第七章 歪んだ現実6「…一つ、聞いてもいいでしょうか?」

文字数 2,103文字

 荷物を取りに行こうと、レオと由美子は外に出た。庭園を見渡すと、クロードが木陰の下に腰を降ろしていた。手にした紙を眺めているが、ここからではそれが何の紙なのか、レオにはわからなかった。彼を横目にバッテリーボックスの入った紙袋を抱えると、何も言わずに、由美子は助手席に乗り込んだ。
 部屋に戻ると、箒を手にしたピエールがガラスの破片を集めていた。それらに埋もれながら、損壊した戦闘機の模型が床の上を転がっている。テーブルにはシルバーのフライトバックが置かれ、その横にスポイトやシリンダーをジャックは並べていた。ソファーに腰掛けると、レオはバッテリーボックスを差し出した。蓋を開けると、ジャックは耳かきのような小匙で白い粉をガラスの小皿に取り分ける。スポイトで吸い上げた液体をその上に垂らすと、白い粉がみるみると濃い紫色へと変色していった。
「問題なさそうですね」
 スポイトの先をコットンで拭き取ると、ジャックはフライトバックのダイヤルを回した。ピエールがガラスの破片をちり取りに入れていく。
「…一つ、聞いてもいいでしょうか?」
 鍵が解かれてフライトバックが開かれると、中には100ユーロ紙幣が敷き詰められていた。
「なにか?」
 それを一目見たレオは、札束を取り上げることもなく話し続ける。
「なぜ私達に、あのような話しを打ち明けて頂いたのでしょうか? アランの弟って証拠も見せていないのに」
 ちり取りを床に置いたピエールが、ソファーの肘掛けに腰掛けた。
「そういう話しは、逃げる準備が整ってから切り出す物よ」
 そう言いながら笑みを滲ませたピエールが、レオの頬に優しく触れる。
「あなたは大丈夫だと思ったから、私達のことを知って欲しかったの」
「大丈夫だと思ったって、どういうことでしょうか?」
 頬から手を離すと、ピエールは姿勢を正した。
「ごめんなさい、悪い意味じゃないの。確かにあなたがアランの弟かなんて、私達も確信は持てないわ。…けど、戸籍とか見せられたって、うまく偽造していたらわからないでしょ?」
 テーブルに置かれていたピエールの煙草を手にすると、ジャックはそれに火を付けた。
「だからね、相手のことを知り尽くすなんて出来ないし、そんなの無意味よ。…私達はあなたのことを信頼した。ただ、それだけのこと」
「…でも、なにを根拠に?」
「根拠なんてないわ。けどね、…けど、あなたには、あなたの輪郭があるって感じたの。ここにあなたの言葉があって、あなたの意志があって、あなたにしか持てない輪郭を、あなたは持っている。それは、簡単なことではないわ。お金や地位で買える物ではないし、それを見失っている人は、直ぐにその代わりとなる物を探したがる。けどね、あなたは既に、その輪郭を持っている。そういう人間は、自分の責任からそうそう簡単には逃れようとしないものよ。…だから、私達はあなたを信頼したの」
 十分に長い煙草を、ジャックはガラスの小皿で揉み消した。検査薬のセットとバッテリーボックスを抱えて立ち上がる。
「鍵のナンバーは手提げのキーホルダーに書いてあります。…また、どこかでお会いしましょう」
 そういうと、ジャックは階段へと向かった。立ち上がったピエールが箒とちりとりを手にして、ミニバー横の裏口へと向かっていく。取り残されたレオは、ピエールの言葉を思い返しながらフライトバックを閉じた。それを手にして玄関へと歩み寄る。
「あなた…」
 裏口の扉に手を掛けて、ピエールが呟く。それを耳にして、レオが振り返る。
「腰に隠すなら、ジャケットぐらい着なさいよ」
 そういうと穏やかそうな微笑みを見せて、ピエールは扉の奥へと姿を消した。…バレてたかぁ。そう小さく呟くと、レオは振り返って玄関へと向かった。ドアノブに手を掛けようとすると、ふと妙な胸騒ぎが起こり、それはすぐさま全身へと駆け巡った。身体の至る箇所から毛穴が放たれ、嫌な汗が手のひらに充満する。棚に置かれた新聞紙の束から、その一部を抜き取った。「ボウリング場で経営者の男が殺害される。取引のこじれか?」と、一面の見出しには記されていた。新聞を握り締めると、レオは注意深く記事を読み込んだ。
「昨日の午後二時頃、パリ郊外のムフタール通りにあるボウリング場、“skyley”から通報があり、現場に駆けつけた警察は、ボウリング場の経営者ジネディーヌ・ボランの遺体を発見。遺体はボウリングの配給装置に切り裂かれた状態で見つかったが、ボラン氏が身につけていた十字架のネックレスが現場付近に落ちていたため、身元の特定に至った。警察は事故による可能性を検討しつつ、事務所から約10キログラムの覚醒剤が発見されたことや、防犯カメラに映し出された不審な女性から、取引のこじれによる殺害ではないかとの見解を挙げて、女性の行方を追っている」 
 記事を読み終えると、レオはその横のモノクロ写真を見つめた。右上に小さな数字を並べた画素の粗い写真にはレインコートの女性が写し出されて、そしてその女性は、顔を覆い隠すかのように、黒縁の大きなサングラスを掛けていた。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み