第五章 不誠実1「お願いだから、早く消してよ…」

文字数 2,031文字

 瞳を開けると視界をシャドーするように煙に包まれていた。焦げ臭さが鼻を刺し左肩から熱波が吹き付ける。そこに視線を向けると、垂れ下がった髪に炎の塊が纏わり付いて、それが迫っていた。セレナは驚いて炎を振り消そうとしたが、両腕が椅子に縛り付けられ、身動きが取れなかった。必死に頭を振り回すが、炎はみるみると上昇し、皮膚を焼いていく。
「誰か!! 誰か、居ないの?」
 煙を振り払いながら、雲間に覗く月を探すように周囲を見渡した。煙が喉に入り込み、痺れるように目が痛む。そんな様子を鑑賞している気配を感じて、木製机に視線を向ける。机に寄り掛かる紺色のスーツに、胸元から覗かせる赤いネクタイ。…アランだ。
「あなた、なに見てるの? 早く消してよ!!」
 涙を浮かべてそう叫ぶが、アランは水槽の魚を眺めるようにセレナを見つめていた。ジャック・ダニエルを手に取って、グラスに注ぐ。
「ねぇ、お願い。お願いだから、早く消してよ…」
 上昇した炎が頬を焼いていく。顔を振り回しても、脂を得た炎はすぐさま耳朶へと達した。
「セーヌ川の近くに、メリーゴーランドのある公園を知っているか?」
 灰と化した髪が深紅の絨毯に溜まっていく。そんな様子を気に掛けることもなく、世間話を始めるようにそう呟くと、アランはグラスに注がれたウィスキーを一息に飲み干した。
「あそこは、数年前まで資産家が暮らす大きな屋敷だった。けど、火事に見舞われてね。原因はメイドがゆで卵を作っているのを忘れていたとか、そんなものだけど。…本当、残念だよ。アール・ヌーヴォー調の素晴らしい建物だったのに」
 耳朶の炎を肩で挟み込もうと、セレナは頭を傾けた。燃えただれる痛みに耐えながら炎の根を塞ぎ込む。頬の炎は未だに息吹いているが、セレナは一時の安堵を感じた。そうして、肩を降ろしながら頭を戻していく。
「火事の現場に立ち会ったが、それは酷い物だった。屋敷の外で夫人らしき女が、中に娘がいる。って泣きじゃくたりしてね。それに、駆けつけた消防隊員がホースを構えても、僅かな水しか出なかった。全く、滑稽な有り様だったよ。消防隊が放水車を蹴り付けたりしていてね」
 チューイングガムを引き延ばす映像が脳裏に浮かんだ。セレナは不吉な思いを抱きながら、自分の肩に視線を向ける。そこには、炎の揺らめきを映り込ませたエメラルドグリーンのイヤリングが、焼け落ちた耳朶と共に張り付いていた。
「…お願いだから、早く消してよ!」
 セレナの懇願をかき消すように、アランは頬を紅潮させながら語り続ける。
「そんな状況に呆れた若い隊員が、ヘルメットを脱ぎ捨てて燃え上がる屋敷へと駆け出したんだ。長身の白人で、甘いフェイスに強い意思を感じたよ。丁度、若い頃のジェラール・ドパリュデューのようにね。その男は他の隊員が止めるのを振り切り、アクション映画さながら屋敷の中へ飛び込んでいった。夫人は祈るように見守り、俺を含めた野次馬達もその様子を見つめていた。そして、とても長い時間が流れた。夫人が跪いて十字を切り始めると、三階の部屋から窓を打ち破って椅子が落ちた。部屋からは物凄い量の煙が放たれ、男が昏睡状態の少女を抱えて姿を現した。野次馬達は歓声を挙げ、夫人は涙ながら地面に口づけしていた。けれども、あの煙を見た俺は、少女がどんな部屋で取り残されていたか想像してみた。正直、助かるかどうか、フィフティーフィフティーだと思ったよ。男もその事をわかっていたんだろう。あんな煙に包まれていたら、自分も直ぐに意識を失うと。…だから窓を打ち破った。そうして、少女を抱えた男は深呼吸を繰り返し、思い立ったように部屋へと戻っていった。他の隊員達は酸素ボンベを取り出し、調子を取り戻したホースで水を放った。もちろん、男の経路を塞がないようにね」
 炎は左の髪を綺麗に燃え去ってから、頭上へと引火していく。滴る脂が火の粉をちりばめたレースシャツに付着すると、増殖する癌細胞のように燃え拡がった。翅に紫模様を携えた蝶がブラジャーに刺繍され、炎が肩紐を燃やし切ると、乳房を露わにさせた。
「翌日の新聞は、彼のことを大きく取り上げた。助け出された少女も意識を取り戻し、まさに英雄そのものだった。けれども、彼は至って冷静に状況を分析していた。インタビュー記事にはこう記されていたんだ。全身の20%の火傷で重傷を負い、50%で死亡の危険がある。僕は首から下に消防服を着ていたし、顔は全身の10%にも満たない。もたもたして消防服を燃やし切ったら話しは別だけど、必ず助けられるって自信はあったんだ。むしろ火傷より恐ろしかったのは、煙による一酸化中毒なんだ。…ってね」
 高熱を保った頬の脂が顎へと伝わり、溶かしたチョコレートを垂らすように乳輪へと滴る。痛みの余り背中を反らそうとするが、身動きが出来ず、脂から逃れられなかった。
「早く消して。…もう十分じゃない、…早く消してよ」
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み