第三章 秘密4「悪いが他の店を…」

文字数 1,347文字

 どんよりとした雲が辺り一面を覆っていた。レンガ造りの歩道が連なり、街路樹を薄汚れた住宅が取り囲んでいる。周囲を見回しながら歩道を歩いていると、ガブリエル・ペリと書かれた標識を目にして、由美子は自分の降り立った駅名を知った。
 車道にぶつかり、果物屋が目に止まる。リンゴやオレンジやライチ、小ぶりのメロンや色とりどりの野菜が店先に並べられている。鮮やかな色味を遮るように、由美子は深紅のショルダーバックから黒縁の大きなサングラスを取り出した。
 薄汚れた住宅が憂鬱な空と同化し、そんな街中で誰かに受け渡す宛もないピンクの薔薇を握り締めている。自分の姿を思い浮かべると、由美子は鼻で笑った。花の都と呼ばれるパリに移り住み、恋人を作って週末にはオペラでも鑑賞する。そんな生活を思い描いていたの? そう自分に語り掛けていくと、滑稽な思いに包まれていく。すると、交差点の先に赤地に黒の水玉シャツを着たラリーの姿が目に入った。由美子は咄嗟に路地裏に身を隠した。車道を渡ると、ラリーはファーストフード店の扉を開ける。その様子を遠くで見届けると、由美子はピンクの薔薇を家の外壁に立て掛けた。レインコートの襟を立て、店先へと歩み寄る。
 額に手を添えながらガラス張りの店内を見渡した。壁掛けのテレビにはサッカー中継が流され、パーカーやTシャツ姿の黒人達がコーラを片手にそれを眺めている。その中にラリーの姿はなかった。警戒心を抱きつつも、由美子は店の扉を開けた。
「スプライトをお願い」
 レインコートにサングラス姿の由美子がカウンターへ向かうと、男達が視線を向けていた。油で薄汚れたポロシャツ姿の太った白人男性に注文を伝える。アナウンサーが熱を帯びた声を上げて、男達が視線を戻した。一段高くなったカウンターから由美子を見下すと、店員は冷蔵庫からスプライトを取り出した。
「ねぇ、男が来なかった? 柄のシャツに、十字架のネックレスをぶら下げた」
 小銭を受け渡しながらそう呟くと、店員は品定めするように由美子を眺め回した。
「いやっ、そんな男は来てないが…」
 深追いしないよう由美子は口を閉ざした。ポケットに手を入れて店内を見回す。
「悪いが、他の店を…」
 店員の言葉に振り返ろうとしたとき、反射した光がサングラスの隙間に入り込む。由美子は瞬時に身を伏せた。銃声が鳴り響き、割れた窓ガラスが滝のように崩れ落ちる。カウンターの影に飛び込むと、黒人達の叫び声が挙がる。ガラスを蹴り破り、誰かが店内に入り込んだ。女は!? 女はどこだ!! ハイヒールを脱ぎ捨て、由美子は厨房へと掛け出した。冷蔵庫が撃ち抜かれ、プシュッと音をあげて炭酸が吹き荒れる。厨房にはヒスパニック系の男達がエプロンを着込んで立ち尽くしていた。過ぎ去る由美子を目で追っていると、フライパンや小麦粉やパプリカに銃弾が当たり、彼らは身を伏せた。角を折れ、由美子が扉を開け放つ。
 薄暗い路地裏には、網目状の小道が拡がっていた。無作為にバラックの角を曲がっていく。腐食した卵のような臭いが鼻を刺し、ヘドロが足の指間に入り込む。どこからか赤子の泣き声が挙がり、遠くから足音が鳴り響く。錆び付いた鉄条網をよじ登ると、由美子は廃墟と化した病院へと駆け込んだ。
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