第二章 決別2「…カンヌだよ」

文字数 2,438文字

 慌てた様子でレオは階段を駆け下りた。玄関の扉に手を伸ばし、ふと立ち止まる。時間を確認しようと周囲を見回したが時計はなく、レオは煩わしそうに階段横の通路へと向かった。
「おいっ、直ぐに出るぞ!!」
 扉を開け放つと、レオはそう叫んだ。床に転がっていた薄水色のリュックサックに下着やシャツを押し込んでいく。ソファーで煙草を吹かしていたクロードは、レオに視線を向けた。
「早くしないと、お前も怪しまれる。だから、一緒に行こう」
 そういってリュックを押し付けたが、クロードはその場を動こうとしなかった。
「なぁ、お願いだ。一緒に行こう」
「…あの銃声は?」
 煙を吐き出し、クロードが呟く。一瞬息を飲み込むと、レオはすぐさま口を開いた。
「一緒に来たら話す。だから、ここを出よう」

「足を狙ったんだ。足だった。彼女は死んでなんかいない。俯いて唸っていたけど、死んでなんかいないよ」
 目を充血させながら流れ出る涙を紛らわすように、レオはぶつぶつと呟いてハンドルを握っていた。セーヌ川の橋を渡ろうとしたが、間違えて手前の道を曲がってしまい、網目状に広がる裏路地を走り続けていた。
「確かに、撃った時の反動で、思ったより上に向かったけど、それは大丈夫だと思う。だって、唸っていたんだし。けど、血が溢れ出して、どこを撃ち抜いたかなんて、わからなかった。だけど、死んでないよ。きっと、死んでなんかいないよ」
 セレナを見た瞬間、レオは例え彼女の頭蓋骨を撃ち抜いても死体を跨いで部屋を出て行くことさえできると思っていたが、溢れ出す血をひと目見ると、興奮と罪悪感に襲われて、それを抑えることが出来なくなっていた。
「なぁ、そうだろ? お前も、そう思うだろ?」
 助手席に座るクロードは喧騒としたラジオを聞き流すように、外の景色に視線を送る。そんな無愛想な反応をされても、今のレオにはそれで十分だった。喋り続けていないと、興奮や罪悪感や後悔に埋もれ、自分がどんな行動を引き起こすのか、わからなかったからだ。
 通りに出ると、ホンダの乗用車がノロノロと走行していた。クラクションを鳴らしても、速度を上げようとはしない。煙草を咥えたが、ライターが見当たらなく、それをフロントガラスに投げ付ける。再びクラクションを鳴らすが、難聴患者のように無反応だった。苛立ちに任せてアクセルを踏み込み、メガーヌ・ルノーは反対車線に乗り出した。すると、扇状に曲がった車線の影から、土砂を積み込んだ大型トラックが現れる。メガーヌ・ルノーは街路樹とホンダに挟まれる形になった。アクセルを蹴り倒し、ハンドルを切って、ホンダ車を追い越す。
 喧噪なトラックのクラクションが後方で鳴り響く。レオは窓を開けて風を浴びた。横目でクロードを見ると、街の片隅に悠然と佇む彫刻のように、彼は口を噤んで景色を眺めていた。そんな姿を見ていると、焦燥感を吸い取られるように、レオの興奮が収まっていく。
「なぁ、クロード」
 落ち着いた口調で、レオが語り掛ける。その変化に気付いて、クロードが視線を向けた。
「俺は、こんな風に旅に出るなんて、初めてだよ。衝動っていったら、安っぽい言葉かもしれないけど、こう、自分の意思でさ。旅に出る感じ」
 口を開くことも無く、クロードは再び外の景色を眺め始めた。
「…けど、もしかしたら、こんな感覚を求めていたんじゃないのかなって。そんな風に思えてきたよ。何かの殻をパックリとね、…打ち破りたかった」
 光を反射するガラス窓に、ワンピースを着込んだマネキン。薄汚れた老婆やボールを蹴り上げる少年達。そんなパリの街並をクロードは眺め続けていた。

 木版の階段を昇ると、レオはベルを押した。扉越しに呼び出し音が鳴り響くと、純白なブラウスを着た由美子が扉を開ける。
「早かったのね」
 赤い口紅とシルバーのイヤリング。それにアイラインの掛かった彼女の瞳が、熟成したワインのように芳醇な雰囲気を醸し出す。そんな変わりように驚いて、レオは由美子を見つめていた。
「どうしたの?」
「…いやっ。準備は大丈夫?」
 そう問い掛けると、手提げ鞄と深紅のショルダーバックを手にして、由美子は微笑んだ。
「もちろん、大丈夫だよ」
 深緑の街路樹や壁に描かれた落書きでさえ、CMの為に作られたセットに見えてくる程、メガーヌ・ルノー・スポールは目立っていた。階段を降り立つと、レオは由美子にクロードを紹介しようとフロントガラスを覗いたが、そこに彼はなかった。鍵は開いていて、リュックサックは後部座席に残されている。煙草でも吸っているのかと思って周囲を見回したが、どこにもいなかった。
「どうしたの?」
 忙しそうなレオに、由美子が問い掛ける。すると、白い紙袋を手にしたクロードが薬局から姿を現した。
「おい、何してたんだよ」
 何も言わずに助手席の扉を開けようとするクロードに、レオが鋭い口調で問い詰めた。
「…薬」
「キーが付いたままだろ。盗まれたらどう…」
「これ、あなたの車なの?」
 レオの言葉を遮るように、由美子が呟く。
「…うん。まぁ、友人から貸してもらって」
 レオが言葉を濁してそう答えていると、クロードが車に乗り込んだ。
「…そう。っで、彼は?」
「兄だよ」
「お兄さん?」
「…そう」
 一瞬不満気な表情を見せたが、すぐさまそれを拭い去る。
「それで、どこに行くつもり?」
「…カンヌだよ」
「カンヌ?」
「映画祭がやってるんだ。羽を伸ばすには良い機会でしょ?」
 それを聞くと、由美子は頬を緩ませて後部座席に乗り込んだ。ガラス越しにレオを指差し、ハンドルを握るジェスチャーを見せて笑い掛ける。その姿を見ていると、ふと忘れ物をして来たような感覚を、レオは抱いた。それは、セレナを気掛かりに思っているのか、アランへの裏切りを後悔しているのか、わからなかった。そんな感覚を秘めながら、レオは運転席へと歩み出した。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み