第一章 宿命6「……だから、消えてしまいたいなって」

文字数 2,052文字

 岸部のレストランでは笑い合いながらウェイター達が皿を磨き、土手では若いカップルが口づけをしている。そんな光景を眺めても、灰色のフィルターを掛けられたように、レオには霞んで見えていた。…定められていた。生まれた境遇がその後の生活を左右し、それを変えることは出来ない。アランの言葉の解釈が頭の中で駆け巡り、そんな思想を拒絶したくても、自分の生活がそれを証明しているようで、やるせなくなった。嫌気が差して、考えを巡らせるのをやめようとすると、昨夜感じていた空腹感の根底に潜んでいる物を垣間見たような気がした。ベルトコンベアーに吊された豚のように、行き着く場所は既に決まっている。

日本人なのか?
日本人だとしたら、そこはどんな国なのか?
生い立ちは?
どうしてこの街にいるのか?
フランス語はどこで学んだのか?
仕事はしているのか?
しているとしたらどんな仕事か?
好きな音楽は?
好きな本は?
好きな色は?
好きなセックスの体位は?

 やるせない思いを拭い去るように、レオは約束の時間の二十分も前から由美子を待ち続け、彼女への質問をいくつも思い浮かべていた。そんな事を考えていると、どうして欄干を越えることになったのか? という疑問を抱いたが、今のレオにとって、それが未知に包まれた神秘のように想像を絶する物とは思えなかった。
 欄干に手を添えて顔を上げると、黒髪の女性がこちらに歩み寄っているのに、レオは気が付いた。ジーパンにゆったりとした白いシャツを着込み、深紅のショルダーバックをぶら下げた由美子は、レオに気が付くと微笑みを浮かべて手を振っていた。

 テラス席には横長の木製テーブルが二列並んで、それを覆うように屋根が突き出ている。向き合うように腰掛けた由美子の背後にはセーヌ川が拡がり、一組の若いカップルが遠くの席に座っていた。
 注文を取ると、レオはウェイトレスにメニューを受け渡した。何か話し掛けなければと思いつつ、実際に対面すると言葉が浮かばない。ウェイトレスが注文を伝える様子を眺めたり、近くに降り立った鳩を見つめたりして、長い沈黙が続いた。身体を横に向けて由美子がセーヌ川を眺める。陽光を浴びた彼女の横顔を盗み見ると、艶のある黒い長髪が顔立ちを引き締め、遠くを見透かす瞳は彼女の思想を物語っているようだと、レオは思った。
 ふいに水を飲もうとした由美子と目が合った。彼女は頬を緩めて笑い掛ける。
「どうして、そんな怖い顔をしているの?」
 流暢な発音でそう囁く。透き通った彼女の声に聞き入っていると、由美子は不思議そうにレオを見つめた。
「なに?」
「いやっ、どうして、そんな怖い顔をしているのかなって?」
「あぁ、やぁ、別に…」
 言葉を濁すと、レオは水を口にした。グラスの縁に指先を擦らせ、由美子は俯きながら口を開いた。
「私ね。…時々、死んでもいいんじゃないかなって、思うの」
 水面に指先を浸し、そっと離す。水滴が滴り落ちると、波紋がグラスの中で拡がっていく。
「人の価値は棺桶に入った時に決まるって、何かの本で知ってね。…こういう話し、退屈かな?」
 そう囁かれて、レオは首を振った。湿らせた指先を拭うと、由美子は話し続ける。
「私ね、誰一人として生きる意味なんて見出せないと思うの。母親になれば子どもの為っていったり、父親は家族の為って。子どもは子どもで、そんな両親の為だとかね…」
 否定や肯定を必要としていないように思えて、レオは黙って話を聞いていた。
「でもね。人は思っている程、他人を必要としていないと思うの。この人がいないと生きていけないなんて、映画や小説の中の話しであって、実際は誰かが死んでも、人は生き続けていく。そんなことを考えていると、本当に死んでみたらどうなるんだろうってね。死んで、ハムレットの亡霊みたいに、生きている人達が私をどう扱うのか眺めてみたいなって」
「それじゃぁ、好奇心で飛び降りようとしたってこと?」
 語られる言葉に驚いて、レオは思わず口を挟んでしまった。
「…うそ」
「えっ?」
「ごめんなさい。今、話したこと全部嘘なの」
 そういって由美子は微笑んでみせたが、その表情には拭い去れない孤独が滲んでいるように、レオには思えた。
「どうして死のうと思ったの? って、聞きたかったでしょ」
 明るく問われて、返す言葉がなかった。
「恋人に振られたとか、病気でどうにもならなくなったとか。そういう話し、聞いてみたかったでしょ?」
 見透かす彼女の鋭い瞳が、レオに向けられる。
「そういう物語があれば、あなたの手を取らずに、飛び降りることが出来たかもね」
 辺りを歩き回っていた鳩達が一斉に飛び立つ。
「…でも、何もないの、…なんにも。……だから、消えてしまいたいなって」
 フォークの入った籠をテーブルに置くと、ウェイトレスは立ち去った。レオの瞳に入り込むと、由美子は小さく首を傾けた。
「…ねぇ。食事終わったら、ホテル行かない?」
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