第七章 歪んだ現実5「…そんなの、嘘でしょ?」

文字数 2,028文字

 それを聞いて、由美子が驚くように目を見開いたのを、レオは見ていた。理解していないのは自分だけだろうか? と、不安を抱きながら、レオは聞き漏らさないように身体を前のめりにさせた。けれども、そう意識を注ぎつつも、どうして見ず知らずの人間にこんな話をするのか? という疑問が頭の中で渦巻いている。…あの耳打ちで、彼らは何を話したのだろうか?
「ご存知かと思いますが1996年にクローン羊のドリーが誕生しました。その工程を簡単に説明致しますと、とある個体から得た受精卵の核を取り除き、そこに別の羊の乳腺細胞核を移植して再び胎盤に戻します。すると、その受精卵が細胞分裂を行うのです。こうして誕生したクローン羊ドリーが発表されると、世界中で大きな議論が湧き起こしました。哲学者や医師、キリスト信者の政治家に、ビックビジネスだと嗅ぎ付けた資産家など、ありとあらゆる著名人が声を挙げたのです。議論の焦点となったのは、大きく分けて二つ。一つ目は、生命は神から授かる物であって、人間が作為的に作り出す物ではないという議論。二つ目は、生命の芽である受精卵の核を取り除くという倫理面への問い掛けです。ですが、その議論は神は存在するのかという問いのように、正解はどこにもありません。それにも関わらず、人間への応用に危機感を抱いた多くの国や州が、ヒトの受精卵を扱う研究を法律で禁止、もしくは使用するにしても、厳格な規制を設けるようになりました。ですが、お話ししたようにES細胞を作り出す為には人間の受精卵が不可欠です。…これで、なぜサイトウがアランのもとで研究を行うのか? また、どうしてこのような技術が知られていないのか? という疑問が解消されたでしょうか?」
 クローン羊ドリーやクラウンフィッシュや、その他の聞き慣れない単語を、レオは頭の中で繰り返した。
「規制が厳しい受精卵の研究を行う為に、サイトウはアランに援助を求めた。…そういうことでしょうか?」
 自分の中で整理するように呟くレオを、ジャックは黙って見つめていた。
「まぁ、つまり…」
 一時の沈黙を切り裂くように、ピエールが口を開く。
「彼らにとって、クローン人間を誕生させるのも、そう遠い話しではないでしょうね」
「…そんなの、嘘でしょ?」
 由美子の震える声が轟く。レオが視線を送ると、彼女の頬は薄く紅潮していた。
「どうして?」
 ピエールが冷たく問い返す。
「…いやっ、…だって、そんなの嘘に決まっている」
「みんな、始めはそう思いたがる」
「…でも、それじゃぁ、アランの目的はなに? 彼にとってメリットなんてないでしょ?」
 声を張って問い返し、由美子はピエールを睨み付けた。
「人は、真新しい物に飛び付きたくなるものでしょ?」
「例え、事実だとして…」
 コロナの瓶を見つめながら、クロードが呟く。
「そんな好奇心の為に、生命の芽を潰して良いのでしょうか?」
「その議題は、幾度と語られているけど…」
 前置きを口にすると、ピエールが足を組み直した。
「私達は、科学の発展でもたらされる恩恵を、無駄にしてはいけないと思うの。確かに、その為にはいくらかの犠牲が出るのも事実だわ。…けどね、言ってしまえば、それは自然淘汰と一緒。必要だと思われる物こそが、残っていくべきでしょ? それと、ヒイラギさん。アランに関してだけど、きっと彼は、私が捕まったのを擁護したように、不条理な状況を許せないんじゃないのかな。だから、資金を援助して、子どもを持てない人々へ希望を与えようとしている。…それが彼にとっての信念だと、私は思うわ」
 突如とクロードが立ち上がった。
「信念なんかじゃない…」
 拳が強く握り締められている。
「信念なんかじゃない。都合良く、物事を美化するな!」
 クロードはコロナの瓶を手に取った。危険を察知したレオが咄嗟に彼の腕を掴む。それを振り払い、ピエールの後方に瓶を投げつけた。くるくると回転しながら、ショーケースにぶつかる。ガラスが弾き飛び、放物線を描く様にして、翼を拡げた戦闘機の模型が、フローリングに叩き付けられる。
「落ち着けよ、クロード!!」
 再びレオに掴まれた腕を振り払うと、クロードは玄関へと向かった。砂浜に打ち上げられた機体のように、羽根を引き千切られた戦闘機の模型が、ガラスの破片に囲まれている。
「あなた達、本当に何も知らなかったのね」
 落ち着きを取り戻そうと、ピエールが煙草に火を付けた。煙を深く吸い込んで、それを上空へと吐き出す。
「…反感を抱かれるのは、十分に理解しているんです」
 顔を俯かせてジャックが呟いた。
「けれども、私達にはあの技術が必要です」
 視線を落とすと、ピエールは溜息を滲ませながら煙を吐き出した。その姿を一瞥すると、陽気な口調は演じられた物だと、レオは思った。顔を上げ、ジャックがレオの瞳を覗き込む。
「…そろそろ、本題に入りましょうか」
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