その①

文字数 2,872文字

 寝場打(ねばだ)市。千葉県の房総半島にその都市はある。この町の治安は、日本において一、二を争うレベルで悪い。だからなのか、

「寝場打市は、日本の国外にある」

 という不名誉極まりない噂まで流れているのだ。一説によるとこの地域のみ、日本国憲法が適応されないらしい。もちろんこれは嘘であるが、そう言われてしまうぐらいには、犯罪者が跋扈しているのである。
 この町で夜道を、女一人が歩いているのは、殺してくれと言っているようなものだ。そして今夜もOLが一人、息を上げながら家を目指して走っている。彼女は今日、どうしても残業をしなければいけなかった。だったら、会社に泊まればいいという意見もあるだろう。だが会社は会社で、警備員の不祥事が後を絶たない。結局、一番信用できるのは自分の家だけである。

「やばい…。まだ追って来てるのかな…?」

 そんな彼女は、当たり前のように変質者に追い回されており、自宅とは別方向に逃げなければならなかった。しかし、その逃げもまた危険。犯罪者がどこにいるのかわからないこの町で迷子になることは、青木ヶ原樹海に行くのと同義。

「…!」

 慌てて口を手で押さえた。

(いる! すぐそこに!)

 ここで彼女は、マズいことに気がつく。逃げ込んだこの曲がり角は、袋小路。逃げ場がない。前には壁があり、進むのは不可能。かと言って後ろも、ストーカーがいて通れない。
 普通なら警察に通報することが真っ先に頭を過るだろう。事実彼女もそうしようとしている。

「見つけたぞ、そこか! さあ、私の胸の中で一生を終えるといい…」

 だが、この町の犯罪者は無駄に洗練されている。電話のコール音で女性の居場所を突き止めると一気に距離を詰め、その手に持つ携帯を叩き落として踏み潰す。

「だ、誰か助けて!」

 こういう声には、誰も反応しない。それがこの町の常識だ。住民は、自分は巻き込まれたくないと思っているのだ。だから防犯ブザーが鳴ったとしても、誰も駆け付けてはくれない。その辺の小学生ですら常識と認識しており、防犯グッズにスタンガンが出回っているぐらいである。いくら声を上げようと、聞いてくれる耳がなければ無意味。

「怖がることはないぞ、お嬢ちゃん。私は初めてではない。だから楽しく傷つけられる。さあ、こっちに来てごらん?」
「う、うう…」

 女性は腰を抜かして、その場に崩れた。自分が殺される間際なのだ、もう立っている精神力はないだろう。目は涙で溢れている。
 月明りは無情にも、犯罪者の犯行に見て見ぬふりを決め込もうとしているかのように、雲に隠れようとしていた。

 その時である。
 突如、女性と犯罪者の間に、少年だろうか……若そうな人物が現れた。上から降って来たと言った方が正しい。彼はスチャっと綺麗に着地した。

「誰だお前は?」

 犯罪者はこの突然の出来事に、冷や汗の一粒も流さない。無駄に正義感の強い人物が犯罪を防ごうと動くことは珍しいことではあるものの、それを想定せずに犯罪を犯す輩はいない。彼らの頭の中にはマニュアルのようなものがあり、誰かが割り込んできたらこうする、と決まっているのだ。
 だからこの悪人も、すぐに予備のナイフを手に取ると、少年に突っ込んだ。まるで洗練された作業を行うかのように。

「残念だね。正義感ってのは、人を殺しやすい。その齢じゃわからないか……」

 実はこのセリフ、わからないかもしれないけどね、と続くはずだった。そうならなかったのには理由がある。

「な、な、なんだ…?」

 ここで初めて、この犯罪者の顔に汗が流れた。
 少年は、ナイフの刃の部分を握って止めた。だがその手の中からは血の一滴も流れださない。

「おい、お前…!」

 今度はナイフを引いてみた。通常、ここでスパッと手のひらが切れるはずだ。だが、そうはならない。ナイフの動きは鈍く、少年の手から出るまでに十数秒も要した。

「これは、私には通じないんですよ」

 ここで初めて少年が口を開いた。

「何だこれは…?」

 そのナイフの刃を見て、悪人は仰天する。刃が完全に錆びているのだ。

(馬鹿な…? さっき店で買ったばかりの新品だぞ…! 何故こうも切れ味の悪い状態になっているんだ!)

 優秀な犯罪者はここで、気がつくのだ。

(相手はヤバい。ここは逃げた方が賢明だ)

 と。事実彼もそうだった。だから反転し、走り出そうとした。しかし、足に力が入らないのだ。気づけば息が上がっている。

「な、馬鹿な? どうして、くそ! はあ、はあ、ち、力が、入らな…?」

 足が崩れると、姿勢を保てず体は地面に落ちる。這いつくばるしかできなくなってしまった。

「ぐあ、ああ!」

 その犯罪者の指を、少年は容赦なく踵で踏みつけた。

「その程度なんですか?」

 少年は犯罪者に語り掛ける。こう聞くと、犯罪者としてのレベルが低いという発言に聞こえなくもない。だが真意は違うのだ。

「もっと悲鳴を出せないんでしょうか? もっと大きな声は? 女性を襲う暴漢が、まさか自分は大きな声を出せないなんて情けないこと言いませんよね?」

 さらに踵をグリグリと動かす。まるで拷問のようだ。

「や、やめ……ろ…!」
「それはできませんねえ。だってあなたも、手を出そうとしたじゃないですか!」

 少年は女性の方を見た。怯えていて、目を背けている。

「この……ガキ、が!」

 犯罪者は最後の力を振り絞ったかのように、本命のナイフを取り出した。だがたかが刃物一本で形勢逆転できるのであれば、誰も苦労しない。

「おっと。これはもらいましょう」

 取り上げられてしまった。すると、ナイフの刃は瞬く間もなく錆びていく。ほんの数秒で、赤錆だらけのボロボロ状態。五時間前まで店頭に並んでいたとは誰も思うまい。少年がその辺に捨てると、刃は形状が保てず割れた。

「で、これでお終いでしょうかね?」
「う、うぬぬぬ…」
「では、残念。さようならです」

 少年はそう言い捨てた。すると犯罪者は、

「う………が……!」

 首を押さえて悶える。まるで呼吸ができなくなったかのようだ。そして数秒も経てば、その手の動きも心臓も完全に止まる。

「……死にましたか」

 背中を踏みつけ、心臓の鼓動を確かめると少年は犯罪者がこと切れたことを確認した。
 再度女性の方を見る。あれは、目の前で起こったことが信じられないという目だ。

「通報しても構いませんよ? 私はあなたには興味がない。コイツは死にましたし、今日はこの辺で」

 と言い、彼は地面を蹴ってジャンプする。その跳躍力は、にわかには信じがたいものだ。
 なんと普通にジャンプしただけで、少年は十数メートルも飛んだ。近くのビルの壁を蹴ると、さらに十数メートル。これを繰り返し、あっという間に屋上に飛び移ったのだ。

「け、け、け、警察!」

 女性は震える手で、通報した。
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