第十章 定められた孤独3「恥ずかしくないのか!!」

文字数 2,553文字

 すっかり陽は落ちていた。テラスには着飾った夫婦達が談話を楽しみ、遠くからギターの音色が聴こえてくる。瞳を開けると、斉藤はその音色へと視線を送った。顔を白く塗った道化師達が、観光客を相手に余興を繰り広げていた。
 …また、眠ってしまったのだろう。そう思いながら斉藤は瞼を擦った。部屋を出てから一階のテラスでオーダーを取り、食前に出されたマルセイユの赤ワインが異様に喉を潤したのは覚えている。テーブルにはバルサミコで彩った皿にラム肉が添えられ、氷の浮いたウィスキーグラスが置かれていた。
 余興を終えた道化師がいたずらを企む子どものように、テラスの客を眺め回す。子ども達はそんな道化師を指差しながら笑い声を挙げ、それを微笑ましそうに親達も眺めていた。眠気の冴えない斉藤は、奏でられるギターの音色を煩わしく思いながらラム肉を切り分けた。花壇のレンガに飛び乗ると、道化師はステッキの先で子どもの頭を優しく叩く。楽団や子ども達は彼の後ろについて行き、道化師が標的を見つけたように遠くを指差すと、彼らを率いて駆け出した。
 楽団員はギターや笛を構えて斉藤のテーブルを囲んだ。道化師がステッキを指揮棒代わりにしてタイミングを見計らう。突如と向けられた周囲の視線や彼らの挙動に対して、斉藤は手で追い払う仕草を見せた。けれども、彼らはそれを気にも止めず、弦を鳴らし、笛は吹かれ、演奏が始まった。周囲からは甲高い口笛と拍手が鳴り響く。
「…やめてくれないか」
 彼らの演奏に割り入るように、斉藤は呟いた。子ども達が歩み寄り、騒々しさが増していく。道化師は斉藤にウインクを送ると、気兼ねなく歌い始める。
「やめろと言っているだろ!!」
 怒鳴り声が轟くと、拍手は消え、楽団員は演奏をやめた。親達は子どもの手を引いて席に座らせて、ウェイターがテラスを覗きに来る。異様な静寂が辺りに漂うが、それを気にも掛けずに、斉藤はラム肉を口に運んだ。演奏体勢を崩して楽団員が撤退の準備を始めたが、場を乱した責任は自分達にはないという態度で、道化師が顔の前で指を擦り合わせた。
「恥ずかしくないのか!!」
 それを一目見ると、斉藤が再び怒鳴り声を挙げた。
「こんな茶番で金をせびるなんて、恥ずかしくないのか!!」
 立ち上がり、財布に入っていた紙幣を道化師に投げつける。ひらひらと舞う紙幣の先で、道化師が軽蔑の視線を斉藤に送っていた。それに気が付くと、顔を背け、斉藤は再び追い払う仕草を見せた。ウェイターが歩み寄り、道化師達に撤退するよう指示を送る。楽団員が紙幣を拾い始めても、道化師は軽蔑の視線を送り続けていた。斉藤が席に腰掛けると、楽団員に肩を引かれた道化師は、何か言いたげな表情を浮かべて、その場から立ち去った。
 責任者らしき男が歩み寄り、会計は必要ないと告げたが、斉藤はそれさえも追い払った。ウィスキーグラスを手にして周囲を見渡す。すると、家族連れや夫人達は視界から斉藤を外し、邪魔者に対する冷たい空気を作り出していた。
「…退廃を許容するなんて、私は認めない」
 誰に向けるでもなく、斉藤は声を荒げた。少年が振り向くと、親がすぐさま視線を戻させる。ウィスキーを流し込むと、苛立ちの態度を振る舞いながら、斉藤は席を発った。

 部屋に着くと、ウィスキーが身体を犯し始め、斉藤はふらつく足取りでスーツを脱ぎ捨てた。水滴を付けたシャンパンとグラスが二つテーブルに置かれ、それを囲むように椅子が並んでいる。シャツのボタンを外すと、斉藤は朦朧と揺らめくカーテンへと歩み寄った。海岸には若い男女が肩を寄せ合いながら腰掛け、船上ではドレスをまとった女達が戯れていた。…この部屋が君の我が家だよ。突如とアランの言葉がこだまする。振り返って扉を見たが、そこにアランは居なかった。…この部屋が君の我が家だよ。再びこだますると、胸元から異物が湧き上がる感覚に、斉藤は襲われた。それは、バルサミコを添えたラム肉とか、氷の薄まったウィスキーとか、そんな物ではなく、得体の知れない粘り気が身体の内側にへばり付く。片腕にシャツを引っ掛けたまま倒れ込み、ベッドに置かれた封筒が下敷きになる。薄型衛星テレビやミニバー、大理石のバスルームに大きなダブルベット。それらが押し迫るように斎藤を圧迫させていく。…あの日と同じだ。朋子達の家が近くにあるにも関わらず、この感覚が邪魔をして、それ以上歩き進むことが出来なかった。うつぶせになると、斉藤はシーツに顔を埋めた。封筒が押しつぶされ、様々な方向に折れ曲がる。喉が渇き、犬のように空気を吸い込もうとするが、異物がへばり付いてうまく呼吸が出来ない。…僕は、どうして生まれたの? 幼児の声が聞こえると、部屋に押し込まれ、泣き叫ぶ少年の後ろ姿が脳裏に浮かぶ。彼を振り向かせると、少年が朋子にすり替わり、すぐさま彼女の顔は爛れ、溶けたゴムから浮かび上がるように、軽蔑を滲ませた道化師の顔が現れる。シーツを掴み、斉藤は力を振り絞って仰向けになった。薄型衛星テレビやミニバー、大理石のバスルームに大きなダブルベット。それに、ルームサービスのシャンパンとグラスが二つ。視界の隅々でそれらがちらつき、部屋の内装がテラスで受けた邪魔者扱いの視線を送る。すると、行き場を失った異物達が喉元までせりあがってきた。
「…孤独だ」
 斎藤は小さく言葉を漏らした。
「孤独なんだ…」
 今まで認めようとしなかった言葉を口にすると、それに乗って異物達が吐き出されていく。…もしかしたら、いつの日か、この異物達は体内のどこかに植え付けられていた。シーツを放しながら、斉藤はそう思った。けれども、それをどこに吐き出せば良いのかわからず、癌細胞のように増殖して身体を蝕み続けていた。
「孤独なんだ」
 そしてこの言葉を口にすることで、徐々に息苦しさから解放されていくが、そんな事でしか孤独を紛らわす事が出来ない。それに気が付くと、斉藤は嗚咽を漏らしながら泣き始めた。瞳から滲み出る涙がシーツを濡らし、無防備な少年のようにベッドにうずくまる。けれども、出口のない孤独を悟り、悲しみに埋もれる斉藤には、取り返しの付かない定めに身を任せることしか残されていなかった。
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