第十二章 空港にて3「完璧な旅行プランだと思わない?」

文字数 1,443文字

 東洋系のカップルが一眼レフの液晶画面を眺め、ショーケースのマカロンを少女が指差している。フロアの隅々に視線を送りながら黒縁の大きなサングラスを掛けた由美子は、人混みの中を歩いていた。彼の姿が見当たらないことを確認すると、安堵を滲ませた表情を浮かべて、化粧室へと向かう。
 両手に水を溜めて、顔を濡らした。鼻先から水滴が滴り、それを振り落としながら腰を上げる。目先に垂れる一束の髪を耳元に掛けて、ハンカチで顔を拭った。ショルダーバックから細長い金のメタルケースを手に取ると、由美子はキャップを外した。底を回すと、滑らかに削られた口紅が現れる。鏡を見つめて、それを唇の隅に当てようとすると、由美子はそこに映り込む女の顔を見つめた。手を止めて、口を閉ざす。彼女のことを暫く見つめても、自分が乖離していく気配は、どこにもなかった。
 真っ赤に塗られた唇を擦り合わせる。それを鏡で確認すると、金のメタルケースをショルダーバックに戻した。シルバーの腕時計を巻きながら、脇に置かれた黒縁の大きなサングラスに視線を向けると、テンプルとフロントを接合させる蝶番が目に止まった。腕時計を巻き終えると、サングラスを手に取って、左右の蝶番を見比べる。右側のネジが微かに盛り上がっていた。緩んでいるのかと思い、それを指先で回そうとすると、ネジの頭部から剥がれ落ちるように、小さな黒い粒が指先に張り付いた。不思議に思いながら指先を目元に近づけ、親指でそっと裏返す。するとそこには、青い光が微かに灯されていた。突如と、入り口の扉が開かれる。鏡を一瞥すると、由美子は目を見開き、振り返ってサングラスを投げつけた。ショルダーバックを掴むと、頬を殴られ、手帳や銃やメタルケースが床に散乱する。倒れ込んだ由美子は、頬に手を添えながら歩み寄る黒い革靴に視線を向けた。サングラスを踏み付け、目の前に迫り来る。そんな様子を見届けると、血の味を噛み締めながら、由美子は小さく溜息を漏らしていた。

 蒸気が噴射すると小口のカップにコーヒーが滴り落ちる。昨夜記憶なんて曖昧な物だと、クロードは言っていた。それはまるで、今となってはコーヒーに満たされたカップの底がどんな色をしていたのか、漠然としか思い出すことが出来ないように、人は経験や情報に満たされていくと、目の前の出来事を忘れていく。そんな意味合いのことを、彼は言い表そうとしたのだろうか?
 滴りが途切れると、クロードの呟きを反芻しながらカップを持ち上げる。零れないようソファーへと向かうと、荷物をまとめた初老の女性がラウンジから立ち去ろうとする。その様子を目で追うと、扉の前で佇む由美子に、レオは気が付いた。
「ねぇ、由美子。バルセロナに着いたら、美味しいパエリアでも食べに行こうよ」
 陽気に語り掛けても、彼女はその場を動こうとしなかった。
「そしたらさ、サクラダファミリアを見に行って、カンプ・ノウでサッカー観戦。…どう、完璧な旅行プランだと思わない?」
 カップを抱えたまま彼女のもとへと歩み寄ろうとすると、由美子が瞳を大きく見開いた。それに驚いて、レオが立ち止まる。カツッと、甲高い音が鳴り響くと、扉の隅から革靴を履いたアランが姿を現した。腰元に手を回し、カップが滑り落ちる。黒い液体が床に拡がり、由美子は激しく首を振った。それを目にして、レオは腰に置かれた手を降ろしていく。そんな様子を見届けると、銃口を由美子の背中に突き付けて、アランは卑しい笑みを浮かべていた。
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