第四章 自覚2「とんだ一日だったよ」

文字数 2,820文字

「とんだ一日だったよ」
 寝室に入ると、すぐさまシャツを脱ぎ、レオは椅子の背にそれを放り投げた。ナイトテーブルの引き出しに黒革の手帳をしまい、財布や車のキーを机に置いて、ジーンズを下ろす。窓枠に腰掛けたクロードは、煙草を取り出して、火を付けた。
「消してもいい?」
 照明スイッチに指先を触れさせながらレオが呟く。クロードが構わないという素振りを見せると室内の電灯が消えたが、互いの輪郭が見て取れる程、月光が窓から差し込んでいた。羽毛布団を開け広げたレオはベッドに滑り込み、夜風を受けた煙草の灰がひらひらと舞い上がる。
「悪かったと思っているよ。こんな旅に引き連れて」
 天井を見上げながらそう呟いたレオが横目でクロードを盗み見たが、逆光で彼の表情は見えなかった。チリチリッと音を鳴らす淡いオレンジの灯りが視界の隅で揺らめいている。天井を見つめたまま湿っぽい空気を一蹴するように、レオは口を開いた。
「前はさ、良く美術館とかに行ってたんだよ。その街にある、小さな美術館にね」
 煙草の香りが鼻先まで漂ってきたが、窓枠から言葉が返されることはなかった。
「そういうとこに行くとさ、どこにでも宗教画が飾られているんだよね。恵まれない乞食の為にイエス様がお恵みを与えたとか、身代わりになって、十字架として吊るされてしまったんだとか。どこもかしこも、そういう絵がさ、ずらっと並んでいるんだよ」
 そう語り掛けながら、レオは屋根を支える柱の木目をぼんやりと眺めていたが、瞳が暗闇に慣れず、黒い染みや太い木目を、辛うじて見分けることしか出来なかった。
「けどさ、そういう美術館を出ると、そこらで乞食達が物乞いしていたり、毛布にくるまって、家族揃って寝てたりしているんだよ。俺さぁ、そんな光景を見ていたら、なんだか、わからなくなったんだよね。美術館は絵画を買い集め、客は金を払って宗教画を見に来る。けどさ、そんな物より、外に出た方が、よっぽど絵画的で宗教じみているのに、誰もその乞食達を見つめようとしない。…それが、わからなくなってさ」
 暗順応していく瞳を通して一本の太い木目を追っていくと、それに連なる細い線が浮き出し、バラバラだと思っていた曲線が、途切れることのない一つの木目だったことに気が付く。
「ただ、俺がわからないのは、だから乞食達に恵みを与えるべきだ。とか、そういう話しじゃないんだよね。そういえばさ、俺も一度だけ、乞食に近寄って、5ユーロ差し出したことがあったんだよね。その頃は、余裕持って暮らしていた訳じゃなかったんだけど、なんだか、試しにね。初老に近い女性だったかなぁ。頭に布を捲いていたからイスラム系の移民だと思ったんだけど、聞いてみると、この国の生まれだっていって。どこかの二世なのかなって思いながら、そんな話をね、色々と掘り下げてみようと思ったんだけど。それがさ、うまく持ってかれちゃって。会話が途切れた途端に、女が子どもの写真を貼付けた段ボールを掲げながら、ここ二日間何も食べてない。別のところに子どもが寝ていて、その子もお腹をすかせている。けど、二人分のサンドイッチを買うには7ユーロ必要だ。だから、あと2ユーロ恵んでくれないか? ってね。もちろん、疑ったよ。写真には、本当に幼い子が写っているんだけど、そんな子を母親が手放していて良いのか? とか、そもそも母親と写真の子じゃぁ、歳が離れ過ぎてないか? とかさ。でも、既に5ユーロ渡しているのに、あと2ユーロ渡さないってのも、なんだか変な気がして、渡しちゃったんだよね。そしたら、そのおばさん物凄く喜んで、あなたには神様がついて下さいます。ってね。それ聞いて、俺、ちょっと可笑しく思っちゃって。だって、本当に神様がいたら、俺より、あんたに寄り添うんじゃないか? ってね」
 全体の木目を見分けられるようになると、レオはその模様をどこかで見たことがあるような気がした。ピラミッドに描かれた象形文字なのか、裏通りに殴り書きされたペイントなのか。けれども、記憶の節々に浮かび上がる像と照らし合わせても、どれにも当てはまらなかった。
「それから暫く歩いてみたんだけど、なんだか、そのおばさんと、もう少し話してみたいなって、思ってさ、また戻ってみた。そしたら、微塵も動いてないんじゃないかって思えるくらい、全く同じ場所にそのおばさんがいてさ、それで、身寄りの話しとか、どこで寝泊まりしているのか聞き出そうと思って、近寄ってみたんだよね。だって、俺は7ユーロも渡しているんだし、それくらい、話し相手になってくれても良いじゃないかって気持ちも、確かにあったよ。けどね、俺が甘かった。話し始めて物の5分もしないうちに、さっきサンドイッチを買いに行った。だけど、飲物が買えなかった。だから、あと2ユーロ頂けないでしょうか? って。さすがに参ったよ。このおばさんは、遠慮って言葉を知らないのか? ってね。だから、遠回しに色々と話して、煙草を何本かさ、渡してやって。それでもう、おばさんからは離れて行ったんだよ。けど、わかっていたよ。彼女が悪いんじゃないんだって、あっちも必死なんだからさ、遠慮なんてしていられないんだろうし。けどさ。…けど、そんなこと思っていても、段々とやり場のない憤りが湧いてきてね、俺の7ユーロは一体何だったんだろう。あのおばさんは、これからも、あぁやって物乞いしていくんだろうし、俺が7ユーロ渡してなくても、誰かが渡してたんじゃないか? とかさ。そんな、やり場のない憤りを感じてね。それでふと思ったんだよ。美術館に飾られている宗教画や、それを見に来る客達のことを。たぶん彼らも、今の俺のように、何をしたらいいのか分からないんじゃないのかな? って。善意なんてものも、売名だって罵られたり、誰かに恵もうが、ほんの一時で消化されちゃったりする訳だろ? そんなんだから、何をしたらいいのかわからなくなって、ふらっと、宗教画とかを見に来るんじゃないのかなって。そう、思えてきたんだよ」
 網膜の裏に見える白血球だろうか? 海底に沈むバクテリアだろうか? 暫くそんなことに思いを馳せていたが、物乞いする女の顔が浮かぶと、そんな妄想がどうでもよくなってきた。田舎街のとある家に使われている支柱の木目を見つめて、一体、何になるというのだろうか?
「でも、今の俺はなんか違うんだよ。その空虚感を微塵も感じない。今はやるべきことがはっきりとわかっているみたいで、やり場のない憤りなんて感じないんだよ。なんでなんだろうな。頭ではわかってるんだよ。大金が手元に入って、それを豪遊みたいに使ったって虚しいだけだよって、頭ではわかってる。…けど、なんでだろう。先の先を考えなくったっていいんだって。今、やるべきことはこれなんだって、はっきりと自覚しているような気がする。…なんでなんだろうなぁ」
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