第一章 宿命5「…あまり期待するな」

文字数 2,344文字

 微かな足音を頼りに裏庭へ回ると、芝生には薄いピンクの花びらが散っていた。甘酸っぱい香りが辺りに漂い、レオはその先に視線を送った。シャワーヘッドを付けたホースを手にして、クロードと思われる男は、自分の背丈より少しだけ高い木に水を撒いていた。四方に突き出た枝をかいくぐりながら、幹にまんべんなく降り注いでいる。レオが歩み寄っていくと、男はレバーを離して水を止めた。
「四月になると花を咲かせる。薄いピンクの花びらに、赤紫のつぼみを付けて」
 男が独り言のように呟き、レオはそれを聞き取ろうと更に歩み寄った。
「九月から十一月には果実を実らせ、豊潤な実になると枝から落ちていく。そうして季節が巡って、また花を咲かせる」
 その言葉を聞きながら、レオは芝生に落ちていた花びらを拾った。皺を伸ばすように拡げると、細い筋が花びらの先端まで伸びていた。
「けれども、果実が実と人は自分たちの成果だと思い込んで、もぎり取る。…それをどう思う?」
 不意に男が語り掛けた。花びらを捨てると、指先から微かな甘い香りが漂い、脳裏に由美子の表情を浮かび上がらせたが、それはすぐさま消えていった。
「けど、誰かが水を与えないと枯れてしまうでしょ?」
 レオが語り掛けると、男はすぐさま口を開いた。
「水が無ければ地中深くまで根を張っていく」
「…それじゃぁ、つまり、人には干渉できないってこと?」
「干渉なんてできない。それは植物に限らないけど…」
 一度木を見つめると、レオは再び彼に視線を向けた。
「…だとしたら、両親が俺達を捨てたのはどう思う?」
 そう告げるとクロードは口を閉ざした。
「考え方によったら、あれも一種の干渉だよね。それはどう受け止めるべきだと思う?」
 幹に視線を送り、こびり付いていた土を、クロードは指先で擦り落とした。手を払って優しく幹に触れると、彼はレオの横を通り過ぎようとする。
「俺だよ、レオだ。お前の弟のレオだよ。仕事の関係で、この屋敷に出入りするようになった」
 背を向けたままクロードは立ち止まった。
「なぁ、どうしてあんな部屋にいるんだ? それに、アランもそのことを隠したがっている。…何かあったのか?」
 深く息を吐き捨てると、クロードが振り返る。
「一つだけ伝えておく」
 消え入るような声で彼が呟く。
「…あまり期待するな」

 扉を開けると、ローテーブルに書類を拡げてアランがソファーに腰掛けていた。レオが向き合うように座ると、彼は書類に視線を落としたまま煙草に手を伸ばした。
「何か飲む?」
 盗み見るように、レオも書類に視線を送る。
「…いやっ、大丈夫」
 そこには、人工多能性幹細胞や再生医療技術など見慣れない言葉が綴られていた。覗かれているのに気付いたのか、アランは煙草を取り出すのをやめて、書類をまとめ始めた。
「裏庭にリンゴの木を植えていたんだね。今まで気付かなかったよ」
 アランの様子を伺うように語り掛けると、彼は書類を抱えて屏風の裏へと向かった。
「この土地を買ったとき、既に植えられていたんだよ。抜いてしまおうかって思ったんだけどね」
 姿を消すと、グラスと瓶のぶつかる音が聞こえてくる。
「今は、庭師が手入れしてくれているよ」
 そう言いながら、アランはウィスキーグラスを手にして姿を現した。
「さっき、その庭師に会ったよ」
 レオが鋭い視線でアランを見つめる。動じる様子もなく、彼はウィスキーを口にした。
「どうだった? 久しぶりの兄弟の再会は?」
「どうして黙っていたの? それにあんな隔離した部屋に入れて」
「話す必要があるか?」
「あるでしょ。兄弟のことなんだから」
 それを聞くと、アランが鼻で笑った。
「長いこと音信不通だった奴が、よくいうよ」
 何も言い返すことが出来ず、レオは口を閉ざした。煙草に火を付けると、アランはスピーカーの置かれた棚にもたれた。
「今の病状じゃぁ、放っておくことは出来ない」
「病状って?」
 問い掛けるようにレオが呟く。
「統合失調症」
「…統合失調症?」
 その言葉を聞いて、レオはいつか観たドキュメンタリー番組を思い出した。その番組の中で、統合失調症の患者が医師の質問に答えていく場面があった。ある日、目に見えない声たちが聞こえ、彼らは宇宙船が迎えに来たと言った。私はそれを信じ込み、宇宙船が迎えに来た為に会社を辞めると上司に相談して、その上司に病院に連れられても、そこが宇宙船の中だと信じて疑わなかった。質問を受ける四、五十代の患者は、そんなことを語っていた。
「でも、さっき話したときは、そんな様子はなかったけど」
「薬を飲めば割と落ち着いている。…けど、それが切れるとパニックを引き起こす」
「それでも、あんな部屋に入れなくてもいいでしょ? せめて、相談ぐらいしてくれたって…」
 アランが鋭く睨み付けた。
「相談? お前に相談してどうするって言うんだよ? 金も無く、のこのこと俺のところに来た身だろ? そんなのに相談して何になるんだ?」
「けど、あれじゃあ、末期の病人扱いだよ」
「あいつには知人もいなければ、他に頼れる身よりもいない。だから、ここで過ごしている方が彼の為なんだよ。それに、俺があいつを受け入れた。何も知らないお前が口出しなんかするな」
 自分の境遇が足枷となり、レオは再び口を閉ざした。頬を紅潮させたアランが、グラスを口元に近づけていく。
「俺達は定められていたんだよ。…始めから、何もかもね」
 そういってウィスキーを口にした彼の瞳は、定めから逃れられないことを悟っているかのように、レオには思えた。やり場のない憤りを感じ、レオは飛び出すように部屋から出て行った。
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