を覗かせた。
 そこには四つのボウリングレーンが並び、一角にハイネケンを手にした若い男達が野次を飛ばしながら投球する男を見つめていた。その後ろを東洋女性が過ぎ去ろうとすると、一人の白人男性が彼女に気付き、指笛を拭きながら、ユミコ、ユミコ、ユミコ。と、連呼を始める。それを気にも掛けずに、東洋女性が振り返る。ユミコと呼ばれる女に急かされるように、ミアは足早に彼女のもとへと歩み寄る。男達にミアを紹介する事もなく、ユミコは奥の扉へと向かっていく。
「大きめの物を買ってあげないとね」
 扉の前で立ち止まると、ユミコは思い立ったようにそう呟いた。サングラス越しの彼女の瞳をミアが覗き込む。
「だって、その年頃の子は、すぐに履けなくなっちゃうでしょ?」
 そういうとミアの言葉も待たずに、ユミコは扉を開けた。
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