第十章 定められた孤独1「ようこそフランスへ」

文字数 1,962文字

 時計を見ると、時刻は20時を回っていた。視線を上げると、斉藤は窓から海岸を眺めた。上空から差し込む陽光が紺碧の海面を反射し、サングラスを掛けた男達が汗を流しながら砂浜を走っている。そんな景色を目にすると、この国の日照時間に慣れることはないのだろうかと、斉藤は思った。
 南仏のコート・ダジュール空港でルノーの車を借りると、アランと斉藤はすぐさま移動を始めた。同伴者の男が二人居て、由美子達は一度カンヌに滞在する。飛行中の機内でキーボードを叩きながら、アランはそういっていたが、空港からカンヌは、南西に向かって車で30分程の距離だが、今は北東に走って近くのニースを目指している。それを斉藤は疑問に思ったが、例え連絡も無しに彼女達が空港へ向かったとしても、例のアプリを観察してれば追いつくことが出来るのだろうと、推測した。フライトで重くなった身体を庇うように背筋を伸ばし、流れゆく内陸部の街並みを見渡す。そこには、緑を蓄えた穏やかな丘が拡がり、それに囲われるように街が形成されていた。そんな景観を眺めると、生まれ育った鎌倉の街に似ていると、斉藤は思った。
 藤沢駅から江ノ島電鉄に乗り換えて、極楽寺駅で降りる。そこから海を背にして坂を登り、しばらくすると、瓦屋根の日本家屋に辿り着く。そこが斉藤の生まれ育った家だった。整然と手入れされた庭には錦鯉の漂う池があり、どこかから忍び込んだ野良猫が縁側でよく日向ぼっこをしていた。父は都内の大学病院で医師として働き、戦後癌を患った母は、三歳にも満たない斉藤を残してこの世を去った。歳の離れた兄は高等学校の寮生活を送り、幼い斉藤は父方の祖母に育てられた。その祖母は夕暮れ時になると斉藤をよく散歩に誘った。幼い斉藤にとってどこまでも続くかのように思える坂を下り、江ノ電に乗って由比ヶ浜の海に向かう。然程、長い道のりでもないが、屋敷の中が全ての世界だった斉藤にとって、それは果てしない旅のように思えた。そうして海岸に辿り着いた斉藤は疲れ果て、いつもぶつぶつと文句を言って泣いていた。けれども、帰り道に祖母の柔らかい背中に乗る心地よさが好きで、後日散歩に誘われると、斉藤はまた、祖母の後をついて行った。
 斉藤が中学生になる頃、その祖母も癌を患って入院生活を余儀なくされた。学校帰りに見舞いに訪れると、祖母は弱った声帯を震わせながら、懐かしむように散歩の思い出を口にしていた。祖母の記憶では、幼い頃の斉藤は、帰り道に眠そうな目を擦りながら、僕はどうして生まれたの? と、背中の上からよく聞いていたらしい。けれども、中学生の斉藤は、散歩のことは覚えていても、そんなことを口にしていた記憶は全くなかった。
 ニースの中心街に近づくと、休暇を楽しむ人々で賑わっていた。彼らの表情を眺めると、鎌倉の記憶が鮮明に蘇る。けれどもここには、江ノ電もなければ、瓦屋根の日本家屋もない。
 海岸に面したホテル・ウエストミンスターの前に、アランは車を停めた。待ち受けていたドアマンにキーを受け渡し、荷物を手にしてロビーへと向かう。
 天井には大笛を吹く女性や弓矢を構えたケンタウロスの絵が施されていた。辺りには家族連れの観光客や水着姿の金髪の女性がいて、隣のラウンジには、真珠のネックレスをまとった夫人達が、シャンパンを傾けて談話を楽しんでいた。斉藤がそんな様子を見渡している間に、アランはチェックインを済ませて部屋のキーとA4サイズの封筒を受け取った。鞄を授かろうとしたベルボーイを丁寧に断り、二人は奥のエレベーターに乗り込んだ。
「ようこそフランスへ」
 扉が閉まると、アランはそう言って封筒を受け渡した。便宜的にパリの屋敷を記した住民票と仮の預金通帳が入っていること、ここ一年間は新たな銀行口座を開設しないこと、偽造の戸籍抄本は後日受け渡すこと。それらを事務的に伝えられたが、フライトの疲れのせいか、斉藤はどこか上の空で聞いていた。
「由美子達は、確実にコート・ダジュール空港を使う」
 部屋の前に辿り付くと、アランが呟いた。
「それまで、この部屋が君の我が家だよ」
 そういって鍵を受け渡すと、アランは隣の部屋へと姿を消した。部屋に入ると、荷物を置いて、斉藤は窓を開けた。そして、広々としたダブルベッドに腰掛けて、室内を見渡す。薄型衛星テレビやミニバー、大理石のバスルームに簡単なキッチン。それに、ルームサービスのシャンパンと、グラスが二つ置かれていた。一人で使うには贅沢な設備だなと思い、斉藤は息を吐き捨てると、ベッドに倒れ込んだ。穏やかなさざ波が聴こえ、それに呼応するように、薄手のカーテンが揺れている。その光景を細目で見届けると、深遠の暗闇に吸い込まれるように、斉藤はゆっくりと瞼を降ろしていった。
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