第一章 宿命7「あなたは、何か大きな物に支配されたいって思ったりする?」

文字数 3,398文字

 黄緑色のメロンに生ハムが被さっている。それを優しくフォークで突き刺すと、ベッドに腰掛ける由美子が口元へと運んでいく。果汁が溢れそうになり、顔を上向けて唇を拭う。彼女の首筋をスタンドランプが淡く照らし、それを綺麗だと思ったレオは、赤ワインを口にした。
「ルームサービスで生ハムメロン頼んだ人、初めて見たよ。日本ではポピュラーなの?」
 椅子に腰掛けて、レオが問い掛ける。フォークを唇に当てて、由美子は考えを巡らせるように天井を見上げた。
「ポピュラーではないけど、あの国ってなんだか不思議なんだよね。ブランド物のチョコレートっていうと、恋人の囁きを聞いたみたいにはしゃいだりして。私がこれを頼んだのは、こういう夜に食べておかないと、生ハムメロンの味に出会えないんじゃないのかなって。食事をただの消費にしたくないの」
 そう語ると、ファークを皿の縁に置いて、由美子は果汁に濡れた指先を舐める。
「日本で思い出したんだけど、前に知り合った男がいて、その実家がお寺だったの。宗派がなんだったかなんて忘れたけど、長男は半強制的に寺を継ぐらしいのね。っで、その彼は長男だった。私、宗教とかに生きている人って興味があったから、付き合ってみたんだよね」
 食べる? と聞くように由美子が皿を差し出した。レオが首を振ると、彼女はそれをナイトテーブルに置いた。
「彼の話では年に一度山に籠もって、朝から水浴びと読経を永遠に100日間行ったりするんだって。時には死者を出しながらね。そんな話しを聞いて、私、魅かれたんだよね。利益とかそういうのを忘れて、強い物に寄り添いながら生活していく。そんな生のあり方って、なんか魅力的だなって」
 そういうと、由美子は壁にもたれるように座り直した。
「けどね、あぁゆうところも、結局は齷齪する人との馴れ合いなの。死者が出たってのも、噂では若手に対する暴力事件があったんじゃないかって。私、それを知ってね、宗教でさえそんな齷齪する馴れ合いに組み込まれているだけって、思っちゃって。…ねぇ、レオ。あなたどう思う?」
 赤ワインのボトルを手にすると、由美子は口を付けて飲み始めた。顔を上向け、両足で器用にスニーカーを脱ぎ捨てる。色白い足の甲がなだらかな曲線を描き、指先が茹で上がったエビのような艶を見せて、レオの視線を誘う。口を離して、由美子は語り続けた。
「…ねぇ、レオ。あなたは、何か大きな物に支配されたいって思ったりする?」
 そう告げると、再び口を付けて体を揺らめかせながら喉を鳴らす。ボトルの端々から赤ワインが鮮血のように漏れ出し、首筋をつたって胸元へと流れ込む。ランプの明かりがボトルを透かし、重ったるい深紅の液体が望遠鏡で拡大したアメーバのようにうごめいていた。彼女の瞳が次第に虚ろになり、飲み干すのを遮るように、レオがボトルに手を掛けた。逆さのまま奪い取ると、彼女の顔に赤ワインが打ち当り、辺り一面に飛散した。純白なシャツが赤く濡れて、肌に張り付く。彼女は下着を付けていなかった。淡いピンクの乳輪がシャツから透けて、その先端が浮き立っている。
「私は支配されたい。首輪を付けられ、手綱で引いてくれる主人さえ居れば、私は何もいらない」
 赤く染まったシャツを気にも掛けず、由美子は語り続けた。膨張する風船のような性欲に捕らわれて、レオがシャツを脱ぎ捨てた。
「寺の長男に魅かれたのも、そんな欲求からだと思う。重層な思想を携えた言葉。そんな物に支配されたくて、私は彼に魅かれたのかもしれない。けどね、…けど、なにもなかった。彼の言葉なんてトイレットペーパーの芯みたいに、空洞で、必要のない物。永遠と経を取り入れ、腹話術の人形のように、それを吐き出す。…単純労働だよ、あんなの。中身なんて、なんにもなかったもの」
 赤黒く濡れたシャツの上から、レオは乳房を掴んだ。その先を口に含めると、合成繊維のザラザラした食感の中に乳首が激しい熱を持って膨張していた。呼吸を荒げ、由美子が鼻息を漏らす。ベルトに手を掛けながら、レオは足先で靴を落とした。
「…待って」
 擦れ声で由美子が囁く。それを耳にしたレオは、彼女をベッドに叩き付けたい衝動にかられたが、すぐさま身体を起こし上げ、由美子はショルダーバックに手を伸ばしていた。そして、中から取り出したのはアメリカンスピリットのボックスだった。…後にしろよ。そう声を掛けようとしたが、忙しそうに火を付ける由美子を見ていると、レオは何も言えなかった。
 酔いが回ったせいか、漂う香りの違いに気が付いたのは、しばらく経ってからだった。
「…由美子」
 静かに声を掛けると、彼女の反応は鈍く、頭の重心を揺らめかしていた。
「由美子!!」
 力強く声を張る。すると、振り向いた由美子は、視点の定まらない瞳を携えて微笑んだ。
「大丈夫、わたし大丈夫だよ。病気とか、そんなんじゃないんだから」
「君は病気だよ。そんなのに頼らなくても、十分満たされるだろ?」
 朦朧とした動きの中で、由美子は鋭い視線をレオに差し向けた。
「満たされる? 満たされるって、何が? 性欲を処理できるって話? そんな為に、ホテルに来たの?」
 呂律の回らない口調でそう吐き捨てると、由美子は再びマリファナを吸い込んだ。次第に息づかいは荒くなり、体を動かして、シーツを撫で回す。のどの渇きを感じたのか、ナイトテーブルに置かれたボトルに手を伸ばそうとするが、彼女は中々掴めずにいた。やっとの思いで手中に収めても、それを滑らせて床に落とす。瓶が割れて、残っていた赤ワインがカーペットを濡らす。
「ねぇ、あなたも吸いなよ。気持ちよくなるから」
 割れた瓶のことを気にもせず、由美子は唾液でベトベトになったマリファナをレオに差し出した。呆然と立ち尽くし、萎えた性器を垂らしながら、レオは由美子の姿を眺めていた。定まらない視線を携えた彼女の瞳は、取り返しのつかない場所まで来てしまい、その許しを欲しているかのようだと、レオは思った。…いやっ、もしかしたら、由美子だけではないのかもしれない。忙しそうに駆けるスーツ姿の男や、コーギーを手綱で引く初老の女性。チェス版を眺める中年男性に、毎日同じ服を着るレストランのウェイトレス。そんな人々も目の前の由美子のように、許しを欲している瞳を携えていたのではないだろうか? 由美子はアルコールやマリファナの力を借りて、その瞳を吐露しているだけに過ぎず、街行く人々は、それを退屈な日常で覆い隠しているだけではないだろうか? 労働や、散歩や、多忙なふりをして、取り返しのつかない場所まで来てしまった瞳を浮かべないよう勤め、次第にそんな瞳をしていることすら忘れてしまい、自分がどこにいるのかも、わからなくなっている。そして、その恐怖に敏感な人達はアルコールやマリファナを使って、恐怖を恐怖として捉えようとしている。ただ、それだけの事ではないのだろうか?
  微笑みながら由美子はマリファナを差し出し続けていた。レオがそれを受け取ると、唾液がべっとりと張り付いて糸を引く。それを目元まで近づけると、一筋の煙が上昇して部屋の空調に捲かれていった。
 赤く染まったシャツを脱ぎ去り、由美子が乳房を露わにさせた。突出した乳首を指先で撫で始める。鼻息を荒げると、彼女は恍惚とした瞳で天井を見上げた。
「ねぇ、レオ。私達、もっと刺激を求めて生きていいと思わない。誰も知らないエクスタシーを噛み締めるようにね。そうすれば、煩わしい思想なんかに、騙されなくって済むんじゃないかな」
 足先でシーツを伸ばしながら、由美子は身体をくねらせるように乳房をまさぐっている。
「私ね、あなたなら、どこかへ連れて行ってくれるんじゃないのかなって、出会ったときから思ったの。何か、とてつもない秘密を握っていたりしてね」
 彼女の指先が肌を這うように、下腹部へと向かっていく。
「…ねぇ、だから、お願い。…お願いだから、私をどこかへ連れていってよ」
 煙を巻き上げているマリファナを、レオは見つめ続けていた。
「ねぇ、…お願いだよ」
 指先がパンティーの間にすり込まれていく。
「…ねぇ、なにしているの? なに突っ立てるの? …早く吸ってよ。それで、早くこっちに来て。…楽しいんだから」
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