第37話 転-7

文字数 2,005文字

 彼は、彼女の店の経営を立ち直らせるために、新規の客の確保と常連の呼び戻しが必要だと気づいた。彼はこの店のサービスが充実していることは承知していた。毎週金曜日は最初の一杯半額、新規さんはチャージ料無料、誕生日の人は一杯無料、毎週水曜日はレディースデーで一杯3割引き等々、彼はアルバイト初日にこれらを彼女に覚えさせられた。
 彼はこの店で働き始めて、それほど長くはないから、まだまだ彼の見えていないこの店の魅力を他者の視点から取り入れることにした。特に常連客はそれぞれの視点で何かしら魅力を感じているから、この店に通ってくれているわけで、彼はその理由を聞かないわけがなかった。彼は3連勤するようにして、その中で聞き込みを試みることにした。
 一人目の常連客は、毎週金曜日に来る関口さんだ。彼は、細身でいつも上品なかっちりとしたスーツを着て来店する。彼はいつも難しい名前のウイスキーロックを頼んで帰る。アキオは、文に彼へお酒を提供することを頼まれたので、その隙に聞き込みをした。
 「失礼します。モルト・ウイスキーロックでございます……あの、1つ聞いてもよろしいですか?」
 「ありがとう。聞きたいこと?何だい?」
 優しく微笑む関口さんは快く受け入れてくれた。
 「あの……関口さんは、どうしてここへ通ってくれるんですか?」
 「うーん、文ちゃんが綺麗だからとか?でも、一番は、彼女が作る酒がとても美味いことだね。何でも、彼女はバーテンダー世界大会で3位を取ったらしい。その他にも、ビール検定やワインソムリエの資格も持っているようだよ」
 彼は彼女の新たな一面を教えてくれた。彼女の作るお酒の腕がいいから、彼は通ってくれているようだった。
 翌日、彼は豪勢なターコイズブルーのドレスを身に纏った、常連の緑川さんに聞き込みをすることにした。彼女は見るからにマダムといった風貌で、それでまた、彼女は気さくでよく喋る方だった。
 「失礼します。マティーニでございます……一つお伺いしたいことがあるのですが、よろしいですか?」
 「あらやだ。イケメンの君が、あたくしに聞きたいことなんてあるの?いいわ、何でも聞いてちょうだい」
 「ありがとうございます。緑川さんがここへ通って下さる理由を教えてもらえませんか?」
 「そんなの決まっているでしょう。サービスが充実しているからよ。ここのお店、腕がいいのにサービスまで気が回っていて素晴らしいわ。後は、静かだけれどアットホームな空気がある所かしらね」
 「ありがとうございます」
 連勤最終日。彼は連日の昼夜逆転生活に体力の限界を感じていたが、彼女の店にどうにか恩返しをしたいという気持ちでこの日も乗り切った。この日は珍しく店の電話が鳴った。
 「アキオ、例のあの人だ。行って来い」
 「はい」
 電話の受話器を置いた彼女は、彼に迎えの指示を出した。彼が迎えに行かなければならないその客は深瀬さんといい、方向音痴が故に、いつもあと少しというところで道に迷っては店に電話をかけてくる常連さんだ。彼は腕のいいバイオリニストなのだが、いつも顔を出すときはへべれけに酔っている。この日彼は、店のある所から少し離れた川のほとりの草むらに突っ込んだ状態で、アキオに発見された。
 「深瀬さん、お待たせしました。お店、あっちなので行きますよ」
 「んぁ?文ちゃんは?文ちゃんはここに来とらんのか?」
 彼は毛量の多いアフロをボリボリ掻きながら大きな声でアキオに尋ねた。
 「文さんは、お店で深瀬さんのことを待ってくれていますから」
 「おお、そうか!文ちゃーん、愛してるよー!」
 近所迷惑にもなりかねない大声で彼は叫んでいた。そんなに細い体で、どこからそんな大きな声が出るんだと、アキオは呆れていた。
 「深瀬さん、一つ質問していいですか?」
 「おう、何だい」
 「深瀬さんは世界中忙しく回っていらっしゃるのに、どうしてこの店に足を運んでくださるんですか?」
 「それは勿論、文ちゃんに会いに行くためだろう!寧ろ、文ちゃんのいないバーなど行く価値がないとまで思っている!」
 「あ、はい。分かりました。ご協力ありがとうございました。はい」
 彼の意見は参考にならないなと、アキオは彼を店に運ぼうとした。
 「でもなぁ、あのバーは少し場所が分かりづらい。何か目印があってもいいと思うんだ。例えば!文ちゃんのブロマイドとか!」
 「はいはい」
 アイドルかよと彼は内心ツッコんだ。だが、深瀬の観点は鋭く、アキオも、あの店は少しわかりづらい場所に位置しているから目印が欲しいと思った。
 この日も、深瀬は更にへべれけになり、文へのラブレター等と訳の分からないことを叫びながらバイオリンを弾いて帰っていった。黙って演奏すれば文も少しは振り向いてくれるかもしれないのにとアキオは心の中で思った。
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