第十一章 美しい時間1「君達はラッキーだよ」

文字数 1,493文字

 カンヌ駅から海岸へと向かうと、海に突き出た形で、国際映画祭のメイン会場パレ・デ・フェスティバル・エ・デ・コングレが見えてきた。会場から離れた広場にはジェラードやサンドウッチの屋台が立ち並び、大道芸人が人々の視線を惹き付け、顔看板に子ども達が群がっている。
 サングラスを掛けた由美子が窓から身を乗り出し、祭りの陽気に湧くカンヌの街並みを眺めていた。窓枠に片腕を乗せたレオは心地よい風を浴び、クロードも徐に煙草を吹かしていた。
 高級車の並ぶクロワゼット通りに差し掛かると、会場の手前に大型ビジョンが設置されていた。そこには、ドレスやタキシード姿の男女が黒塗りの車から姿を現して、笑顔を振りまく様子が映し出されていた。それを見上げていた若い女達が歓声を上げると、レッドカーペットからシャッター音が鳴り響く。海岸に面する高層ホテルのベランダには配給会社の垂れ幕が揺らき、砂浜には野外上映の大型スクリーンが設けられている。
 入り江の隅に辿り着くと、ホテル・マルティネスの前で車を停めた。メガーヌ・ルノーの外装を見たドアマンが快く扉を開けたが、レオ達の服装を見ると、見当違いの表情を浮かべた。トラベルバックを脇に抱えると、その男にキーを受け渡し、レオはアプローチを昇っていく。

「やぁ、部屋はまだ空いているかな?」
 その声を聞くと、受付で書類に目を落としていた初老のフロントマンが顔を上げた。眼鏡をずらし、歩み寄る人物を品定めするように眺め回す。
「三人なんだけど、広めの部屋がいいな。海を見渡せる最上階とか」
 レオはポケットから札束を取り出し、それをフロントマンに見えるように数え始めた。その様子を眺めると、彼は小さく微笑んでペンを置く。
「君達はラッキーだよ」
 そういって部屋名簿を取り出すと、初老の男が空室を調べ始めた。遅れてきた由美子が照明に彩られたフロントを眺め、クロードはリョックサックを手にして立ち尽くす。
「この時期に予約もしないで部屋を取ろうなんて、ナポレオンでさえ難しいんだよ」
 面倒見の良い修理工のような口調で語る男の胸元には、支配人の文字が刻まれていた。それに気が付くと、レオはチェックイン用紙を受け取った。
「今朝、ドイツから来ていた記者達が、急遽チェックアウトすることになってね。…とても、残念そうにしていたよ」
 そう語り掛けると、初老の男は映画祭について語り始めた。
 今年は映画界の生きた伝説ジャン・リュック・ゴダールの突然の死を悼んで追悼上映が組まれたらしく、それに伴ってゴダールと縁ある人物のトークショーや新作上映の為、世界各国から著名な映画作家がカンヌに集結した。ヨーロッパからは、ペドロ・コスタ、アキ・カウリスマキ、フィリップ・ガレル、ジャック・ロジエ。アジアから、アッパス・キアロスタミ、侯孝賢、アピチャッポン・ウィーラセタクン、諏訪敦彦。そして、ゴダールと同い年で未だに新作を取り続けているクリント・イーストウッドがアメリカから訪れる予定で、更に追悼上映の開催セレモニーでは言語障害を抱えたジャン・ピエール・レオーと、ゴダールの元妻アンナ・カリーナによる感動的なスピーチで幕を開けた。この近年まれに見る錚々たる作家達の集結で、記者達は連日のようにトップニュースと打ち立て、自国の放送局や新聞社に記事を送り、噂では例年の数倍もの額が取引で動いたらしい。
 それらを捲し立てるように初老の男が語り終えると、レオはチェックイン用紙を差し出した。それを一瞥すると、…映画を愛する者なら、誰だって友人さ。と呟いて、初老の男はベルボーイを呼んだ。
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