第三章 秘密7「一度、世界を知ってしまったら、もとの世界には戻れないのかな?」

文字数 1,569文字

 壁の隙間から水滴が落ち、駅名がスプレーの落書きに覆われている。ホームには鉄パイプが転がり、誰かが忘れたヘルメットがベンチに置かれていた。
 踵にこびり付いた瘡蓋を爪先で剥がしながら、由美子はライターを取り出した。カチッ、カチッと乾いた音が駅構内に鳴り響く。咥えていた煙草を乱暴に抜き取り、ライターと共に投げ捨てた。トンネルの奥から壁を這うように光が漏れてくる。背中を丸めて、由美子は膝元に顔をうずめた。レールの軋む音が響き渡り、メトロの車両が現れる。疎らな乗客達が由美子に気付くこともなく、それは通過していった。静寂が訪れると、由美子は肩を小刻みに震わせていた。瘡蓋の剥がれ落ちた傷口から鮮血が滲み出し、指先へと流れ落ちていく。…ふざけないでよ。両手で顔を覆うと、由美子はそう呟いた。
 電話の着信音が鳴り響く。覆っていた手の内から顔を覗かせる。床に転がるショルダーバックを見つめると、由美子は瞳の淵を拭い去った。
「…どうしたの?」
 息を整えて、電話口に語り掛けた。
「どうしたのって、俺が世間話でもすると思う?」
「だから、どうしたのよ!?」
 声を荒げて、再び問い掛ける。
「仕事だよ、仕事。ちょっとした運びを手伝って欲しい。色々あって、早いうちに捌きたいブツがあってね。報酬は十分に出すし、希望があれば身を沈める期間の費用も支払うよ。と、いっても大した仕事じゃない。不慣れな男と南仏まで同行して貰いたくてね。それで、男の…」
「…ねぇ」
 会話を遮るように、由美子が呟いた。
「ねぇ。変なこと聞いていい?」
 甘えた声で問い掛けると、電話口に静けさが流れた。乾いた唇を開き、声帯を震わせる。
「一度、世界を知ってしまったら、もとの世界には戻れないのかな?」
 そう語り掛けると、暫く沈黙が続いた。自分の言葉を顧みて、由美子は溜息を漏らした。
「ごめん、なんでもないの。それで? 話を続け……」
「知らなかった頃の憧れを、懐かしむことしか出来ないよ。…由美子」
 胸の底から奮い立つ憤りを押さえ込んで、由美子は荒い鼻息を漏らした。高まる鼓動と共に立ち上がる。レールの軋む音が鳴り響くと、列車の光を尻目に、由美子はコンクリートの剥げ落ちた通行路の奥へと姿をくらました。

 瓶の底に灰が落ちると、ジュッと音をたてながら微かな煙をあげた。短くなったマリファナを指先で摘まみ、白人男性のジョナタンがそれを吸い込む。二の腕に聖母マリアの入れ墨を施した男が、歓喜をあげながら隣のベンチに戻ってきた。その男がブロンドの若い女とハイタッチすると、入れ墨が歪んでマリア様が笑っているようだと、ジョナタンは思った。ベンチから立ち上がり配給機へと向かう。そこに並べられていた玉を持ち上げる。隣のベンチから、ハイネケンを手にした男達の野次が飛ぶ。ふらつく足取りでレーンに辿り着くと、ジョナタンは瞳を擦って前方を見つめた。すると、レバーは降ろされ、ピンが置かれていない事に気が付いた。配給装置にある回収ボタンを押しても、それは変わらなかった。
「おーい、ラリー。そこにいるんだろ? レバーが下がったままなんだ。直してくれないか?」
 締め付けていたチューブを取り外すと、ラリーは天井を仰ぎながら拳を開け広げていく。蛍光灯に黒いケシのような虫が飛び交っていて、瞳を閉じると、それらの残像が瞼の裏側に映り込み、虹色に煌めいていた。左手で十字架のネックレスを握り締め、右腕を頭上高く掲げる。そして、虫たちを愛撫するように、ラリーは指先を微かに折り曲げた。
「ラリー、いるんだろ? 頼むから直してくれよ。50ユーロが懸かってるんだよ」
 電波の悪いラジオのように無線が鳴り響く。溜息を零すと、右腕を振り下ろして、ラリーは応答ボタンを押した。
「…ファック野郎」
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