第55話 結-2

文字数 1,218文字

 アキオにとって、自分自身の物語のエンドロールはハッピーエンドでもバッドエンドでもどちらでもよかった。終活に失敗して絶望していた日に彼は死んでいたのも同然だからである。ただ、偶然文に拾われて彼は生き延びることができた。彼女のおかげで、生きることの喜びも苦しみも体験できた。だからこそ、彼の物語のエンドロールに彼女は絶対に必要だった。始まりに彼女がいて終わりに彼女がいないなんて、彼は、そんな物語は許せなかった。
 だから彼は展覧会の日時、場所を小さなメモ帳に書いて、彼女に渡しに行くことに決めた。後ででもなくて、明日でもなく今、彼女に渡しに行きたかった。まだ、展覧会で発表する作品のテーマは決まっていなかった。彼は、それでも一番に彼女に知らせたかったのだ。自分のフィナーレを彼女に見届けてほしいと思った。
 彼は小さなメモ帳を持って彼女のいるアパートに向かった。おそらく彼女はまだ仕事中だ。だから彼はついでに、彼女の部屋に残っている自分の荷物を処分しようと決めた。
 数年ぶりに訪れた彼女の部屋は相変わらず煙草臭かった。そしてその部屋の散らかり具合は、初めて彼が彼女の部屋を訪れた時のことを想起させる。
 彼は、以前まとめていた荷物を彼女のごみ屋敷からあさり、付近のごみ捨て場に捨てた。彼の荷物は前と変わらぬ場所に置いてあった。彼女はおそらく、彼がそっと荷物をまとめていたことすら気づいていない。
 彼は彼女が仕事から帰ってくるのをただじっと静かに待っていた。彼の帰りを知らない彼女は疲れ混じりの深い溜め息をついて、帰宅した。
 「おかえり、文さん」
 「わっ。何だアキオ来てたのか」
 何年も見ていないうちに彼女は少し老けていたが、相変わらず彼から見た彼女は美しく見えた。彼女の存在は一瞬で疲れ切っていた彼を癒してくれた。
 「今日は渡したいものがあってきたんだ。はい、これ」
 彼は彼女にあのメモ帳の切れ端を渡した。彼は彼女にこれが最後だとは言わなかった。彼女に伝える勇気は彼には持てなかった。最後まで彼は肝心なことは彼女に言えないままだった。
 「展覧会かぁ。絶対見に行くからね」
 何も知らない彼女は嬉しそうに冷蔵庫にその紙を貼った。そして、彼の帰り際に彼女は優しい笑顔で見送った。その笑顔を見ると彼は死ぬことが少し怖くなった。死んだら彼女に二度と会えなくなる、それがすごく名残惜しく怖かった。
 「絵、描くの頑張ってな。楽しみにしている」
 「僕、文さんに出会えて本当に良かった。ありがとう、行ってきます」
 彼女に実際会って話した時間はとても短い時間だったが、それでも彼にとってその時間は濃密で充実した時間となった。彼は彼女と離れる名残惜しさを必死に振りほどきながらアトリエへと向かった。彼は、展覧会までに仕事を終わらせ、展覧会用の作品も仕上げなければならないことを言い訳にして、彼にしがみついた死への恐怖から必死に逃げた。
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