第34話 転-4

文字数 1,099文字

 1月23日、アキオの誕生日だ。文は、仕事帰りに彼が眠っていることを確認して、彼の枕元に用意しておいた誕生日プレゼントをそっと置いた。彼女にとってクリスマスも誕生日もちゃんと祝われたためしがないから、祝い事のプレゼントはサプライズだと思っている節があった。その辺は彼女らしくファジーなのであった。
 彼は日が昇ったころに目を覚ました。耳元で聞き慣れない乾いた音がした。枕元を見るとメッセージカードが貼り付けてある、丁寧にラッピングされたプレゼントが置いてあった。彼女の拙いお祝いメッセージと共に絵を描くためのセットが包んであり、彼は彼女からのメッセージを読んで、あの時の熱意を取り戻した。そうか、デッサンから始めればよかったのだ。彼はこれまで無駄に過ごしてきた怠惰な自分を悔いた。
 彼は仕事で疲れて寝ている彼女にそっと「ありがとう」と呟いて、早速履き慣れたスニーカーを履いて、近所のお気に入りの公園へと出向いた。
 足取りはいつも以上に軽かった。いつもは何も感じない朝日が、清々しく感じた。彼は生きていることを強く噛み締めていた。今日、絵を描いたら死んでもいいかもしれない。彼はそう考えていた。
 公園には小さな池があって、その畔には様々な小さい草花の芽が寒さに耐え忍んでいる。朝露に濡れるその草花の芽を見るのが彼は好きだった。だから彼は、思い出に残るようにその瞬間をデッサンに閉じ込めることにした。
 久しく絵を描いていなかったため、彼のデッサンはとても拙かった。彼はその出来に満足することはできなかった。まだ死ねない、もっと上手になってから死にたい。彼は実力不足を痛感した。それから彼は、アルバイトの時間以外は絵を描くことに専念することを決意した。
 彼が家路につくと彼女もすっかりと目を覚ましていた。24時間営業スーパーの半額のオードブルと昨日彼女が内緒で作っておいたレアチーズケーキが小さな机の上に幅広く並んでいた。
 「お帰り、アキオ。そして、誕生日おめでとう。プレゼントは気に入ってくれたかい?」
 「文さん、ありがとう!僕、文さんのおかげでこれからやらなきゃいけないことが見えてきたよ。プレゼント、本当にありがとう」
 彼はそして、テーブルに並んだごちそうを見て、小さな子供のようにはしゃいでいた。彼もまた誕生日をお家できちんと祝われたことがなかったため、彼女の心遣いがとても嬉しかったのだ。
 「このケーキ、もしかして文さんが作ってくれた?」
 「そうだよ。この前、アキオにバレるかと思って冷や冷やしたさ」
 こうして、二人だけのささやかなバースデーパーティーは温かく幕を閉じた。
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