第56話 結-3

文字数 762文字

 アキオは文に会ってから、仕事をしていても彼女の顔を忘れることができなかった。特に、彼が彼女と初めて出会った日のことを繰り返し思い出してしまう。彼は、展覧会の作品に彼女を描こうと、ふと思った。
 彼は展覧会までの期間、溜まっていた依頼をこれまでにないスピードで黙々と仕上げた。彼は展覧会の日をただ待っていた。彼は、彼女のあの印象的なベランダで煙草を吸う後姿を一筋の閃光の中に見た。彼はこれまでの彼女との穏やかな暮らしの日々、そして忙しなく流れたアトリエでの日々をその一瞬の閃光の中で振り返った。そして彼はその閃光の中でこれから彼が進んでいく未来をも感じることができた。
 彼女にまた展覧会に会うのだ、彼は何度も心の中で呟きながら、一筋の閃光の中で見た彼女の後姿を、大きなカンバスに描きこんだ。彼女との生活の全てをこの一枚の絵に詰め込んだ。
 彼は、絵具まみれの筆を力なく床に落とした。アトリエの教室には朝日が差し込んでいた。彼の全てを詰め込んだ作品ができた。彼はその瞬間、すべてのしがらみを手放せる気がした。死ぬことすら受け入れられた。
 展覧会前日に彼は作品を完成させることができた。彼はこの作品を彼女に託したいと強く思った。それからほどなくして、展覧会の準備をするためにアトリエのみんなが揃った。それぞれ教室に作品を持ち込んで、タイトルとコンセプトを書き込む用紙を記入した。彼はこの作品に「ぬくもり」というタイトルを付けた。彼女の姿を思い浮かべると、その言葉がふいに浮かんできた。彼はその用紙を記入し終えると、遺書なるものをひっそりと書き留めた。この遺書は彼女に宛てたものだった。
 彼は残りの準備をみんなに任せ、彼の終活の仕上げをした。彼は密かに市役所に行って戸籍を抜く手続きをし、スマートフォンの解約をさくっとした。
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