第四章 自覚3「…あなたの目的は?」

文字数 1,482文字

 ナイトテーブルには花瓶が置かれ、枯れた赤い薔薇が挿してあった。深紅のショルダーバックや手提げ鞄をベッドに放り投げると、由美子はその薔薇に近寄って指先でそっと触れた。すると花びらは、繊細な硝子細工のように蕾から切り離され、ひらひらと舞いながら床に散っていった。
 窓際の椅子に座って煙草に火を付けると、由美子は煙を吐き捨てながら部屋を見渡した。クローゼットもカーテンもラグもない、ベッドとナイトテーブルだけが置かれた簡素な佇まいを眺め回していると、チャックの開いたショルダーバックが目に止まる。立ち上がって歩み寄り、中からアメリカンスピリットを取り出す。蓋を開けると、そこには手巻きのマリファナが3本だけ残っていた。ナイトテーブルに近づき箱を逆さにして、それらを並べた。1本ずつ巻紙を破り、乾燥した葉を手のひらに乗せる。ポケットからライターを取り出すと、由美子は茶褐色の葉屑に火を付けた。チリチリッと音を立てて燃え上がる様子を、煙草を吸い込みながら見つめる。窓辺に身体を寄せ、タンポポの種子を飛ばすように、由美子は手のひらに息を吹き掛けた。窓枠を越え、吹き付けた夜風に乗り移ると、燃え盛る葉屑達は線香花火の火種のように辺りに飛散していった。その様子を見届けると、由美子は再び煙草を深く吸い込んだ。

 びわの木が風に揺られると、床に伸びた影が消えてはまた浮かび上がる。隣の小屋から馬の寝言が聞こえ、肌寒さを感じたクロードは窓を閉めた。パーカーのポケットに煙草を滑り込ませ、眠りに落ちたレオを尻目に扉へと向う。
 廊下に足を踏み入れると、奥の部屋からキャミソール姿の由美子が姿を現した。スウェットのパンツを履き、隅から微かに乳房が露出している。そんな姿に興味を示すこともなく、クロードは彼女の横を通り過ぎようとした。
「…あなたの目的は?」
 透き通った穏やかな声で由美子が呟いた。どこかからか差し込む僅かな月光だけが互いを認識する手立てとなり、クロードは立ち止まって表情の読めない彼女を一瞥した。
「目的?」
「南仏に向かおうと思った目的」
 それを耳にすると、クロードは再び歩み始めた。それを制するように由美子が一歩足を踏み出す。身体を反転し、壁にもたれながらクロードの顔を覗き込む。
「あなた達って、どうやって精神のバランスを保っているの?」
 虫の羽音のように消え入る声で由美子が囁く。
「ぼやぼやとした曖昧な日常の中で、昨日のことと、一年前のことも区別出来ずにいる。私、わかるの。薬剤師とかやっていると、色んな患者が来るからね」
 そう言葉を連ねる由美子の語りを、クロードは黙って耳を傾けていた。
「あなた達は、夢の中で生きているみたいに日常を繰り返している。日々を積み重ねるなんて考えを微塵も持たないで、まるでシーシュポスの神話のように、積み上げても崩れ去ってしまう岩を黙々と拾い続けるような生活を送っている。そんな中で、一体、どうやって精神のバランスを保っているのかなって」
 そう語り終えると、由美子は指先を這わすようにクロードの腕に触れた。
「自分は違うとでも?」
 それが二の腕に近づくと、クロードはそっと腕を引いた。
「私だってわからない。…だから、聞いてみたの」
 視線を指先に向けたまま、ぼんやりとした表情で由美子は囁いた。何も語らずにクロードが彼女の横を通り過ぎる。階段を踏み締める音が聞こえてくると、由美子は視線を追従させながら指先を降ろした。床に向けて腕が垂れ下がり、整えられた爪先が指し示すかのように、踝には瘡蓋の痕が残されていた。
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