第22話 承-16

文字数 1,833文字

 文は、彼女が小さな頃も、彼女の住むこのアパートの近くに3人で暮らしていた。彼女の父は物理学者で、彼女の母もまた社会学者だった。それゆえ、生活には苦労はしないほどではあった。しかし、彼女の両親は研究第一で、彼女の世話は全くしていなかった。服は2着しかなく、ご飯は二日に1回出てくれば、まだマシな方だった。いわゆる彼女の親は育児放棄をしていた。何度もあなたなんて生まれてこなければよかったと言われ、両親の仲も険悪だった。ただただ憎まれ口をたたかれてばかりの彼女には、生きる意味なんて分からなかった。
 しかし、そんな彼女にも心の支えとなる居場所はあった。
 「おじいちゃん!今日も来てやったよ!」
 「文ちゃん、こんにちは。今日も元気そうでよかった。オムライス作っておいたからお食べ」
 5歳の彼女は60代くらいのスキンヘッドの細身のおじいちゃんになついていた。この人は別に彼女の血縁者といった関係はない。たまたま彼女の家の近所でバーを営んでいる、ただのおじいちゃんだった。
 彼女がなついているこのおじいちゃんは、一週間ほど何も食べていない彼女が、栄養失調で道端で倒れていたところを偶然見つけて助けてくれた。それからおじいちゃんは彼女の親がネグレクトなのだと薄々気づいて、彼女を見かけるたび、おにぎりやお菓子の差し入れをするようになった。それから彼女が彼のバーに寄り付くようになるまでそう時間はかからなかった。
 彼女が小学校に上がってからは、彼女にとっておじいちゃんが彼女の保護者のようになっていた。授業参観についても、彼女は親に来てもらうよりもおじいちゃんに来てもらいたくて、わざとそのお知らせを親に渡さず、おじいちゃんに見せていた。
 おじいちゃんは、彼女の話を何でも聞いてくれた。時にはやんちゃをしてグレた彼女を厳しく叱ってくれもしたし、高校受験に成功したときは一緒に泣いて喜んでくれた。おじいちゃんの存在は彼女にとってかけがえない存在だった。しかし、彼も年だ。彼はガンを患ってしまった。長い闘病生活を余儀なく宣告され、彼はバーを閉めざるを得なかった。彼の血縁者は彼の店を快く思っておらず、店を閉めることを喜んでいたらしい。
 彼女が見舞いに来るたびに気丈にふるまっていたおじいちゃんだったが、無理をしていたのだろう。彼は長い闘病生活を送ったが、結局、帰らぬ人となった。しかし、最期の最期には、彼女に見守られながら穏やかに眠った。おじいちゃんの最期の顔は、とても安らかだった。やりたいことをやって、残したい人に店を譲れたからだと思う。そこにはたくさんの苦労もあったと思う。だけど彼はそれを乗り越えて築き上げた達成感というものがあったように思われる。
 彼の残した遺言には、彼女におじいちゃんのバーを譲ると記されてあった。その文言は彼の親戚たちにも知れ渡っており、血縁者でもない彼女が何故その店を譲られなければならないのかと文句を言っていた。それでも彼女は、大好きだったおじいちゃんが遺してくれた最後のプレゼントだったから絶対に失いたくはないと思った。彼女は将来そのバーを継ぐ決心をした。
 彼女は、彼の親戚からそのバーを守るために必死に勉強をした。大学では経営学を学びながら、そのバーの存続方法を必死に考えた。大学を出てからは、彼女はバーテンダーとして修業を重ねた。資格も取って一人前といえる状態になって、やっとおじいちゃんの店をリニューアルして開いた。最初は怖かった。初めてなのに、自分自身が一人でオーナーとしてやっていけるかとても不安だった。最初のうちは客足も遠く、泣いて過ごすことも多かった。周りの人たちは、若いのによくやるわといった風に馬鹿にもしていた。それでも彼女はこのバーを失くすことの方が怖かった。おじいちゃんとの思い出が全部失われそうで。だから、毎日毎日必死に店を続けた。少しずつついてくれる常連さんに心を救われていた。そして、一番の彼女の支えになっているのは、亡くなったおじいちゃんの言葉だった。
 おじいちゃんは、そのバーは文の好きなようにしなさい。一緒に働きたいと思える信頼できる者と一緒に店を創っていきなさい。文にとってそのバーが必要なかったら捨てなさい。これからそのバーは文のものだからあなたの自由にしなさいと遺していた。
 彼女は、だから今日も笑顔で接客ができるのだ。命懸けでこの店を守りたい、彼女はただそれだけが生き甲斐なのだ。
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