第四章 自覚1「シモン・アルベール」

文字数 2,347文字

「君たちには、本当に感謝しているよ。だから、何も気にすることはない」
 サービスエリアの駐車場でシモンは若い男女にそう声を掛けた。ハンドルを握った男が心配そうにエンジンを掛ける。
「けど、アヴァロンまで大分離れているし、遠慮せずに乗ったらどう?」
「ありがとう。気持ちだけは、十分受け取らせて貰うよ」
 そういってシモンは二人に微笑み掛けたが、助手席の女は視線を反らしてコーラを口にした。
「それじゃあ、いつかビールでも飲みながら、異国の話を聞かせて貰いたいね」
 そう語り掛けると、男は名刺をシモンに差し出した。
「その話題なら、10ケースは準備して貰わないとだな」
 優しく鼻で笑い、男がアクセルを踏み込む。シモンが薄汚れた赤いコーデュロイのジャケットに名刺を滑り込ませると、車が挨拶代わりのクラクションを鳴らした。
「簡単に捕まったりしたら許さないからね」
 本線に乗ると車はすぐさま見えなくなった。それを見送るシモンの耳に女の声が流れ込む。
「なぁ。俺、間違っているかな?」
 振り返って若い男を目にすると、シモンは太陽のデザインを施したリュックを背負い直した。
「間違えてないよな。…なんにも、間違えてないよ」
 長身の男が後部座席に乗り込む。取り残された男が呆然と黒革の手帳を見つめると、彼は運転席へと歩み寄る。
「なぁ、君」
 レオがドアノブに手を伸ばそうとすると、シモンが明るく声を掛けた。
「もしかして、南仏に向かおうとしているかね?」
 ジャラジャラとした骨のネックレスを見つめながら、レオが口を開く。
「…そうだけど」
「やっぱりね。この時期にスポーツカーに乗る奴は、大抵、地中海に向かっている。君たちもバカンスか?」
 饒舌な語り口調に、レオは不思議と悪い気がしなかった。
「そんなところだよ。どこまで行きたいの?」
「アヴァロンっていう、南東に下った街なんだ」
「リヨンとか、そっち方面?」
「そうだよ。あの街より手前にある」
「じゃぁ、乗りなよ。席も空いているし」
 そう告げられると、シモンは笑みを浮かながら手を差し出した。
「シモン・アルベール」

「ガンジス川の光景が頭の中で過ぎって、気が付いたら片道切符で飛行機に乗っている。そんな感覚が沸き起こるまで、決して旅を始めてはいけないと思うんだ」
 後部座席に乗り込んだシモンは、長年ジプシー生活を送っていることや、アヴァロンに妻子がいること。ここ数ヶ月インドに滞在し、写真をパリの報道会社に送って生計を立てていたが、仕舞いには金が無くなり、カメラを売ってもパリまでの渡航費で底を尽きてしまったことなどを、捲し立てるように語り始めた。
「あの国は本当に興味深い。彼らにとって、時間とは線ではなく点で考える節があってね。この一時という時間に深みを見出そうとしているんだ。そんな感覚で過ごせるのは、あの国とオセアニアの僅かな島々だけに許されているんだよ」
 シモンが語り続けても由美子やクロードが会話に乗る事もなく、彼らは流れゆく広大な牧草地を眺めていた。
「ところで、君たちはどこへ向かうつもりなんだ?」
 静寂が訪れると、シモンは誰に向けるでもなく語り掛けた。
「カンヌだよ。映画祭が開催されているんだ」
 フロントミラー越しにレオが答える。
「カンヌか。それじゃぁ、ちょっとした、長旅になるな…」
 喉まで伸びた顎髭をまさぐりながら、シモンは思案を巡らすように天井を見つめた。
「どうだろう? もし、急ぎでなければ、今夜家に泊まったらどうかね? リヨンまでホテルらしい物は見当たらないだろうし、アヴァロンも休息には良い街だからさ。きっと、妻も喜ぶよ」
 それを耳にすると、由美子がレオの顔を覗き込んだ。トランクを気にしているのだと直ぐにわかったが、レオは沈鬱な空気を払拭するように口を開いた。
「それじゃぁ、お願いしようかな。運転し続けるのも、疲れるしね」
 溜息を漏らして由美子が天井を見上げる。
「これも何かの縁だ。手厚くもてなして貰うよ」

 暫く走り続けると、辺り一面に青い穂を付けた麦畑が拡がった。収穫を待つ穂の毛先が上空へと伸び、雲間から覗く太陽の光を仰いでいる。ハンドルを片手にレオがその光景を眺めていると、シモンが高速を降りるようにと呟いた。
 インターから人気の無い農地を抜け、傾き掛けた太陽を追い掛けるように車を走らせると、アヴァロンの中心街に辿り着いた。休日には日除けのテントを掲げ、雑貨や食料品を並べるマルシェで賑わっているとシモンは教えてくれたが、平日のメイン通りは閑散とし、バーに僅かな人影を見る程度の静かな街だった。
 石造りのサン・ラザール寺院を過ぎ去り、麓町を一望する見晴らし台に出る。山陰に隠れていく太陽の灯に照らされた中世ヨーロッパの街並みは、時代の流れを押し止めるように、悠然とした美しさを保っていた。そこから川の流れに従うように車を走らせ、木々に囲まれた未舗装の小道を抜けていくと、馬小屋を備えたシモンの家に辿り着いた。
  車を降りると、シモンに先導されるように、レオ達は玄関の扉を越えた。石造りの室内は心地よい湿気に満たされ、灯りの消えたリビングからは新緑の香りが漂っていた。夜風を遮るようにクロードが扉を閉めると、シモンは玄関横の階段を昇り、二部屋の寝室を案内した。
「今日は疲れているだろうから、ゆっくり休んでくれ。明日、妻を紹介するよ。田舎の娘は夜が早いからね」
 そういって階段を降りようとするシモンの腕に、由美子が触れる。頬を寄せようと、彼女は身体を傾けた。その行動に多少驚いた様子を垣間見せたが、目元を緩ませると、シモンは彼女のビズに温かく応えていた。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み