第5話

文字数 1,058文字

 かつてはお抱え運転手(ショーファー)にハンドルを握らせ、この車でよくピクニックに出かけたものだった。春になるとヴィンデクトの森には黄水仙が咲き乱れ、まるで鮮やかな黄色のじゅうたんを敷き詰めたかのようである。

「ジョン! ジョーーーン! こっち、こっちよ。早くいらっしゃいな」

「バウッバウッ!」

 愛犬であるラブラドール・レトリーバーのジョンと、満開の黄水仙をゆらしながら追いかけっこをして戯れる末っ子のエルザ。広げたブランケットの上には料理番のミセス・ペンデルトンの手によるキューカンバー・サンドウィッチとレモネード、白ワインにチーズ、ハムやアップルパイが並んでいる。

「エルザ、そろそろお腹が空いたろう。こっちに来て食べなさい」

 アルベルトが声をかけると  

「まだいいの! もうちょっと遊んでから!」

 匂い立つ黄水仙のあいだを縫うようにぴょんぴょんと跳ねまわるエルザ。

「まったく、エルザは食が細くて痩せっぽちなんだから。もっと食べるようになるといいんだけど、ねえ兄さん」

「そうだなあ、育ち盛りなんだし栄養をしっかり取らないと。活発でいつも走り回ってるおてんば娘のくせに、食べることには興味がなさそうで心配だよ」

 兄二十四歳、弟二十歳に対し末っ子のエルザは八歳とずいぶん歳が離れているため二人にとって妹はいつまでも赤ちゃん同然で、面倒を見てやるべきかわいい存在であった。だからついそんな心配もしてしまう。

「まあ病気もせずあれだけ元気なら、たぶん大丈夫なんだろうけどね」

 サンドウィッチをかじりワインに口をつけるウィリアム。

「そうだな、どうせ兄弟の僕たちが言ったところで聞かないんだからねあのおてんば娘と来た日には! いいさ、ぜんぶ食べちまおう」

 大口を開けてアップルパイをいっぱいにほお張りながらアルベルトが肩をすくめておどけると、兄ウィリアムも顔を見合わせて笑うのだった。
 あふれかえる黄水仙で霞んだ向こう側には飼い犬のジョンとエルザがちらちらと見え隠れしている。春の午後の陽射しはゆったりと暖かで、森じゅうがなんとなく眠たそうにあくびでもしているかのよう。小さなリスがすばしっこく木にのぼり、黄色と黒の縞もようをした丸っこく毛深いバンブルビーが低い羽音をさせながら、青紫色のブルーベルのまわりを蜜を求めてのんびり飛びまわる。

 ああそれは、なんと美しく平和で満ち足りた時間であったことか。それが今では、こんなことになるなんて……。

 車窓に流れる景色を見つめながらアルベルトの目からは、いつしか大粒の涙がとめどなく流れているのであった。
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