第39話 ウィリアムの正体

文字数 1,160文字

 すると犬男ウィリアムの口元が急に緩み口角をつりあげ満面の笑みとなった。そして椅子に縛り付けられたまま真っ青になってガタガタ震えている弟アルベルトを見下ろしつつハッキリとした声で

「その通り、さ……! 僕はね、華美なもの、派手なものは好きじゃないんだ、お前もよく知ってるだろう? 女性に対しても同じさ。宝石やら羽やらでゴテゴテと大げさに着飾った女たちにはまったく魅力を感じない、どころかうんざりしてたんだ。だから時おり貧民窟でちょっとした変装と偽名、媚薬代わりに阿片入りのシロップを飲み物に垂らしては地味で素朴な娘たちを楽しんだ。それだけのことさ。僕達は貴族なんだから欲しいものは人から奪ってでも手に入れる権利がある、そうだろうアルベルト」

 呼びかけられてアルベルトは、しかしなんと返事をすべきかわからず黙って兄の顔を見上げるばかりだった。

「まあそうは言っても、」構わず続けるウィリアム。

「お父さまやお母さまにはさすがに内緒なんだからね、だからこの男が言ったとおり、万が一の場合を考えてお前の名前を偽名に使っていたというわけさ。長男の僕と違ってお前は爵位を継ぐわけでもなくどこかの裕福な家の娘と結婚するんだから責任もなかろうしそもそも、お母さまも弟のお前の方がかわいくてお気に入りみたいだからさ、もしも秘密が暴かれたって大したことにはならないだろう。そう思ったからね」

 早口で一気にまくし立てると犬男ウィリアムは舞台前方を見つめたままピタリと動かなくなった。張り詰めたような興奮状態から急に開放されたせいなのか、瞳はうつろでまったくの無表情である。場内は静まり返りその場にピィンと不思議な静寂が訪れた。薄暗いテントの中でこちらをじっと凝視する大勢の瞳がステージの強い照明に反射し、まるでビー玉のようにキラキラと輝いている。

 ああ、きれいだ。たくさんの光の粒が舞っているようだな。

 アルベルトはぼんやりそんなことを思っていた。頭の芯が痺れていく。ああ。ああ。僕はどこにいるのかな。ああ。そろそろお茶の時間じゃないかな。屋敷に戻らなくてはね。ねえ兄さん、絵は描けたのかい、そろそろ引き上げようじゃないか。僕かい、僕はねえ、ほうらこんな大きなマスを釣り上げたんだよ。前のとは比べ物にならないほど大きいだろう! 料理番のミセス・ペンデルトンに言って香ばしく焼いてもらおう。エルザはお魚が好きだろう、アルベルト兄さんが釣ったんだよって言ったらきっと手を叩いて喜ぶね。ふふふ見せるのが楽しみだなあ。

 空のブルーに黄水仙のイエロー、ブルーベルのパープルカラーが交錯するパステルトーンの風景の中、それは春の昼下がりヴィンデクトの森で見た光景だったか、アルベルトは幸福を感じていた。それはいつも通りの、何も変わらず何もない幸福なのであった。
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