第十一章 美しい時間3「…クロードが決めたんだよ」

文字数 3,001文字

「一緒に、イタリア行ってもいいんじゃない?」
 ウィスキーやジンを次々とカートに入れていくレオに、由美子が語り掛ける。何も答えず、レオは赤ワインのラベルに視線を落とした。
「それに、少し心配じゃない? 彼、一人で行かせるの…」
 それをカートに入れると、棚を見渡して歩き出す。由美子はその後をついて行った。
「…どうして、そう思うの?」
 チーズを並べた冷蔵棚の前で立ち止まると、レオは呟いた。
「病気のこと。だって、薬飲んでいるってことは、完治してないんでしょ? そんな人、一人で行かせるなんて…」
「今まで問題あった?」
「…でも、それは…」
「…クロードが決めたんだよ」
 モッツァレアチーズを手にすると、レオが由美子と向き合う。
「病気とか、そんなの関係ないよ。誰がどういうともクロードが決めたんだ。それを止めることはできないし、一緒に行ったって無駄だよ」
 レオの力の籠もった眼差しを見て、由美子は口を閉ざした。
「それに、クロードに必要なのは、薬だけじゃない。もちろん、あの病気には薬を飲み続けることは大切だよ。…けど、それだけじゃ、ダメなんだよ。…絶対に、それだけじゃ」
 そういうと、モッツァレアチーズをカートに入れて、レオは再び歩き始めた。初めてレオの口から否定を告げられ、胸元に寒風が透き通るような寂しさを、由美子は感じた。それを拭い去る事も出来ずに、レオについて行く。チョコレートを二つカートに投げ入れると、由美子は戯けるように微笑みを浮ばせた。

「あれ、クロードは?」
 外の陽は落ち掛けていた。両腕に紙袋を携えた由美子が、それをキッチンに置きながら問い掛ける。瓶の埋まった紙袋を抱えるレオが、口に咥えていたキーをソファーに落とす。
「直ぐに帰って来るよ。その前に準備しちゃおう」
 リュックサックを目にすると、そう声を挙げながら、レオはローテーブルに瓶を並べる。その中からジャック・ダニエルを手に取って、キッチンへと向かった。コンロの火を確かめていた由美子の後ろを通り抜け、洋梨型のグラスにウィスキーを注いでいく。
「サワークリーム、アボガド、トマトに、タコス味のチップス。これでディップでも作ろう」
 皿やスプーンを抱える由美子にグラスを受け渡すと、レオは紙袋を覗いてそう呟いた。
「それに、レタスとモッツャレア・チーズと、君の大好きな生ハムでサンドウィッチ。そうだ、由美子。シャワー浴びてきなよ。こっちやっておくからさ」
 唇に触れさせるようにウィスキーを舐めながら、由美子はリビングへと向かった。
「ねぇ、さっき買ったコーラは?」
「そっちに置いてない?」
 瓶を並べたローテーブルを眺め回す。
「こっちはアルコールだけ。そっち、ある?」
 そういって瓶を除けると、由美子は皿やスプーンを並べた。
「お探しの物は、これかな?」
 壁から顔を覗かせたレオが、コーラのペットボトルを掲げてそう呟いた。
「ありがとう。…ねぇ、本当に良いの? シャワー浴びちゃっても」
 グラスを片手に由美子が歩み寄ると、レオはコーラを注ぎ始めた。炭酸が心地よく弾けている。その様子を眺めていると、この空間がまるでCMのようだと、由美子は思った。すると、カメラに切り取られた映像のように、誰かが私達を見つめる視点が脳裏に過ぎった。
「大丈夫だよ、何も気にしなくて」
 そう言われて頬にキスを受けたが、唇の感触が全くなかった。…ありがとう。半分程満たされたグラスを手に、由美子はリビングへと戻っていく。キッチンから食材を取り出す音やレオの鼻歌が聞こえてきた。そのメロディーをどこかで聴いたことがある。すると、乾燥地帯にぽつりと佇むガソリンスタンドや、その窓から顔を覗かせる少年が脳裏に浮かんだ。そして、シーンが切り替わるように、再び誰かの視点で私を捉える様子が映し出される。黒髪の東洋女性は、ローテーブルに歩み寄ると、ソファーに腰掛けた。鼻歌は絶え間なく流れているが、キッチンから聞こえるというよりも、黒髪の女性を鑑賞している誰かが、その映像と共にスピーカーを通して聞いているかのような錯覚に陥る。グラスをローテーブルに置こうとすると、手を滑らせ、薄黒い液体が辺りに拡がった。けれども、鑑賞している視点が頭の中で入り交じり、身体と感覚が切り離されたかのように、由美子は動くことが出来なかった。…またなのね。視覚や聴覚や嗅覚や触覚が、自分自身から切り離されていく。そんな状態に陥るのは初めてではなかった。それは、人の行き交う群衆や、誰もいない喫茶店で、不規則に、何の前触れもなく訪れる。私という存在が私から切り離され、私がどこかへと浮遊していく感覚と、それによる恐怖。そうして、そんな状態が暫く続くと、自分が一体何に恐れているのかわからなくなり、切り離された場所から私を見つめるその視点が、私という人物を演じるように促し、私は思い描いた由美子という東洋女性に合わせて、私を演じていく。だから、誰かを求めようが、軽蔑しようが、愛そうが、裏切ろうが、それを眺めている視点が別にあり、まるで、役者がカチンコを聞いて役から引き戻されるように、私は何も感じずにいられる。…というより、感じることが出来ない。もしかしたら、カンヌに行く東洋女性という役を、いつの日か、その視点が私に演じるよう命じたが、目的地に到着してその役の必要性が失われると、私はまた、私から切り離されてしまったのではないだろうか? 何かにのめり込むことも出来ず、夢と現実が交差するというよりはむしろ、ここに産まれているのか、まだ母体でうずくまっているのか、そもそも、夢、現実、生、死のように、そんな境界なんて物が存在しているのかさえも、わからなくなってくる。…大丈夫、いつものことなんだから。そう、誰かの声が聞こえてきた。それを耳にすると、由美子は自分を奮い立たせるように、これから先を考える私という役を演じようと努めた。明日キッチンにいる男と、どこかへ向けて旅立つ。金は十分にあって、気の向くまま時間を過ごし、美味しい食事や雄大な景色を眺めて、また、どこかへと旅立っていく。海や遺跡や山や宮殿。シャンパンやフルーツや初めて口にする料理。毎日違うホテルで目を覚まし、その街の歴史を巡って、疲れたら甘い香りが漂う木陰の下に腰掛ける。そうして、立ち上がり… 瞳から涙が溢れ出す。…そうして立ち上がった私は、その後、どうすればいいのだろうか? いつまでも、どこまでも、偽り続ける私が遠くへと旅立とうが、私は存在していない。その虚しさを怒りに変換していくように、どうして私だけ、こんな感覚に襲われなければいけないのだろうかと、苛立ちが沸き起こる。パリのセーヌ川沿いで昼間から陽気に赤ワインや七面鳥を口にしている人達も、この感覚を抱くことはないのだろうかと幾度と疑問に思い、実際、今まで知り合った男達にこの釈然としない不安を訴えかけても、誰も相手にしてくれなかった。…大丈夫。いつもそうしてきたのだから。そう語り掛ける声が、更に瞳を濡らしていく。けれども、こんな感覚にはとっくに慣れていた。この釈然としない不安は幾度と私を襲い、それを深刻に受け止めないようやり過ごす術を、私は身に付けてきた。…それなのに、どうして今更、涙が溢れてしまうのだろうか。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み