第29話 承-23

文字数 532文字

 彼はあの展覧会から帰ってからも、絵に対するどこにもやりようのない冷めやらぬ熱がまだ残っていた。さっさと彼女にその熱を吐いてしまえばいいが、また、あの時みたいに反対される怖さが邪魔をしてどうしようもなく、夕飯の支度をする彼女の背中をただ眺める事しかできずにいた。
 何事もいつ始めても遅くはない、なんて言葉はあるが、その始める勇気を持つことが一番至難の業で、彼はずっと立往生していた。反対されることの恐怖、20代になってから無難な道を捨て新しい道へ進む不安が邪魔をする。彼は自分の決断力のなさを悔いた。すでに彼女は仕事へと出ていた。彼はそんな自分に嫌気がさした。そしてやけになって冷蔵庫の中にある彼女の缶ビールを一つ取り出し、それをベランダで一気に飲み干した。夜風が少し冷たく心地が良かった。空気が澄んでいるのか、漆黒の空に無数に散らばる星屑が美しかった。彼は、彼女がよくここで、一人で缶ビールを飲んでいる理由がなんとなく分かった気がした。スッと彼の中で不安と恐怖が、ビールに苦みと共に溶け込むように体の奥底に落ちていった。そして、そっと彼は新たなスタートを切る決意をした。
 「よし」
 彼は缶ビールの残骸を握りつぶした。彼の瞳には金星がやけに輝いて見えていた。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み