第七章 歪んだ現実4「…あなた達、クラウンフィッシュはご存知?」

文字数 2,390文字

「…あの研究?」
 レオがそう呟くと、二人は一瞬息を飲むような戸惑いを見せた。そんな彼らを見て、レオは不快感に潜んでいる物を感じ取った。ジャックが畏まった口調を貫き通すのも、ピエールが場を和ませるような相槌を打つのも、突然の訪問客に対して敬意を払っている訳でもなく、こちらの挙動をつぶさに確認しながら相手を査定しているのだろうと、レオは思った。ふるいに掛ける視線が、不快感を生み出している。
「あなた達、もしかして何も知らないの?」
 ここに来た目的をレオは頭の中で確認した。恐らく、彼らは薬のことに勘付いているのだろう。けれども、こちらの用件を聞こうともせず、アランの話しを披露したのは、自分達の正体を探っているに違いない。
「…えぇ、そのような話しは、聞いていなくて…」
 無知な子どものように振る舞うべきだと思って、レオはそう呟いた。知らないことを隠し通すと、必ず不信感を抱かれる。すると、ピエールがジャックに身体を寄せて耳元で何か囁き始めた。ジントニックを空けた由美子は彼らの様子を注意深く見つめ、クロードは相変わらずコロナの瓶に視線を落としていた。ピエールが話し終えるとすぐさまジャックが耳打ちし、彼らは同意を得たように座り直した。
「…あなた達、クラウンフィッシュはご存知?」
 意表を突くような名称を耳にして、レオは戸惑いを見せた。
「なんですか? その、なんとかフィッシュというのは?」
「クラウンフィッシュよ。名前の通り魚の一種で、オーストラリア北東部からインド太平洋にかけて分布する海水魚のこと。ほら、イソギンチャクと共生して、オレンジと白の模様で有名じゃない。見たら、すぐにわかると思うわ」
 イソギンチャクと共生と聞いて、アニメ映画のモデルとして描かれた魚のことだろうと、レオは思った。
「それが、どうかしたのでしょうか?」
「あなた、その魚がどうやって子どもを産むのか、想像できないでしょ?」
「…はい。そのように質問するということは、何か特殊なのでしょうか?」
 先を見越したレオの質問に、顎を上向かせ、ピエールが洞察を深めた視線でレオを見返した。
「クラウンフィッシュは、イソギンチャクの中に数匹の群れを作って生息しているの。その中には一匹だけ雌がいて、他は全て雄。そして、一番大きい雄だけが交尾を許される。ここまでは、他の生物にも見られる子孫継承のやり方でしょ。けどね、クラウンフィッシュが他と大きく異なるのは、雄性先熟と言うんだけど、雌がそこから居なくなると、残された一番大きな雄が雌へと性転換するの。そして、二番目に大きかった雄に子孫継承の権利が与えられる。その循環でクラウンフィッシュは繁殖を行っているの」
 そこまで聞いても、クラウンフィッシュとアランとの間にどんな関係があるのか、レオには全く検討も付かなかった。
「…すみません。繰り返しになってしまうのですが、その魚がどうかしたのでしょうか?」
「確かに、この話しを聞いただけじゃ、さっぱりよね」
 笑いながらそう呟くと、ピエールはペリエを口にした。喉を潤し、話し出す順番を整理するように、瓶をゆっくりとテーブルに置く。
「あなたのお兄さんは、サイトウというES細胞の研究者を抱えている。この話しを知らないってことは、会ったこともないでしょ?」
 レオは静かに頷いた。
「その彼が雄性先熟の構造を解明して、それをヒトにも応用できないか? って、考え始めたの。なんとなく、話しの筋が見えてきたんじゃない?」
 クラウンフィッシュ、雄性先熟、サイトウ、ES細胞という単語を頭の中で繰り返していくと、レオはシルバーの指輪を思い出した。
「あなた達のどちらかが被験者になって、雄性先熟の性質を取り入れようとしている。つまり、生殖機能を備えた女性になる。…そういうことでしょうか?」
 ピエールが象牙のように肌白い指先を、レオに差し向けた。
「…ビンゴ」
 その動作を一目見ると、クロードは再びコロナの瓶に視線を戻した。
「…けど、そんなことが可能なのでしょうか?」
「それが、科学の発展で可能になったのよ」
「でも、もし、本当に可能だとしたら、それはノーベル賞級の発見ですよね。けれども、そんな話し聞いたこともないですし。それに、どうしてサイトウという人間がアランのもとで研究を行っているのか、そこもよくわからないです」
 困惑した口調でレオが問い掛けると、身体を前に傾けて、ジャックが口を開いた。
「…それには、ちょっとした問題がありまして」
 改まったジャックの口調が、交渉を進める外交官のようだと、レオは思った。
「雄性先熟の構造解明によって、それに必要な細胞を特定するまでは良かったんです。けれども、それを如何にヒトの体内に融合させるかが問題でした。臓器移植を行うことによって、患者の体内から拒絶反応が出てしまうのはご存知かと思います。それがまして、魚の細胞をヒトの体内に取り入れる訳ですから、そこには大きな壁がありました。ですが、それを可能にしたのがES細胞です。そもそもES細胞とは人間の受精卵に含まれる細胞を取り出し、特定の方法で培養し続けると、他の組織への分化や臓器へと成長する夢のような細胞です。サイトウは、そんなES細胞とクラウンフィッシュの細胞を融合させることを思いつき、それを実現させたのです。そうして産まれた融合ES細胞をある程度の大きさまで培養し、それをヒトの精巣の未分化生殖腺に移植すると、卵巣へと分化することがわかったのです」
 レオは、臓器移植によって拒絶反応が出てしまう。という冒頭しか理解できず、その先の話しがさっぱりわからなかった。
「…つまり、何が問題なのでしょうか?」
 交渉の切り札を差し出すかのように、ジャックが口を開く。
「人間の受精卵ですよ」
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