第六章 胸騒ぎ2「あぁゆうの、どう思う?」

文字数 2,140文字

 ストライプの入った白いシャツに黒のチョッキを着た男が、ボブ・ディランのKnockin’ On Heaven’s Doorを歌っている。夜の灯火に群がる虫のように観客達が焚き火を囲み、肩を寄せ合うカップルが星空を指さしていた。
 クロードを引き連れたレオは、ケバブやチャイなどを並べた屋台の通りを歩いていた。その先に薪が積まれている人気の無い場所を見つけると、レオは立ち止まった。
「あぁゆうの、どう思う?」
 手持ち無沙汰そうにしているクロードに、レオが問い掛ける。
「あぁゆうのって?」
 耳を傾けながら辺りを眺めていると、レオは遠くの由美子に気が付いた。焚き火の周りをふらつくように歩きながら、時折ステージに視線を送っている。
「さっきの男だよ。写真家なのか、ジプシーなのかわからないけど、あぁゆう、見せかけだけを整えているような奴のこと」
 落ちていた枝を拾い上げると、由美子はそれを焚き火へと投げ入れた。枝に引火していく様子を見届け、遠くを眺める。由美子がこちらに気が付くと、レオは軽く手を振ろうとしたが、彼女のもとにフランクが歩み寄るのを目にして、それをやめた。
「少なくとも、俺達よりまともな生活をしていると思うよ」
 由美子の前に立ちふさがってフランクが話し掛けている。それに気を惹かれ、クロードの言葉がレオには届いていなかった。フランクの会話に相槌を打ちながら、由美子はレオに視線を送っている。スピーカーから流れる曲のせいで、彼らが何を話しているのか、レオにはわからなかった。レオに気付くこともなく、フランクはなりふり構わず話し続けている。身体をフランクに向け直すと、由美子はレオから視線を外して彼の話しを聞き始めた。フランクが何か冗談を口にしたのか、由美子が笑みを浮かべたのをレオは見逃さなかった。込み上げる苛立ちを抱きながら、髪を掻き揚げる。会話が弾むと、次は由美子から話題を振っているように、レオには見て取れた。そんな様子に我慢できなくなり、レオは会場から離れようと周囲を見渡したが、辺りは鬱蒼とした森に囲まれていた。唯一、人気の無い場所は、由美子達の後方にある駐車場しか見当たらない。その事に気が付くと、レオは敢えて二人のもとへと歩み寄る。そばまで来たレオに視線を送ると、由美子は過ぎ去ろうとする彼の腕を掴んだ。
「どこ行くの?」
「あっちでタバコを吸っている。俺は、考え事で忙しいからね」
 そう言い捨てると、レオは由美子の腕を振り払った。去って行くレオを眺める由美子に、フランクは執拗に話し掛けている。ステージではKnockin’ On Heaven’s Doorが歌い終わり、まばらな拍手があちこちから鳴っていた。
 メガーヌ・ルノー・スポールに近づくと、レオはボンネットに腰掛けて煙草に火を付けた。肌寒い風が吹き付け、ポケットに手を入れる。遠くの会場から拍手が沸き起こったが、どんな曲が演奏されているのか、ここからではわからなかった。煙を吹かすと、胸を締め付けられるような孤独に襲われ、煙草を投げ捨てた。腰を上げて、どこか歩き彷徨おうと辺りを見回すと、会場の光を浴びながら歩み寄ってくる人影が目に止まった。逆光で表情は見えなかったが、長髪の穏やかな輪郭でそれが由美子だと、レオは気が付いた。
「追いかけてくる程、愛してしまったのね」
 レオのもとに辿り着いた由美子は、淡々とした口調でそんな台詞を呟いた。磁力に引き寄せられるようにレオが抱き寄せると、二人は何度も口付けを行った。辺りに冷たい風が吹き付ける。それが過ぎ去ると、二人は見つめ合いながら身体を引き離した。怯えながら何かを探る少女の様に、由美子がレオの瞳を覗き込む。肩を引き寄せると、レオは彼女の頬に唇を触れさせた。車のロックを解除し、由美子を助手席に座らせる。
「…ねぇ、続けられる?」
 車体を回って運転席に腰を降ろしたレオに、由美子が語り掛ける。レオはエンジンも掛けずにハンドルを握り締め、由美子は呆然とフロントガラスを見つめていた。
「どうして、そんなこと聞くの?」
 そう問い掛けても、由美子は口を閉ざして遠くを見つめていた。小さく溜息を漏らすと、レオがドアノブに手を掛ける。
「やめるわけにはいかないよ。クロードを呼んでくる。…そしたら、ここを出よう」
 そう伝えると、レオは車から出て行った。会場へと向かう後ろ姿を見届けると、由美子がショルダーバックから手帳を取り出した。書き写した住所を指で示し、それを呟きながら電話を立ち上げる。履歴から相手の番号を見つけた。それに触れようと指先を傾けたが、電波が来ていない。由美子は、溜息を漏らしながら電話を閉じた。すると、液晶画面には無防備な女性が映り込んでいた。呆然と彼女の瞳を見つめると、異様な胸騒ぎが沸き起こる。急いで電話と手帳をショルダーバックに押し込んだ。平静を取り戻そうと、乱れた髪を整える。けれども、冷えた髪先に触れても、胸騒ぎが収まることはなかった。それを受け入れていくように、指先を静止させる。髪の間をすり抜け、頬を伝い、指先がえくぼに触れた。その端からそっと唇をなぞると、そこにはまだ生暖かい湿っぽさが残っていた。
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