第十二章 空港にて1「早く、この国を出た方が賢明でしょ?」

文字数 2,070文字

 瞼を開けると、髪を整えた由美子がこちらを覗き込んでいた。気だるく瞳をこすると、自分がソファーで寝ていることに、レオは気が付いた。…さぁ、準備して。由美子に肩を揺すられると、両手で顔を覆ってあくびをする。指の隙間から、バスルームへと向かう由美子の後ろ姿が見えた。身体を起こし上げて、ソファーに腰掛けると、レオは髪を掻き上げながらローテーブルを見渡した。ワイングラスには赤い液体がこびり付き、萎れたレタスと生ハムを挟んだサンドウィッチの欠片がブレッドボードに置かれている。チーズの梱包に、飲みかけのウィスキーグラス。ビールの空き瓶や、マスタードの容器や、吸い殻の溜まったガラスの灰皿。…映画、何見ようか? 水の流れる音を耳にすると、レオはバスルームに向かって呟いた。開け放たれた窓辺から青白い陽光が入り込み、寝室の扉は閉じられていた。…バカね。そう呟くと、歯ブラシを咥えた由美子がバスルームから顔を出す。
「早く、この国を出た方が賢明でしょ?」
 部屋のテレビで、アランの屋敷や逃亡犯の情報を確認しようとしたが、政党の支持率やサッカーの試合結果や天気予報が流されているだけで、どのチャンネルもそれらを扱っていなかった。けれども、服装を変えようと由美子が提案し、メイン会場近くのブティックでジャケットやサングラスや帽子を買い込むと、鞄屋でリュックサックやキャリーバックを購入した。そのバックに衣服を詰め込んで鞄屋を出ると、通りの劇場には多くの客達が列をなしていた。
「大金を抱えて、国外に逃げようとする奴らがすぐそばに居るなんて、あいつら、思ってもみないだろうな」
 彼らを眺めながら、レオがクロードに話し掛けると、人は思っている程、他人に関心を持たない。と呟き、クロードは車を停めてある路地裏へと向かった。
「…そうかもね。俺もあいつらがどんな生活をしてようが、関係ないしね」
 …勝手にしやがれ。頭の中でそんな台詞を吐き捨てると、レオは路地裏へと歩み始めた。
 外から見たコート・ダジュール空港のターミナルは逆さにした円錐のような形で、それら一面をガラスで覆われていた。一階の滑走路側は機体とターミナル間を繋ぐ車が出入りし、その反対側が乗客の出入り口となっている。
 人目の付かない場所に車を停め、レオ達は購入した服に着替え始めた。ボーダーの白いシャツに黒のレザージャケットを着込んだ由美子は、首元に黄金の薄いストールを巻き、つばの付いた黒のフェルト帽子と深紅のショルダーバックを身に付け、黒縁の大きなサングラスを掛けている。肩から腕元までゆったりとした白のワイシャツを着込んだレオは、膝元まで丈のある薄手の黒い外套を羽織り、首元には薄水色と黒のストールを二本巻いて、薄紫のシャドーが入った丸枠のサングラスを掛けた。ブティックで面倒臭そうに服を選んでいたクロードも、黄色と茶色のチェックのシャツにミリタリージャケットを羽織り、意外と様になっている。確認の為にフロントガラスの前に3人で並んでみると、まるで素性を隠す人気ロックバンドのようだと、レオは思った。
 自動ドアを抜けると、行き先や機体名やフライト時間を表示している細長い液晶画面があり、フライトバックを握り締めたレオは、真っ先にそれに目を通した。上から順に眺めていくと、イタリアのフィレンツェ行きは一時間半後の12:35発で、その前後には12:10にイギリスのロンドン行き、12:50にスペインのバルセロナ行きがあり、どれも席に余裕はあった。由美子がレオの隣に並ぶと、バルセロナは国境検査を受けないで済むよね。と呟いて、すぐさま2人のスペイン行きが決まった。
 発券カウンターでフィレンツェ行きを一枚、バルセロナ行きを二枚取得すると、服を詰め込んだバックを預け、搭乗手続きを済ませた。エスカレーターで二階フロアに出ると、ベンチはフライト待ちの人々で埋まっていて、人目を避ける為に、フロア隅の共有ラウンジに向かっていく。
 ラウンジには雑誌を拡げられる程度のテーブルが15近くあったが、新聞に目を落とす初老の女性しかいなかった。中央のカウンターにはコーヒーメーカーが設置され、フィナンシェやワッフルや小分けされたナッツが並んでいる。それらを眺めながら奥の席へと歩いていると、朝から何も食べていないことに、レオは気が付いた。席に近づくと、それを察したように由美子が問い掛ける。
「サンドウィッチでも買いに行こうと思うけど、なにかいる?」
「そうだなぁ、軽めのだと嬉しいけど」
「あなたは?」
 隣のクロードに問い掛ける。
「同じ物で」
「わかった。じゃぁ、ちょっと、行ってくるね」
 閑散とした室内には観葉植物が点在し、壁には夜景のエッフェル塔や熱帯魚の写真が飾られている。ソファーに腰掛けて、それらを眺め回すと、レオはラウンジから出て行く由美子の後ろ姿を目で追った。すると、窓の先で雲間に向けて飛び立つ旅客機が目に入る。その機体が大空に吸い込まれていく様子を、呆然とレオは眺めていた。
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