第一章 宿命3「構わないで!!」

文字数 1,755文字

 シネマテーク・フランセーズを通り越し、土手になった階段を登り切ると、そこにセーヌ川が拡がっている。川辺の街灯がアール・ヌーヴォー調の建築物と同調し、石造りの古い橋には天使と羊が戯れる彫刻が施されていた。
 ポケットに手を入れながら、レオはその橋を渡っていく。心地よい風がさわさわと遠くの木々を揺らし、川の畔にあるレストランのテラスは仕事帰りの客で賑わっている。そんな光景を眺めていると、あの空腹感が満たされていく気もしたが、一時の快楽のようにその後の絶望感が影を潜ませているようにも思えた。
 遠くに視線を向けながら橋を渡っていると、欄干に手を添えた東洋女性に、レオは気が付いた。色白の小さな鼻に優しい頬の曲線。鋭くも少女の様な面影を残した瞳と、艶を蓄えた黒い長髪。そんな彼女は、荷物を持たずに遠くのセーヌ川を見渡していた。観光にしては身軽な格好だなと思いながら女の横を通り過ぎようとすると、どこからか穏やかな風が吹き付け、彼女のなびいた黒髪からザクロと薔薇を蒸留したような濃厚な香りが漂ってきた。
 カツッ、カツツッ。
 甲高い物音が聞こえてレオは振り返った。彼女の立っていた場所には白いローヒールのパンプスが転がり、欄干を越えた場所に人影が浮かんでいた。驚いたレオは、咄嗟に彼女のもとへと駆け寄った。
「構わないで!!」
 腕を伸ばせば触れられる距離まで近づくと、女は流暢なフランス語でそう叫んだ。
「私に構わないで。…それ以上近づいたら、飛び降りるから」
 澄んで力の籠った彼女の声は、緊張感を走らせていた。レオはむやみに近づくのをやめた。
「そこにいたら危ない。こっちに来るんだ!」
 女の表情が見えず、言葉が届いているのかわからない。彼女の気を惹く言葉を思い浮かべるが、死と直面している人間に投げ掛ける言葉なんて見つからない。
「とにかく、こっちに来るんだ!!」
 辺りに野次馬が集まり、その中から二人の白人男性が歩み寄る。彼らに手の平を向けて、レオはそれを制した。
「面倒なことになる前に。…さぁ」
 落ち着いた様子で語り掛けるレオは、そっと彼女に手を差し出した。けれども、女は漆黒のセーヌ川を見つめ続けていた。野次馬に気付いたのか、パトカーが赤い光を照らして橋の上に停車した。
「この手を取るんだ」
 更に手を突き出すと、女はゆっくりとそこに視線を向けた。赤い光を感じて、そのまま後方へと視線を送る。警官が半歩ずつ歩み寄っていた。
「さぁ」
 女の瞳をじっと見つめながらレオは言葉を投げ掛けた。彼女はもう一度水面を見つめ、再び振り返ると、そっとレオの手を握り締めた。欄干を跨ぐ彼女の足先に片手を添えて、握り締めた手に力を込める。後方に視線を送ると、野次馬や警官はその場で立ち止まり、女が欄干を越え切ると、彼らは立ち去った。レオが横になっていたパンプスを立て掛けると、女はそれに足先を滑らせた。
「…どうしたの?」
 パンプスを履き終えると、女はレオの問い掛けに耳も傾けず、俯いた姿勢で歩き始める。その横にレオが並ぶと、通り過ぎていくエンジン音の隙間から、すすり泣く声が聞こえてきた。抑えきれず激しく泣き出すと、彼女は立ち止まった。
「…ごめんなさい」
 息を整えながら擦れ漏れる声でそう呟く。
「ごめんなさい」
 肩を小刻みに震えさせ、黒髪が揺れている。
「送るよ」
 握り直した女の手は、冷たくか弱そうな指をしていると、レオは思った。すすり泣くのが落ち着くと、再び二人は歩み始めた。
 集合住宅の一角に差し掛かり、由美子と名乗った彼女のアパートメントに辿り着いた。白い外壁に四階建てのそのアパートは、飾り気もなく質素な佇まいだった。
「絵を描いたり、彫刻を作ったりしている」
 別れられずにいた沈黙を破るように、レオが呟く。俯きがちな由美子が彼の瞳を覗き込む。
「…ねぇ。私達、また会えるかな?」
 その言葉を耳にすると、レオは優しく頬を緩めた。
「それなら、明日の十七時。あの橋の上でどうかな?」
 由美子がそう問い掛けると、レオは小さく頷いた。頬にキスを送ると、由美子は手を振りながらアパートへと向かっていく。ザクロと薔薇を蒸留したような濃厚な香りを漂わせ、彼女は玄関の奥へと姿を消した。
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