第九章 解かれた関係1「…停めて」

文字数 3,156文字

 視界が霞む。瞳が乾いているのかと思い、レオはハンドルに手を掛けながら窓を閉めた。高速に乗ることも出来たが、海を眺めたくて海岸沿いに車を走らせている。陽光に彩られた海面には何隻ものヨットが浮かび、上空では白い鳥達が魚を狙っていた。そんな様子を遠目に眺めていても、病み上がりのような霞が消えることもなく、それは瞳を擦っても変わらなかった。徐に煙草に火を付ける。微かに開けた窓の隙間から煙を吐き捨てようとしたが、外から吹き付ける風がそれを追いやり、煙は車内を巡るように浮遊していた。
 黒縁の大きなサングラス。切り抜いてポケットに詰め込んだ新聞記事が頭の中で漂い続けている。巡り回る煙の先で、レオは助手席に腰掛ける由美子を盗み見た。サングラスに覆われた彼女の瞳は、閉じられているのか、どこかを見つめているのか、わからなかった。
 道なりが緩やかなカーブを描くと、砂浜に佇むビキニ姿の女や、海面に浮遊する男達を遠ざけていく。傾斜の緩い坂道を登ると、大きな岩山が立ちはだかり、海岸は見えなくなった。
 ストロベリーのような鼻の形に、湿っぽいピンクの唇。透き通り、鋭利なナイフのように発せられる声と、子猫のように愛撫を求める優しい視線。今まで思い描いていた由美子の姿を、レオは頭の中で表象した。けれども、それらは由美子を形作っているのかもしれないが、それだけでは表象し尽くせない。拭い去ることの出来ない孤独をまとい、自己を見失わない為に、必死に何かを希求する日本人女性。そんな形容も彼女の一部分でしかない。
 岩山を過ぎ去ると、再び海岸が姿を現した。港から離れたその場所は、珊瑚を敷き詰めた乳白色の浜辺が見渡す限り続いていた。
 新聞に写し出されたあの女性は、一点を見据えて語り掛けるニュースキャスターとか、着飾った服でコレクションの舞台を歩くモデルとか、小銭を投げ入れたら動き出すパントマイムとか、そういう記号化されたコンテンツの一部のように、全く現実感がなかった。それにあの記事は、亀裂の入った水晶玉を眺めるように、実体を不確かな物へと変容させた。それはまるで、由美子という女性を、映画や戯曲に描かれる虚構の住人へと作り替えていく。
「…停めて」
 エンジン音に掻き消されるような声で、由美子が囁く。
「どうしたの?」
「いいから、停めて。…早く、停めてよ!!」
 突如と荒げるその声は、動揺を押し殺す彼女の心情を垣間見せていた。車を路肩に停めると、サングラスを外して、外に出る。そして、海岸に向かって歩き始めた。エンジンを切って彼女の後ろ姿を眺めていると、フロントミラー越しに、レオはクロードの視線に気が付いた。それを見返すと、どこか不吉な思いが込み上げて、レオはすぐさまドアノブに手を掛けた。
 雪を踏み締めるように、レオはザクザクと音を鳴らしながら珊瑚の浜を歩いて行く。すると、岸辺に辿り着いた由美子が、ポケットから何かを取り出した。手にしている物を眺めると、それを海に投げ捨てる。太陽の反射でそれが彼女の電話だと、レオは気が付いた。
「なぁ、どうしたんだよ」
 浜に足を取られながら、レオは声を挙げた。
「車に戻ろう。…もう、遠くないし」
 海中を見つめる彼女の黒髪を、潮風がなびかせる。
「あっちに着いたら、ホテルでも取ってさ、ゆっくり食事でもして」
 そういって歩み寄ると、レオは由美子の肩に手を伸ばした。
「…だからさ、車に戻ろう」
 物柔らかい彼女の肩は震えていた。その手を払い除け、振り返る。
「…ねぇ、どうしてこんな旅、始めたの?」
 永遠に眠る恋人へと問い掛けるように、由美子は囁いた。
「…何の為に? …どんな目的で?」
「もう、そんなの考えるのは、やめようよ」
 レオがそう答えると、由美子は鼻で笑った。
「…あなたは、いいよね。…何も偽らず、無邪気でいられて」
 その声は、目の前から立ち去ろうとする彼女の姿を連想させ、レオは視線を落とした。
「…あなた、どうして私を助けたの?」
 再び視線を上げると、行き場を無くした子猫のように由美子は怯えていた。その姿を見つめていると、あの日の彼女もそんな姿を滲ませていたのだろうか? と、レオは思った。
「…私は、…使い捨ての存在…。…どうせ…誰だっていいの…。…それなのに、…どうして?」
 橋の欄干に立つあの日の彼女も、こんなにも怯えていたのだろうか?
「…そうよ。どうせ人は、人を利用することしか考えていない。…そうして、壊れ始めたら、取り替えればいいの…。…それを…、…それを、どうして助けたの!? あそこで、全てを終わらせることが出来たのに、どうして助けたのよ!!」
 声を荒げる由美子の肩に、レオが手を伸ばした。
「なぁ、なに言ってんだよ。…落ち着けよ、由美子!」
 その手を払い除け、レオを突き放す。
「やめてよ!! どうせあなたも、私を利用する事しか考えてないんでしょ? そうでもなければ、こんな旅に引き連れようなんて思わない。…そうでしょ? …ねぇ、そうなんでしょ?」
 彼女の瞳は涙に溢れていた。すると、新聞の女が脳裏に過ぎる。
「…ねぇ、そうでしょ? …黙ってないで、…何かいってよ!!」
 目の前の女性の肌の質感や匂いや思想。それらを消し去り、形骸化させる。それに気付かずに、自分はあの新聞記事を受け入れようとしていた。
「…ねぇ、何かいってよ……」
 あの日、あんなにも近くにいた彼女の事も、自分にはわからない。怯えていたのか、嘲笑っていたのか、死を希求していのか、わからない。それにも関わらず、誰かが記した不確かな情報を通して、自分は彼女を見極めようとしていた。そう自問しながら、レオはゆっくりと腰に手を回す。
「…ねぇ…」
 けれども、そんな情報がまかり通っている世界に、嫌気を感じていたのではないのだろうか? 誰かに刻印された曖昧なレッテルを剥ぎ取りたくて、車を奪い去ったのではないのだろうか? 不確かな世界を偽りの言葉で丸め包み、再び、混沌とした世界を形作っていく。そんな輪郭の曖昧な世界から、逃げ出したかったのではないのだろうか?
 腰から手を抜き取ると、レオはGlock18を差し出した。
「…それなら、この銃で俺を撃ってよ」
 瞳を濡らした由美子が、その銃を見つめている。
「さぁ…」
 涙を拭うと、由美子は徐に銃を受け取り、親指をハンマーに掛けた。呼吸を押し止め、銃口を差し向ける。リアサイトを通して見つめる彼女の瞳が、曖昧な空間に風穴を開けるようだと、レオは思った。それを見届けると、ゆっくりと瞳を閉ざす。
「ごめんね…」
 許しの言葉が身体の隅々に染み渡り、細胞を愛撫するかのようだと、レオは思った。引き金が引かれ、銃声が鳴り響く。…もしかしたら、こんな感覚を、今まで求めていたのだろうか?
 瞳を開けると、由美子は片腕を突き上げていた。遠くの空に反響音が消えていくと、彼女は膝元から崩れ落ちた。
「…ごめんね。」
 腰を降ろすと、珊瑚の欠片を呆然と見つめる由美子を、レオは抱き寄せた。
「…ねぇ、ごめん。…ごめんね」
 暗闇へと埋もれていく由美子を引き戻すように、強く抱き締める。嗚咽を漏らし、由美子は泣いている。黒髪に触れ、体温を感じようと頬を近づけた。潮風で冷え切ったその頬は、触れ合うのを怖れるかのように震えている。黒髪に手を滑り込ませ、優しく愛撫する。すると由美子は、ゆっくりと背中を抱き寄せ、温もりを求めるようにレオの首筋に顔を埋めた。由美子の震えを包み込み、体温を分け合う。潮風が吹き付け、レオは視線を上向かせた。するとそこには、彼方に続く海原が、偽りもなく澄んだ景色を映し出していた。
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