17-2

文字数 5,076文字

 朝、と一言で言い表すべき時間帯。朝の陽ざしに連れられ、例えば数時間前に寝ている夜更かしな人間以外ならば、毛布を捲って上半身を起こす時間帯。静流が時計を見れば七時を針が指していた。あくびと共に起き上がって顔を洗い、苦手な味の歯磨き粉を嫌々歯ブラシにつけて念入りに洗う。
 朝の支度を済ませた後は部屋を出て、リビングに向かう。リビングには父の正人まさひとと母のアロマがいて、窓から入ってくる日差しと同じくらいの温かさが二人の表情に宿っていた。
「おはよう、静流。おいおい、まだ寝ぐせがついてるじゃねえか」
 正人は人の身なりに厳しく、ちょっとした粗相を見逃さない。それを鬱陶しく思う日も多かったが、その日に限っては静流は嫌な感情を抱かなかった。
「ごめん、父さん。すぐ直したいんだけど腹ペコだよ」
「そりゃ、自慢の母さんの手料理が目の前にあるんだもんな」
 広々としたリビングの中に納まっている、楕円形のキッチンには土鍋が置いてあり、豊かな香りを連れて湯気が換気扇に冒険に出掛けている。目の前のダイニングテーブルには、アロマが誇る最高級の味が敷き詰められた料理の数々が並んでいる。真っ先に目に入ったのは、タンドリーチキンだろうか。
 十二歳でありながら、静流はこう思っていた。朝から重いものを食べたくないなあ……。
 しかし体は正直なもので、レストランのような香りに包まれると空腹だと脳が告げる。静流は自分の腰掛けの白い革製の椅子に座り、フォークを手にした。
 キッチンで土鍋の火を消していたアロマも椅子に座った。
「さて、それじゃあいただきましょうか。記念すべき、静流の初任務成功の翌朝を迎えられたことに」
「記念パーティは昨日やったばかりじゃないか」
 静流の反論に、アロマはこう返した。
「あら、別にパーティは一回やったら終わりではありませんわ。それに昨日はたくさん人がいて、家族だけでのパーティではなかったでしょう」
「そりゃ、そうかもしれないけど」
「これから大変になっていくのですから、せめて少しでも楽しい時間を多く過ごしたいな、私。正人も、そう思いますでしょ」
 突然話を振られた正人は、その場凌ぎだと誰でも分かる簡単な相槌を打った。
「とにかく食べようぜ。俺もこの後すぐ出かけなきゃならんし、こんだけ多いと食べきれるかどうかも分からん」
「ええ? この量を食べきるおつもりですか?」
「その予定なんだが」
「それはなりません。お昼も夜も作らないようにと思って用意したのですから。これから更に夕食も作れなんて、あまりに酷ですわ」
 テーブルの上には大皿と小皿が混雑している。
「静流も、腹八分目までですよ」
「分かったよ」
 美味しく料理を食べられることを神に感謝した後、黒川家では食事が始まる。今日も例に漏れずそうやって朝食は始まり、アロマの思惑通り多くの料理が残ったまま終わることになった。静流は満腹感だけが残り、水を飲んで休憩していると正人が仕事に向かった。
 朝の薬を飲み終えた静流は自室に戻り、座学に勤しんだ。学校に通えなかった静流は、独学で一般常識を身に着けている。アロマは家庭教師を雇おうと色々働いたようだが、ロシアンマフィアと繋がりのある黒川家に好んで入り浸るお人好しは見つからなかったようだ。
 最初の方こそアロマが静流に数学や物理等を教えていたが、もともと教師としての才能がないアロマにとっては疲労がたまる一方。静流は彼女の労を知って、独学が好きなのだと嘘をついてここに至る。
 コミュニケーション能力はまったく鍛えられないが、静流は自分の使命にその能力は必要ないと感じていた。ボスの命令を聞いて、実行するだけ。
 二時間座学、二時間トレーニング、一時間休憩。その後の三時間は戦闘や拷問、サバイバル術等仕事で使える術を学んだ。それは映画やドキュメンタリー番組から学ぶこともできるし、図書館の本やマフィアの気さくなおじさんからくれた本から学ぶこともできる。
 そうして一日の半分を過ごして夕方になると、静流は家事の手伝い。買い物に出掛けたり、庭の草むしりをしたりといった体力を用いた家事を手伝った。
 自由に過ごせるのは二十時を過ぎた頃だ。二十時には父親が帰ってきて、遅い夕食をアロマと食べる。稀に昼に帰ってくる時は、三人で食卓を囲む。その日も、正人は二十時前に帰ってきた。
 最初、自室の扉が蹴破られるように開いた時は静流は敵襲だと勘違いした。目の前に立っているのが息を切らした正人だと知るも、警戒心は赤い警告を鳴らし続けていた。
「静流、今すぐここを出るぞ」
「何かあったの」
「やらかしたんだ。マチルダファミリーに勘付かれた。あのファミリーは俺の家を知っている。必要なものだけ持っていけ、あとは家に――」
 正人の話を遮るように、玄関の方から銃声が聞こえた。その後、すぐに数人分の足音が聞こえる。
「くそッ。静流、すぐに屋根裏部屋に走れ。アロマはどこだ?」
「多分、お風呂に入ってると思う……けど」
「分かった。屋根裏にいったら何をするかは分かるな」
 恐ろしい、ただその感情だけが揺れ動く中、静流は頷いた。
「よし。走れ、この場は俺が食い止める」
 一階の自室から飛び出して、静流は二階、三階へと上った。三階を上り切った突き当りの部屋は両親の寝室で、その左側壁には隠し扉がある。静流は飾られていた「快楽の園」と呼ばれる観音開きの絵画の中心を指で押した。独特の絡繰りで道が開け、奥に屋根裏部屋までの階段が見えた。静流は急いで振り返って扉を閉め、階段を駆け上がった。
 殺風景な屋根裏部屋の窓は開いていて、寒気が流れ込んできていた。外を見れば、どうやら雪が降っているようだ。
 上品な悲鳴が床下から聞こえてきた。アロマのものだろう。十二歳で様々な知識を学んでいた静流は、風呂に婦人が入っていた場合、男のマフィアがどのように料理するかは想像がついていた。恐怖からくる吐き気を耐えながら、静流は呼吸の仕方を思い出そうと努力していた。
 何発かの銃声が鳴る。その音が父の銃から鳴るものか、敵の銃から鳴るものかは分からなかった。
 正人も、アロマも生きていてほしい。静流は切なる願いを神に言い聞かせた。その間にも、銃声の応酬は続く。
(相棒、落ち着け!)
(落ち着いていられない!)
(もし家族を助けたいなら、お前が頑張るしかないんだ。敵はお前に気づいていない、周囲に武器になりそうなものはないか探して、見つかったらそれを持って戦うしかない)
(相手の情報は何も分からない。三人以上いるかもしれないのに)
(大事なものを守れなかった時、一番後悔する方法を教えてやるよ。助けられたかもしれないのに、何もしなかった時だ!相棒、そんな後悔はしたくないだろ)
 自分が動けば、家族は助かるかもしれない。
 無数に蠢く虫のような恐怖心が、静流の勇気を遮っている。
(相棒、お前は腑抜けじゃない。目の前の人間を守れる勇者になれよ!)
 その時、脳裏に蘇ったのは父の言葉だった。正人が仕事から帰ってきて、珍しく一緒にマフィアの映画を見たのだ。静流はタイトルさえ忘れてしまったが、結婚式のシーンが異様に頭に残っている映画だった。その映画を見ている時、父親がふとこう言ったのだ。
「静流、もし武器のない中で戦場に行けって命令が出たらどうする」
「そんなの、生きられる気がしないよ」
「それがな、生きられるんだ。プロの殺し屋っていうのが使うのは銃だけじゃない。そこらへんに落ちている石ころだって使う。つまりな、周りにあるものを使うんだ。その事を念頭に置いておけば、どんな絶望的な状況からも脱せる。これ、死んでも覚えておけよ」
 かつての正人の言葉に勇気づけられた気がして、まだ震える足を立たせることにした。
 屋根裏の電球に明かりをともして薄明かりの中、殺風景で寒い空間を歩き回る。
(その意気だ、相棒。そこにマイナスドライバーが落ちてるぜ!)
 殺傷力の高い武器になる。静流はマイナスドライバーを手にして、他にも武器がないかを探した。藁にも縋る思いで見つけたのは、ワインの瓶だった。二年前、アロマから酒をやめろと言われていた時期が正人にはあった。その時に隠していたものなのだろう。静流は二つの武器を持つと、屋根裏部屋の階段を下りて、壁に耳を当ててすぐそこに誰もいないことが分かると、そっと壁を押して表に出た。
 だが、見通しが甘かった。すぐ真横にサングラスをかけた黒服の男が立っていたのだ。
「おま――」
 叫ばれる前に、静流は反射的に男の喉にマイナスドライバーを刺していた。血を噴き出して地面に倒れた男の服から拳銃を頂戴し、酒瓶片手に腕を交差させて照準を安定させながら、静流は階段を下りていく。だが、背後にあった寝室の扉が突然開いた。
(俺に任せろ、相棒!)
 主導権を彼に譲った静流の体は、階段の太い手すりに足を乗せて、酒瓶で男の手首を殴って銃を落とし、その銃を足で蹴飛ばすと瓶の口元で喉を突いて声を封じ、続けざまに鳩尾を突いた。蹲うずくまる男の額に踵で蹴りをいれ、男はその場で動かなくなった。
(よし、体を返すぜ)
(助かったよ、ありがとう……!)
 足音を殺して階段を降り、二階で静流に背中を向けている男の喉にマイナスドライバーを突きさし一階に下りた。
 廊下に出て、リビングの扉が閉まっていることを確認した静流は、感覚を研ぎ澄ませて、少なくとも自分の周囲十メートル以内とバスルームに誰もいないだろうことを認識し、唯一明かりのついていたリビングの扉を、気付かれないように少しだけ開けて耳を澄ました。
 聞き慣れない、低い男の声が聞こえてくる。
「黒川さん。私は別に、あなたを誤解しているわけじゃない。今まで様々な任務で暗躍していたことは、私クラスになれば簡単に知れるものですから」
 本名が知られている。殺し屋は、仲間でさえも本名を明かすことは少ない。
 そもそも家の住所を知られているという時点で、マチルダファミリーがただのマフィア組織でないことは明らかだった。
「で、どうしますか。私も鬼じゃない。他の人間ならば、今ここであなたも、奥さんも死んでいたでしょうね」
 そこに正人がいるのだろうが、彼は殺し屋らしく沈黙を貫いている。
「だが私は取引を申しだした。もう一度、内容の確認が必要ですか?」
 アロマもリビングにいるはずだ。問題は、敵の人数が分からないことと、どこに誰がいて、どの武装をしているのかが分からない。
(相棒、音を聞け。声の主の声の響き、他の男の出している足音から大雑把でもいいから距離を掴むんだ。そして――いけない、相棒後ろだ!)
 静流が振り向いた時には既に、何もかもが遅かった。一瞬だけ香った、甘いジャスミンのような匂いが脳を混乱させた。
 相手は片手で静流の二つの手首を上に持ち上げ、銃と酒の瓶を地面に落とした。豪快な音が鳴ると、リビングの中の声は少しだけ止んだが、すぐに声は再開した。
「フフ、大した子ね」
 耳元の囁き。静流は目の先にいた相手が女性だと知ると、尚更に混乱した。
 目が細く、黒い髪はウェーブがかっていてうなじまで伸びている。秘書のように黒いスーツを身にまとい、彼女は互いの息が触れ合うところまで顔を接近させると、突然、唇を重ねてきた。
 静流が抵抗しようと暴れたが、女性の舌が口内に侵入し、抵抗力を削ぐ。唾液が絡み、静流は頭の中が恐怖の色で染まっていった。相棒が何かを叫んでいても、甘い時間に蕩けて、目の前がホワイトアウトしそうだった。
 唇が離れると、彼女は微笑みながらこう言った。
「思ったより可愛い子でよかったわ。少しは楽しめそうね」
 黒いスーツを脱ぎ、白のワイシャツのボタンを外し。彼女はわざと吐息を静流に浴びさせて、静流は両腕が解放されているのだから、どんな抵抗もできたはずだ。だというのに、体が麻痺してしまったかのように、言うことをきかない。
 彼女が静流の下着に手をかけようとした時、どこからともなく黒い塊が見えた。その黒い塊は彼女の頭の横にあって、目がハッキリしてくると塊は銃口であることが分かった。
「君のような美女は打ちたくない。手を上げて、そこを退きたまえ」
「もう、いいところだったのに……」
 五十代くらいの男が、若い男を引き連れて立っていた。
「静流、もう大丈夫だ。後のことは私に任せなさい。怖い思いをさせてしまって、すまなかったね」
 頭に、皺しわだらけの手が乗った。その後に男たちはリビングの中に入っていくと、何発かの銃声が聞こえたのである。
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