第二章 決別1「この街から、出る気はないか?」

文字数 2,145文字

 昆虫の羽音のような寝息が頬に伝わり、膝元に絡まる由美子の太腿から生暖かい体温を感じる。皿に溜まったメロンの果汁が甘い香りを放ち、窓の隙間からバイクの通り過ぎる音が微かに聞こえてくる。
 シーツの上を滑るように、レオはそっと足を引き抜いた。砂浜に散りばめられた貝殻のように、ガラスの破片がカーペットを覆っている。それらを足先で退けていると、小指を軽く切ってしまった。裸のまま立ち上がり、洗面台へと向う。ステンレス棚に置かれたバスタオルを腰に巻き、乱れた髪を手櫛で整えながら、レオは鏡に写る自分の顔を見つめた。昨夜のことを思い出そうとしてみると、記憶が古びたビデオテープみたいに途切れ途切れでしか思い浮かばなかったが、その中で由美子は泣いていた。肩を落とし、膝を左右に折り曲げ、ベッドの上で泣いていた。けれども、現像から浮かび上がったネガのように、その姿が脳裏に深く刻まれているだけで、どうして泣いていたのかは、全く思い出せなかった。
 口を濯いでいると、寝室から物音が聞こえた。洗面所から顔を出すと、シーツを羽織り乳房が透けて見える状態で、由美子がベッドに座っていた。冴えない表情でカーペットに染み込んだ赤ワインを見つめている。
 電話が鳴った。椅子に掛けてあったジーンズから、レオはiPhoneを取り出す。表示画面を見ると、そこにはアランの名前が記されていた。呼び出し音を気にすることもなく、由美子は赤ワインの染みを眺め続けている。髪をかき上げると、レオは溜息を漏らしながら通話ボタンを押した。
「……もしもし、あぁ、大丈夫だよ…。…うん。……十一時?…わかった…じゃぁ、後で……」
 電話を切ると、どんよりと重い雲を押し付けられたように、レオは感じた。冷蔵庫からペットボトルの水を取り出し、それを口にする。喉の奥に張り付いた分泌液を流し込むようで多少気分は冴えたが、それでも肩に背負わされた重荷のような物を拭い去ることはできなかった。
「…なんだかね」
 レオが床に転がっていた下着を拾い上げていると、由美子が口を開いた。
「なんだか、ミニチュアになったみたい。空っぽになるまで突き進んでいっちゃって、…もう、中身も何もない、…ミニチュアになったみたい」
 そう呟いた後も、彼女はカーペットの染みを眺め続けていた。そんな姿を見ていると、レオは内蔵を締め付けられる様な息苦しさを感じた。一夜過ごしたところで、彼女から見える歪んだ景色を変えることも出来ない。そんな無力さに包まれると、それに反発するように苛立ちが沸き起こる。
「…なぁ、由美子」
 そう呟くと、彼女はそっと顔を上向けた。偽りのない眼差しで、由美子を見つめる。
「この街から、出る気はないか?」

「アラン?」
 部屋を覗いてレオは呟いた。アランが居ないことを確認すると、静かに扉を閉める。ローテーブルを越えて屏風の裏へ向かうと、そこには、木製の机にペン立て、ガラスの灰皿にレザーチェアーが一脚置かれていた。屏風から顔を出し、扉を覗く。階段を昇る足音は、聞こえて来なかった。視線を机に戻し、左に一つ、右に四つの引き出しを見つめると、レオは左の引き出しに手を掛けた。ライター、車のキー、黒革の手帳。キーをポケットに入れ、手帳を開く。そこには、住所と氏名が無数に書き綴られていた。手帳を閉じると、右の最上段に手を掛けたが、鍵が掛かっていた。一段下を開けると、レオは目を見開いた。Glock 18と刻まれた自動拳銃と、銃弾の箱が所狭しに並べられていた。その時、足音が聞こえてきた。Glock 18を腰元に入れ、黒革の手帳を握り締める。部屋を見回すが、クローゼットや身体を滑り込ませるベッドもない。引き出しを閉めると、レオは机の下に潜り込んだ。
 階段を踏み締める足音と口笛の甲高い音が聞こえてきた。そのメロディーは水辺で佇む一匹の野鳥を連想させる。ドアノブが降ろされ、扉は開かれた。息を殺しながら、レオは腰元に手を伸ばす。擦れた雲の隙間へと羽ばたく野鳥が目に浮かぶ。椅子の影から黒のタイツとスニーカーが現れた。…セレナだ。彼女の手が机の裏に伸びてきて、レオはGlock 18を抜き取った。すると、指先が目の前で止まった。そこに貼付いている鍵を剥がすと、それは遠のいていく。反転すると、セレナは戸棚の前で腰を降ろした。口笛を拭きながら、鍵を差し込む。戸棚を開けてバッテリーボックスを取り出すと、ポケットから抜き出したビニールの小袋に白い粉を取り分け始めた。呼吸を噛み締め、レオはその様子を見つめていた。小袋を指先で叩くと、ボックスの淵に付いた粉を拭って、蓋を閉じる。それを戸棚に戻すと、セレナは鍵を掛け、再び机の裏に貼り付けた。
 扉が閉じられる音を聞くと、鍵を握り締めて、レオは机の下から這いずり上がった。鍵を開け、紙袋に三つのバッテリーボックスを詰め込むと、すぐさま戸棚を閉める。引き出しから銃弾の箱を二つ取り出し、紙袋に入れる。机の裏に鍵を貼り付け、ペン立てや灰皿の位置を確認し、レザーチェアーを丁寧に戻す。黒革の手帳も紙袋に滑り込ませ、散らかっていないか周囲を見渡しながら屏風を越えていくと、扉の前にセレナが立ち尽くしていた。
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