第四章 自覚4「…君の中には千人の女性がいる」

文字数 1,439文字

 木材の香りを漂わせる扉を由美子はゆっくりと開けた。ベッドから腕をはみ出して、レオは眠っている。指先から踏み締めるように、由美子は彼のもとへと歩み寄った。月光の明かりでレオの寝顔を確認すると、ナイトテーブルへと向かっていく。
 葡萄の果実が模されたスタンドグラスのランプに、マルボロのボックス。シワの刻まれた長財布や車のキー。それらに目もくれず、由美子はくすんだ引き出しに手を掛けた。
 そこに、黒革の手帳は置かれていた。手に取って、ページをめくりながら窓際に歩み寄る。月光で紙面を照らすと、赤線に囲われた住所が目に止まる。由美子はポケットからペンと手帳を取り出した。シーツの擦れる音が鳴る。すぐさま振り返り、背中に手帳を隠した。目を凝らしてベッドを見つめると、レオは聞き取れない言葉を呟いて寝返りを打っていた。それを見届けると、ペンを握り直して自分の手帳に住所を綴っていく。
 黒革の手帳を閉じると、由美子はナイトテーブルへと歩み寄った。取手に手を掛けて静かに引き出しを引こうとしたが、何かが引っ掛かって開けることが出来ない。両手をかざして水平に引いてみるが、全く動く気配がなかった。振り返って、レオの寝顔を見つめた。枕に横顔を押しつけるように静かに眠っている。その場で暫く考え込むと、由美子は思い立ったようにベッドへと歩み寄る。羽毛布団を掴むと、それを引っ張り上げてレオの顔にそっと被せた。急いでナイトテーブルに向かい、引き出しに手をかざす。振り返ると、羽毛布団は呼吸に合わせて浮き沈みを繰り返していた。それを見届けると、咳き込みながら力任せに引き出しを引く。ナイトテーブルがガタガタッと音をたて、スタンドグラスのランプが揺れた。引き出しが開かれて、すぐさま黒革の手帳を押しやった。引き出しを閉じると、土から這い出てきたモグラのように、レオが羽毛布団をずり降ろす。
「起こしちゃった?」
 ベッドに近づきながら、由美子は平静を装おうようにそう囁いた。身体を起こし上げると、レオが瞼を擦りながら視線を向ける。
「…由美子かぁ」
 大きくあくびを吹かすと、レオは呟いた。夢にうなされた少女のように、由美子がベッドに腰掛ける。
「クロードは?」
「…散歩じゃないかな? さっき廊下ですれ違ったけど」
 レオが由美子の頬にそっと手をかざす。その手を両手で包み込むと、由美子は子猫の甘噛みのようにそこへ唇を触れさせた。
「…そうかぁ」
 力なくそう呟き、レオは再びベッドに倒れ込んだ。その隣に由美子が横たわると、髪を梳くように彼女を撫で回す。
「…君の中には千人の女性がいる」
 瞳を閉じ、愛撫を繰り返しながらレオが呟く。優しく触れる指先が温もりを催すが、張った糸が途切れて仕舞わないよう、由美子が問い掛ける。
「それって、どういう意味?」
 目元を緩ませ頬に触れる。吐息を漏らすように、レオが言葉を紡いでいった。
「……ホテルでの君は…、…傷付きやすい……少女の様で……、…橋の上では……ジャンヌ・ダルクの様な……戦士だった…」
 愛撫する腕が静かに止まり、安らかな寝息が由美子の肩口に降り注ぐ。それに気が付くと、由美子は立て肘を付いて寝顔を浮かべるレオを見つめた。指先をそっとえくぼへと近づけて、なぞる様に唇に触れる。手のひらを開け広げ、輪郭を確かめるように彼の顔を撫でた。生温かい微かな寝息が吹き付ける。手を止めてその体温を感じ取ると、由美子は暫くその場を動こうとはしなかった。
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